Case.23 理想主義
Case.23 理想主義
「辰巳さん、落ち着いてください。ディストーションは本来有り得ない現象なんです。有り得ない現象を起こしている石像を人前に展示することはできないんです」
「どうしてですか! 動いている彼女たちを展示することの、何がそんなにいけないんですか! これこそが、彼女たちの本来の姿なのに!」
「彫像が動き出すとわかれば、世界中が大混乱に陥るからです」
「混乱? するでしょうね。だけど、そんなの一過性のものでしょう」
「一過性ではありません。最終的には、芸術全てが禁止される可能性を含んでいる。あなたのディストーションをここで見逃せば、その他大勢の芸術を見殺しにすることに繋がる」
「違うわ! 芸術の可能性を殺しているのは、あなたの方よ!」
辰巳は彫りかけの石を手に取る。
「松原さんも芸術家なんですよね? 今も、芸術を諦めていない。だって、ほら。爪の間に墨がこびりついている。水墨画ですか?」
「そうです」
リクは自らの手を見る。爪を綺麗に整え、手を綺麗に洗う。だが、墨が取れることはない。毎日筆を握る指に墨がこびりついてしまったのは、いつからだろう。
「なら、わかるはずです。あなたも自分の芸術が動き出したらいいのに、と思ったことがあるはずです」
芸術家なら、ほとんどの人が感じたことがあるはずだ。自分の作品が動き出したら、もっと面白いのに。
「否定はしません」
リクも思ったことがあることは否定しない。自分の書いた絵が和紙の中で、和紙を超えて動き出したら。魔法の世界のようなことが、現実に起きたら。きっと楽しい。表現の幅がもっと広がる。
「けれど、『穿つ』を思い出してください。『穿つ』のように、人を攻撃するものだってある」
「害を与えるものは規制する必要があると思います。けれど、それ以外は認めるべきではないですか?」
「認められません」
はっきりと答えるリクの前に、ジュンは立つ。
「……俺も疑問です。『穿つ』は人を襲う危ないディストーションでした。けれど、これは、『仲間はずれ』は誰も傷つけていない。それなのに、ダメなんですか?」
ジュンも疑問に思っていた。仕事だからと無理矢理自分を納得させていたが、それでも疑問は消えない。
どうしてディストーションは全て禁止されているのか。害にならないディストーションであれば、例えば『仲間はずれ』のようにただ美しいだけの芸術であれば、許可されてもいいのではないだろうか。
ジュンは辰巳にバレリーナが入った箱を手渡す。辰巳は箱を慈しみを持って抱える。
「リクさんに言っても、無駄なことはわかっています。リクさんだって、命令で動いている。俺だって、仕事と言われれば、おおよそのことは疑問を挟まずにやります」
警察にいるときに身についたジュンなりの処世術だ。疑問に思っても、飲み込んで仕事をすること。いちいち疑問を挟んでいては、捜査の邪魔になる。人命に関わるときは、疑問を持つ暇さえない。
どれだけの凶悪犯が目の前にいても、証拠がなくては逮捕できない。その仕組みに異論を唱えるよりは、証拠を集めて逮捕状を取ることに時間を費やした方が良い。
「それでも、疑問を持ったまま仕事をするのは気持ち悪い」
逮捕状を取る手間があるのは、誤認逮捕を減らすためだ。容疑者の自由を制限する逮捕はそれなりの手続きを踏むことで、無実の人の権利を尊重する意味がある。
では、ディストーションは? 多くの芸術を守るため、というのはわかる。人を傷つける恐れがある場合もあるというのも、実際に見た。
だが、動いている『仲間はずれ』を見た時に思った。
「俺は芸術なんて、ほとんどわかりません。ゴッホとバッハの違いもわかりません」
「そこはわかっておけ。ゴッホは油絵、バッハはバロック音楽だ。全然違う」
「そんな俺でも、動いている『仲間はずれ』を見た時、感動しました。もっともっと、見てみたいと思いました」
「塩谷くん……」
辰巳の目に涙が浮かぶ。辰巳の芸術を真の意味で理解してくれる人が一人でもいることが嬉しい。
「辰巳さんと俺の言っていることは、何か間違っていますか?」
「……間違っては、いないのだろうな。素晴らしい作品をもっと作りたい、もっと見たいという思いは間違っていない」
「じゃあ、どうして!」
「どうしようもないからだよ」
ジュンの訴えに答えるように、リクは腰に刺さった筆を引き抜く。いつも振り回している巨大な筆ではない。普通のサイズの筆だ。細筆ともいえる毛量の筆をここで手に取るのは、どうしてだ。
「ディストーションは芸術ではない。これまでも、これからも。だから、秘密にされている」
「どうしてですか!」
大声を上げたのは、辰巳だった。リクの持つ筆に何か嫌な予感を感じたのだろう。リクの右手に掴みかかろうとする。
「私の『仲間はずれ』は! 私の作品は、どうしてこのままの状態で、魂が入った状態ではダメなんですか!」
「それ以上はお答えできません。俺からあなたに言えることは、ディストーションを解除するには、あなたが作品に『動かないでほしい』と願えば、全て丸く収まるということだけです」
辰巳は一歩後ろに下がる。
「……よ」
「え?」
辰巳がぼそりと言った言葉を、ジュンは聞き逃してしまった。リクも眉をしかめているから、同じく聞こえなかったのだろう。
辰巳が足を踏み出す。分厚く降り積もっている石の粉が宙に舞い、図らずともジュンとリクの目を潰す。
「嫌よ! 私は、ようやく自分の理想に辿り着いたのに! それを手放せというの? 絶対に嫌!」
辰巳は頭を振り乱す。
「た、辰巳さん! 落ち着いて!」
ジュンは辰巳を落ち着かせるために、肩を掴もうとする。だが、辰巳は振り払う。
「――っ!」
ジュンの手から血が滴り落ちる。辰巳の手には、ノミが握られている。ノミで、ジュンの手の平を切り裂いたのだ。
研がれた刃ではない、鈍い刃で抉られるように切られた手は無遠慮な痛みを訴える。
「わかった! そうよ! あなたたちが秘密にするのなら! 私たちが表に出て行けばいいのよ!」
「止めてください」
興奮する辰巳をリクは冷静な声で宥める。だが、逆効果だったようで、辰巳はノミを大きく振り回す。
「私たちはもっと自由になれる。私たちはもっと自由に舞い踊ることができる。私たちはもっともっともっと! 自由に飛び回ることができる!」
「辰巳さんっ!」
辰巳の興奮は、狂気の域に達する。ノミを振り回す手も危ない。ジュンは辰巳を両腕で押さえ込む。警察官として鍛え、訓練を受けているジュンでも、リミッターを外した人間は簡単に取り押さえられない。
ジュンは撥ね除けられて床に転がる。
「ぐぅっ!」
辰巳はジュンの腹の上に馬乗りになる。
「塩谷くんも邪魔をするのなら……!」
ジュンの顔めがけて辰巳のノミが振り下ろされる。
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