プロローグ

 永禄三年五月――、尾張国おわりのくに(※現在の愛知県西部)。

 迫る季節に、最後まで枝に踏みとどまっていた桜が散り、初夏の訪れとともに届いたしらせは、きよじよう・清州城の家臣団をしんかんさせた。

 これまで、いくとなく尾張近くまで侵攻してきていた駿河するが(※現在の静岡県中部)の今川軍が、今川義元自ら軍を率い、近くまで攻め上ってきたという。

 問題は、今川軍の数である。

 報せではその数、二万五千。

 対する織田軍はどんなに兵をかき集めても、二千がやっと。

 悲愴感が漂う中、信長だけが楽しそうに笑っていた。


 ――また笑っておられる……。


 織田家家臣にして、信長とは幼少の頃からの仲であるいけつねおきは、そんな主君の表情を見てあきれつつも、ついにそのときがきたのだと実感した。

 今川義元と対戦し、撃破することは、信長の夢だったからだ。

 かくて清州城を出陣した織田信長率いる二千の織田軍は、陣が置かれることになるぜんしようとりでへ向かった。

 その途上、織田軍は尾張・熱田神宮での必勝祈願に立ち寄った。

 しかし、この日の空はにびいろに染められ、回復する兆しは一向にない。


 ――雲行きが怪しくなってきたな……。


 恒興は空を見上げ、眉を寄せた。

 空の色を見ていると、まるで己の心まで曇りそうになる。

 はたして二万五千の今川軍に、勝てるか否か――。

 昨日まで晴れていたというに、天も過酷さを強いてくる。

 約六万坪(※約十九万平方メートル)という境内には、樹齢千年を超えるらしいくすのきが生い茂り、にわかに吹いてきた湿った風に、もつこうもん永楽通宝えいらくつうほうの旗印も揺らめいた。


 ――信長さま……。


 恒興は、信長の背を正視せいしした。

 黒の甲冑に緋の外套がいとう(※マント)を背に纏った信長は、拝殿の前に立っている。

 思えば十歳で信長に仕えて十五年――、信長の乳兄弟でもある彼はずっと信長を側で見てきた。苦しいときも楽しいときも、常に――。

 そんな信長の背を見つめる恒興の隣に、そう言って重臣の一人が立った。

此度こたびの戦、難しいものとなろう」

「佐久間さま」

 のぶもり――、恒興同様、信長が幼少の頃から使える家臣の一人である。

 信盛の声は小声ではあるが、その声ははっきりと恒興に届いた。


「我々が負けると、言われるのですか?」

「そんな事は言ってはいない。だが、我軍が圧倒的不利であることは事実だ。相手はあの今川義元、我が織田とは因縁浅からぬ男だ。ついに尾張まで攻め上ってきたからには、よほどの自信があるとみえる。それに比べ我軍は、今川軍の数を聞くやどいつもこいつも自信なさそうな顔ばかり。これで勝てると思うか?」

 佐久間信盛の問いに、恒興は答えられなかった。

 確かに今川軍の数を聞いた家臣団は、諦めの表情をしていた。

 恒興でさえ、不安に駆られていたのだ。

 

 尾張はかねて、今川と対立関係にあった。

 きっかけは、信長の父・のぶひで西にしかわへいへの進出に始まるという。

 当時三河(※現在の愛知県東半部)を領していたのは松平氏だったそうだが、駿河国の守護大名・今川に組するようになったらしい。

 そして信秀率いる尾張・織田軍を迎え撃つべく出陣してきたのが、東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元だという。

 この今川義元こそ、三河の松平氏が組みしたという駿河の守護大名である

 両者が激突したのは天文十一年年八月、岡崎城東南のずきざかだという。

 この戦いは織田軍の勝利に終わったらしいが、同年三月再び小豆坂において激突、だが今川・松平連合軍に敗北したという。以降、今川との因縁は続くことになったらしい。


 信秀ででさえ苦戦を強いられたという、今川軍。

 信長にすれば父・信秀以来の因縁の相手であり、宿敵である。

 佐久間信盛の言う通り、今から不満そうな顔をしていては最初から負けたのと同じこと。

 そしてこの戦いに後ろ向きな家臣団の中、やる気になっている男が一人いた。


「勝ちましょう! 池田さま」

「利家」

 かつて犬千代と呼ばれていた織田家小姓の青年は、現在は前田利家と名を改めていた。

 二十一歳となった利家だが、口調は犬千代時代そのままである。


「お前は昔から変わらんな……」

「ですが、大将首は譲りませんよ」

 にっと笑う利家に、恒興の心は少しは軽くなったような気がした。

 恒興にとっては主君であり、乳兄弟でもある人物――、織田信長。

 その表情は伺い知れないが、少なくとも家臣たちのような不安な顔はしていないだろう。

 決して勝つことを諦めず、どんな相手にも向かっていく。

 それが、恒興の知る信長だ。

  

 思えば信長には敵は多くても、味方は少なかったように恒興には感じられる。

 今や尾張一国の主となった信長だが、それまでの尾張は織田一族が分裂した状態にあり、その関係は良好なものとは言えなかった。


 それでも、信長は自由であった。

 大うつけと周囲から揶揄されても彼は気にすることなく、好奇心旺盛で破天荒で、そしていつも笑っていた。


 ――勝三郎(※恒興の通称)、俺には夢が三つある。

 

 この戦いの前――、信長は月を肴に盃を傾けつつそう口にした。

 信長いわく、一つは尾張を一つにすること、二つ目は今川義元の首を取ることだという。

 あと一つは何なのかと恒興が問うと「天下でも取ってみるか」と笑っていた。


 はたして本気だったのか、冗談だったのか、いまもそれはわからない。

 ただ戦いにおいて、信長は常に本気だった。

 これから二千あまりの軍を指揮して、今川義元と戦わねばならない。

 一軍を指揮する大将である彼に、不安な表情は許されることではないだろう。軍の士気が落ちるばかりではなく、大敗を喫し、多くの兵をも失うことになるのだから。

 恒興は視線を、信長の背に戻した。

 自分は、なにを弱気になっていたのだろう。

 主君のため、この命をかけて戦うと決めたのに。

 ならば、なにを恐れることがあろう。

 信長は決して諦めてはいない。


 ――今川義元の首を取る。


 その夢が叶うか否かは、この戦いで決まる。

 強きものが生き残る戦国乱世――、戦いは知恵を巡らすときから始まっているという。

 そう、この瞬間から。


(信長さまなら、天下を取ることも成し遂げるでしょう。この池田勝三郎恒興、何処までもお供致しまする)

 

 恒興の覚悟は決まった。

「殿!」

「狙うは今川義元の首一つ!!」

 信長は声を張った。


 駆け出す騎乗の信長の背を、恒興も追う。

 これから先も、困難が待ち受けているだろう。

 それでも彼はいつものように不敵に笑って、打破するだろう。

 彼らしいと言えば彼らしいが、無茶苦茶なこともしばしばあるゆえ、恒興はそれが困るのだが。

 といって信長の性格は変わるわけがなく、恒興はもはや呆れつつも従うのだ。


 あの日――。


「勝三郎、行くぞ!」

 初めて信長(※当時は吉法師)と対面した日、彼は恒興を外に連れ出すべく手を差し伸べてきた。

 唖然する恒興だが、その手を取った日から二人の歩みは始まったのだ。

 なにごとにも、決して諦めない信長。

 その背を追い続けてきた、恒興。

 世は主君と言えど、家臣によって首が討たれる下剋上。

 裏切りなどは珍しくはなく、実際に織田家家臣でも裏切り者は出た。

 敵方の調略もあるが、自身の決断の場合もあるようだが、恒興はどんなに信長に振り回されようと背を向けようとは思わなかった。

 二人の絆は、いくら天が荒れようと裂くことはできないだろう。

 そしてどんな障害も、信長を止めることはできないだろう。


 これは、ほんの始まり。

 二人はまだ、夢の途上。

 信長は既に、今川義元を倒したあとの未来を見据えているようだ。



 ――これは若き織田信長が乳兄弟かつ家臣・池田恒興とともに、数々の困難に遭いながらも夢を叶えていく数十年間の物語である。

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