Case.16 残業勉強

Case.16 残業勉強


 リクはたいてい残業をしている。だけど、時間外手当はほとんどもらっていないようだ。それは、改変対策課がブラック体質で、サービス残業という名の賃金不払残業を強いているのではなく、リクが時間外手当の支給を辞退しているからだ。

 リクは、自分が遅くまで残っているのを『勉強のため』と言い張る。賃金不払残業を強いているブラック企業は従業員をこき使う場合に、同じような言い訳を従業員に強いているが、リクの場合は本当に『勉強のため』に執務室に残っている。

 森田と庶務係が協力して、何とかリクに時間外手当を支給しているらしい。支給しないと、違法労働をさせたとして森田のクビが飛びかねない。リクとしては、本当に自分のために残っているのだから不要なのだが、もらわないとそれはそれで面倒なことになる。渋々時間外の記録を付ける。

 だが、今日に限っては、定時に帰るようだ。

「リクさーん。どうしてですかー」

「今日は帰ると何度言ったらわかるんだ。お前も帰れ」

「そんなぁ。せっかく、ジュンくんが本気のやる気を出したのに」

「もっと早くに本気のやる気を出しておけば良かったな」

 ジュンは余程のことがない限り、定時に帰ることを心がけている。警察官の時代からだ。年配の警察官の中には、長く残ることを美徳としている人もいた。

 だが、ジュンは無視して帰っていた。未だに長く残ることを美徳としている人は、総じて出世が遅いことに気がついたからだ。彼らに気を遣って長く居座るよりも、早く帰ってドラマを見ていた方がマシだ。刑事モノのドラマを見る方が、時代遅れのおじさんを見るより楽しい。

 改変対策課でも同じように、定時に帰っていた。改変対策課の人たちも、余程のことがない限り早く帰るようだ。たまに『余程のこと』があれば、帰れなくなることがあるからこそ、普段は定時で切り上げる。メリハリが付いている。ジュンものびのびと帰ることができる。

 だけど、今日くらいはリクと共に勉強をしたかった。一人で勉強しようにも、どこに資料があるのか、そもそもどんな資料を参考にすればいいのか、ジュンには検討もつかない。改変対策課はたくさんの芸術品を保管しているだけでなく、資料もまた膨大に所蔵している。資料室も案内してもらったが、ジュンが目を回すくらいにはたくさんあった。

 だから、リクに教えてもらいたかったのだけれど。

「今日に限ってどうして……」

「朝から大変な労働したからな。お前も早く帰って休め」

 リクには、ジュンが本気で『穿つ』のディストーションを見抜けなかったことを後悔しているのが伝わっている。いつもは仕事中もおちゃらけた雰囲気が抜けないジュンだが、午後からは少し姿勢が変わった。軽い雰囲気はそのままだが、ピリッとした緊張が感じられた。その緊張感がジュンの本気であることに、リクはすぐに気がついた。

 ジュンが本気になってくれたのは嬉しい。だからこそ、今日くらいはゆっくりと休んでほしい。後悔をして反省するのは大事だ。だが、いきなり飛ばしすぎては、息切れしてしまう。

 特に今日のような事件があったときは、気持ちが昂ぶっているから普段はしない努力だって無理をしてできてしまう。だけど、それは疲れてしまうだけで、長続きしない。

 今日は早く帰って身体も精神も休ませた方がいい。

「そうですけどぉ。けどぉ」

 ジュンにもリクの意図は伝わっている。

 本当は、今日もリクは残って勉強をしたかったのだろう。だけど、リクが残ればジュンも残ることがわかっているから、今日は早く帰るのだ。

 お互いがお互いに気を遣っているからこそ、どちらも譲れない。平行線を辿っていた二人に決着を付けたのは、ジュンのスマホだ。ジュンのスマホが着信を知らせる。

 画面を見ると、辰巳からの電話だ。ジュンはリクに断り、電話に出る。

「塩谷だけど、どうした?」

『良かった。塩谷くん、出てくれて。……その、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、今から会えない?』

「今から?」

 ジュンは横目でリクを見る。リクは何としてでもジュンを帰すつもりだ。意地の張り合いでリクに勝てるほど、ジュンは気が強くない。辰巳の相談も気になる。

「大丈夫。どこで落ち合う?」

 ジュンは辰巳とのアポイントを取り付ける。辰巳は展示会が催されている美術館にほど近い店を指定した。ジュンは店名を復唱し、今から向かうと告げて電話を切る。

「デートのお誘いか?」

「だから、俺たちはそういうのじゃないんですって」

「そういう反論が出てくるということは、辰巳さんか」

「うわっ、誘導尋問上手ですね」

 デートかどうかの確認は、電話の相手が誰なのかを知るための罠だったようだ。警察官をしていたジュンよりも、リクの方が誘導尋問に手慣れている。

「ちょうどいいじゃないか。息抜き……になるかわからんが、楽しんでこい。ただし、『穿つ』の件は何も言うな」

「ディストーションは秘密、ですもんね」

 ディストーションも改変対策課も秘密だ。ジュンは展示会が臨時休業になったことも知らないことにしておいた方がいいだろう。

 リクが片手を挙げて、改変対策課から出て行く。どうやら本当に今日は帰るようだ。ジュンは机の上に飾っていたお手製のバレリーナを手に取り、改変対策課を後にした。

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