第8話 私とマサル

 そうか。ケイは隔離されていて近づけない皇子の魂を交換するために、こちらの宙に接触したのだ。

 後部座席を振り返ると、マサルが車から降りようとしていた。

「おお、皇子、危のうございます!」

 気づいたケイが叫び、私も車から降りて、歩道を駆け出したマサルを追いかけ、ケイと一緒に彼のシャツを掴んだ。研究所前の歩道は広くて、暗くて、ひとけが無い。その真ん中で彼は脱獄に成功した囚人みたいに、両手を上げて天を仰いだ。


「これが多元世界か!?いま余は別の存在になっているのか?ここでは余は神の末裔ではないのか!?」


 周りを見回し、自分の顔や体をなでまわしている。私は努めて静かな声で言った。

「ここは私の多元世界です。あなたは私の夫の魂と交換され、夫は一般人です」

 マサルは感極まった顔で私を見つめ、目に涙を浮かべた。喜んでいるようにも、愕然としているようにも見えた。


「なんと…なんと。多元世界は本当に存在した。魂の交換は本当に可能であった」


 え?そこ?いまさら?


 魂の交換は向こう世界ではあたりまえのことで、皇子はそれを可能にする装置の研究をしていたはず。ケイを見ると、やはり驚いた顔で皇子を凝視している。


 マサルは真剣なまなざしで虚空をにらみ、こぶしを握った。

「エクスチェンジャーの組織は社会をだまして思想を押し付けるための陰謀ではないかと疑っておったのだ。エクスチェンジャーにしか見ることのできない他世界の教訓を様々に持ち出し、文化や技術を排斥し、あるいは権威付け、人々を窮屈な社会に押し込めていく。しまいには王家が途絶えれば国が亡びるなどという脅しで余を世間から隔離した。その検証のために余はエクスチェンジャーに拠らぬ魂の交換が可能かを研究しておった」

 私は宙に通じる妥協を知らない魂を前に圧倒され、彼がいままで抱えてきた鬱屈と、ひとり挑んでいた研究の目的を理解し、心を握られるような愛着を覚えた。


「エクスチェンジャーをそのように見ておられたとは…」

 ケイがつぶやいた。

「そちがエクスチェンジャーなのだな。まずは礼を言いたい。余に魂の交換を体現してくれたこと、感謝する。積年の懸念が一瞬で氷解した。して、余をここに呼び出したことには、いかな目的が?」

 私はマサルの前に進み出た。

「私はそちらの世界に呼び出され、あなたの妻を見つけるまで帰さないって言われたの。それなのにあなたは、まったく結婚する気は無いって言ったそうね。だから直接話させてほしいって頼んだの」

 夫の姿をし、一般人に憧れているらしい皇子さまに、精一杯タメ口をきいてやった。するとマサルは気を悪くした風でもなく、まじまじと私の顔を見た。

「頼まれたから?ずいぶん律儀な慣習の世界なのだな。そちがこの世界で余の妻…前々回に見合いした女人にょにんと同じ顔をしておる。だから、あの女人が呼ばれたのか」

「頼まれたからだけじゃなくて、あなたが心配になって…」

「余が、おぬしの夫と同じ姿だからか」

「魂もとても似ているわ」

「ふむ。交換可能なくらいだからな。しかし余のような偏屈が他の世界にもおって、そちのような普通の女人と夫婦となり、どのように生きておるのか。余もそちに問うてみたい」

 そうきたか!と、あぜんとした。実際もう離婚するところだと告げたら、この男はやっぱりなと言って、一生、女を遠ざけるのだろうか。そんなのは、悔しい気がする。


「おふたかた。移動しますよ!」

 横からきびきびとした声をかけられて、私はぎょっとケイを見た。

「川合さん?」

「ふふ。正解」

 川合慧が戻って来ていた。

「車の運転は僕じゃないとできないからね。とりあえず駅まで送るために帰ってきた」

「お疲れ様です」

 苦笑してねぎらった。慧は気にするなと言うように、私の腕をポンと叩き、なぜか自分の右手を見た。何か違和感があるというように。



「では、話が終わったら、僕の携帯にメッセージよろしく。ただし僕はこれから東京に帰って、明日は品川の事務所で午後6時まで仕事。それまではエクスチェンジャーに来られたら迷惑だから。枝見さんなら、こっちの都合を考えてくれるよね」

 駅まで送ってくれた慧は、私とマサルを降ろし、見送りぎわにそう言った。

「あ、はい。了解です。今日はいろいろありがとうございました」

「ふふ。君は巻き込まれただけなのに」

 そうか、と私は目をしばたいた。なにやらマサルをこちらに呼び寄せた、この激しい展開は、私の意思に他ならない気がしている。

 慧の車が去り、私はマサルと駅に取り残された。この沿線に私と宙が借りているマンションがある。私は覚悟を決めて彼をその部屋に連れ帰った。

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