Case.25 病院報告

Case.25 病院報告


 『仲間はずれ』のない状態で展示会は継続された。『穿つ』の宣伝効果もあってか、それなりの集客はあったようだ。無名の作家たちの展示会としては、大成功と言えるだろう。

「大成功は良かった、けど」

 ジュンはドアの前で立ち止まる。ドアの横にあるプレートには『辰巳』と記載されている。辰巳の病室だ。

 お見舞いには行っても行かなくてもいい、とリクは言った。行きたいのなら行けばいい。止めはしない。改変対策課の課員としてできることはなくとも、塩谷ジュンとしてお見舞いの気持ちを伝えることはできる。

 ただ、ジュンはリクの言葉の中に潜む悲しみが見えた。行ってほしくなさそうなその声音の意味を問いただしても、リクはそんなことはない、と答えるだけだった。

 お見舞いに来ると決めたのは自分なのに、病室の前でうじうじしている自分が情けない。ジュンは拳を握りしめて、ドアをノックする。ただし、ノックする強さは加減した。丁度良い軽い音がした。

「はい」

「塩谷だけど、入ってもいい?」

「……いいよ」

 少しの逡巡の後に、辰巳から許可が出る。ジュンは気が変わらないうちに、中に入る。恐れているのは、自分の気が変わることなのか、辰巳の気が変わることなのかわからなかった。

「これ、お土産。良かったら、食べて」

「ありがとう。うわぁ、マカロンだ。マカロン、好きなの」

「なら、良かった」

 ジュンは布団が掛けられている辰巳の足の上に持ってきたお土産を置いてやる。お土産は春日と相談してマカロンにした。箱には丸っこいカラフルなマカロンの写真が並んでいる。

「……悪いけど、開けてくれる?」

「あ……うん、何味がいい?」

「モモがいいな。モモ、好きなの」

 ジュンは少しだけ失敗したことを悟った。辰巳の右手には包帯がぐるぐると巻かれている。ギプスも一緒に巻かれているのか、辰巳本来の手よりだいぶ厚みがある。大理石でできたバレリーナの足が突き刺さった怪我だ。

 これではせっかく差し入れをもらっても、包装を解くことさえ難しい。個包装のビニールを開けることさえできない。

 ジュンは辰巳の足の上に置いた箱をサイドテーブルに置き直す。わくわくと箱の中身を子供のように見る辰巳に見えるように、箱を開ける。中にはマカロンが可愛らしく鎮座しており、見るだけで楽しい。

 ジュンは個包装を開け、辰巳の左手に渡す。辰巳はマカロンのかけらがシーツに落ちないように、慎重に食べる。

「塩谷くんも何か食べなよ。こんなに一人で食べたら、太っちゃう」

「そう? じゃあ、俺はブドウ味でももらおうかな」

「どうぞどうぞ」

 紫に着色されたマカロンは、しっかりとブドウの爽やかで甘い匂いがする。

「右手、どう? 痛む?」

「痛くないよ」

 ジュンは用意してきた質問を投げかける。辰巳も包帯が巻かれた右手を振って、無事をアピールする。

「病院、退屈じゃない?」

「大袈裟だよね。こんな怪我くらいで」

「お医者さんの言うことは、聞いておいた方がいいよ。先輩の警察官とか、逆に健康になって退院したこともあるし。それに、利き手がそんなんじゃ、家事とかもできないじゃん。しばらく入院していた方が楽じゃない?」

「家事は元からほとんどしていないから、あんまり変わらないかも」

 ジュンは辰巳の部屋を思い出す。綺麗に整理された居住空間は、あまり使われていないからだったのかもしれない。――家事をするよりも、彫刻をしていたのだろうなとジュンは想像する。

「右手は……もう元のように動かないって言われたの」

「そっ……か」

 辰巳の右手に突き刺さった大理石は、右手の人差し指に繋がる骨を貫通していた。骨は砕けていたらしい。手術で右手を開いて、骨をつなぎ合わせるほどの大怪我だ。右手だけとはいえ、単純な怪我ではない。

 当然、神経も断裂している。ギプスが取れてからじゃないと正確なことは言えないが、少し麻痺が残るだろうとのことだ。

 どれだけリハビリをしても元のように動くことは、もうない。辰巳の右手が、人間以上に完璧に作られたバレリーナを彫ることは、もうない。

 辰巳の芸術家としての人生は、完全に終わった。ジュンはいたたまれない気持ちになる。辰巳の異変に気がつくことができれば、こんな終わり方しなかったのかもしれない。

 だけど、辰巳は生きている。芸術家として終わったとしても、これからの人生は長い。これからの人生についての話を、ジュンは持ってきた。

「これから、どうする? 何かしたいこと、ある? 俺、今、警察から出向しててさ。文化庁にいるんだけど、怪我とかで故障して続けられなくなった芸術家に、職業の斡旋もしてるんだ」

 ジュンはカバンからパンフレットを取り出す。カラフルな写真付きのパンフレットには、スーツを着た女性や制服を着た男性が映っている。ジュンは事前にパラパラとパンフレットを見てみたが、文化庁の事務職員や、美術館の清掃員、コンサートの補助まで、幅広い職種が掲載されている。

 改変対策課の事業の一環だ。辰巳のようにディストーションを起こした当事者だけではない。ディストーションの被害者への救済として、就職支援を展開している。

 右手が自由に動かせなくとも、就ける職業はたくさんある。辰巳なら、どの仕事でもそつなくこなせると思う。

 辰巳は広げられたパンフレットを無表情で見つめる。未だに、自分が芸術家を続けられなくなったことが受け入れられないのかもしれない。情熱を燃やした十数年が無駄になる。この先に描いていた夢が儚く消える。それを、受け入れなければいけない。挫折を飲み込むのは、酷く苦しい。言葉で言うのは簡単だが、心は拒絶する。

「入院中に急いで決める必要はないけどさ。参考にして」

 あくまでこれは参考だ。もちろん、ジュンが持ってきた就職支援のパンフレット以外の会社に勤めたっていい。

「ねぇ、塩谷くん。どうして?」

「どうしてって、何が?」

「どうして、そんな酷いことを言うの?」

「酷い、かな?」

「酷いよ。私、まだ芸術家諦めていないのに」

 ジュンは気がついていた。酷いことを言っている自覚がある。辰巳は未だに芸術家を諦めていない。辰巳は未だに夢から覚めていない。そのことに気がついていながら、ジュンは見ないフリをして、早く夢を諦めろと言っている。

「……私は早く退院したいの」

「うん」

「早く退院して、彼女たちを彫りたいの」

 辰巳は目を閉じる。作品のアイデアが次々に浮かんでくる。手元に石とノミがないのがもどかしい。すぐにでも頭の中にある彼女たちを、現実に連れてきてあげたいのに。早く踊らせてあげたいのに。

「だけど、もう右手は使えないんだよ?」

 ジュンは諭すように辰巳の右手を握る。硬いギプスの感覚が、現実の厳しさを突きつける。

「右手がダメなら、左手で彫ればいい!」

 辰巳は左手を握りしめ、布団に振り下ろす。

「早く退院したいの。早く退院して、左手で彫る練習をしたいの。病院じゃ、ノミどころかナイフの一つだって、鉛筆の一本だって貸してくれない」

 辰巳は左手を開く。毎日毎日、左手を動かす練習をする。左手の指が滑らかに動くように、指先を動かす練習をする。

「最初の頃よりはだいぶ動かせるようになったの」

 ジュンは滑らかに開いたり閉じたりする辰巳の左手を見る。ピアニストに負けないほどの滑らかさで、左手は自由自在に動いている。

「塩谷くんはディストーションに関係する部署に配属になったんでしょ? 松原さんが塩谷くんの上司なんでしょ? あの人がいろんなことを決定しているの?」

「いや、違うけど。リクさん――松原さんは、普通に平社員みたいなもんだから、決定する権限とかないよ」

 辰巳はジュンを見つめる。ジュンは辰巳の瞳の奥を見る。辰巳のお見舞いに行くと言ったジュンを送り出したリクの声に、ほんの少しの悲しみが滲んでいた理由がようやくわかった。

「じゃあ、松原さんよりも偉い人にさ、塩谷くんから私が病院から早く退院できるようにお願いできない?」

「……ごめん」

 辰巳は未だに芸術家を諦めていない。何も変わっていない。早く退院して、またバレリーナを彫りたいと思っている。

「今度はディストーションにならないように気を付けるから、ね」

「ごめん」

 ディストーションにならないように気を付ける。それは本心だと信じたい。だけど、信じることはできない。

 辰巳のお見舞いに行く言ったジュンに、リクは教えてくれた。

 作者の意思でディストーションが起きた場合は、新しく作られた作品もディストーションになる可能性が極めて高い。

 仮にディストーションにならないように心がけて作品を作ったとしても、作者自身はそれで満足しない。一度『完璧』が作れてしまった芸術家は、もう一度完璧を追い求める。結果、最初はディストーションしなくても、またしても同じようにディストーションの道を辿る。

 ディストーションしないように気を付ける、気をつけないの話ではない。

 辰巳は、一生彫刻をしてはいけない。

「どうして? どうしてダメなの? 私、もっといろんなバレリーナを作りたい。もっともっと、彫りたいの!」

「ごめん」

 ジュンは立ち上がる。一瞬躊躇ったが、枕元にあるナースコールを力強く押す。

「嫌! 彼女たちが言っているの! もっと踊りたいって、もっと自由になりたいって! それを叶えてあげないと!」

 辰巳の頭の中で踊る大理石でできたバレリーナたち。彼女たちは辰巳に訴える。早く私を彫って。早く私を自由にして。バレリーナたちは愛らしく、美しく、辰巳に笑いかける。辰巳はそれに答えてあげるために、この世に生きている。

 辰巳の手に当たったマカロンが、床に散らばる。慌ただしい足音と共に医者と数人の看護師が駆け込んでくる。辰巳の目に恐怖が浮かぶ。

「また来たの? 止めてよ! 私、どこも悪くないわよ! 注射なんてする必要、どこにもないわ! 止めて! 助けて、塩谷くん!」

「ごめん」

 辰巳の訴えに、ジュンは謝るしかない。

 看護師たちは暴れる辰巳を押さえつける。医者が辰巳の血管に注射器を突き立てる。液体がゆっくりと入っていく。辰巳はしばらくして、脱力する。薬の作用で眠ったのだ。

「すいません」

 ジュンは医者と看護師に頭を下げる。医者はあまり興奮させないでください、と疲れたようにジュンに注意する。ジュンはもう一度謝る。看護師たちは迷惑そうな目をジュンに向けて帰って行った。

 ジュンはベッドに横たわる辰巳を見る。散らばったマカロンを拾い上げて、サイドテーブルに並べる。マカロンにはヒビが入っている。けど、きっと辰巳はおいしそうに食べてくれるだろう。

 ジュンは病室を後にする。廊下は長く続いている。隣の病室からも、先ほどの辰巳と同じように叫び訴える声が聞こえる。

 ここは精神科の病院。辰巳は手の怪我で入院している訳ではない。ディストーションを生み出した芸術家は、総じて精神的に不安定だ。だから、入院し、経過を見る。

 ここに入院している限り、ノミはおろか鉛筆一本さえ与えられない。自分自身や医者や看護婦を傷つける恐れがあるからだ。

 辰巳が退院する方法は簡単だ。芸術を諦めること。一生、ノミを手に持たないと決意を固めれば、いつだって退院できる。

 だけど、それこそが何よりも難しい。

 ジュンは騒がしい病室の前を通り過ぎる。一つ、サイドテーブルに置かずにもらってきたマカロンは、バナナ味だった。

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