Case.15 報告反省
Case.15 報告反省
森田はジュンとリクを別室に呼び出した。今日の朝に起こった『穿つ』のディストーションの詳細について聞くためだ。
森田の手にはジュンが書いた報告書がある。リクの決裁が通った報告書は読みやすい。だが、記載されている内容はあくまで表面的なものだけだ。
文化庁長官、もっと大きな事案では総理大臣まで報告がいく。赤裸々に全てを書くわけにはいかない。それが政治というものであり、駆け引きだ。馬鹿正直では生きていけない。
悲しいかな、全ての省庁には政治が付き纏う。改変対策課だって例外ではない。政治のために、課長の森田の腹の中に留めておかなければならない情報だってある。だから、報告書は表面的な情報だけにとどめ、もっと踏み込んだ内容は課長自らが聞き取りをしている。
「報告書を早く上げてくれてありがとう。助かった」
「いえ」
森田の言葉に、ジュンは言葉少なく返す。感謝の言葉の割りに、森田の表情は固い。
「怒っている訳ではないし、塩谷くんを叱責するために呼んだのではないよ。もっと気楽にしてよ」
「ありがとうございます」
それでも、ジュンの緊張はほぐれない。隣に立つリクの眉間の皺が、いつにも増して険しいからかもしれない。
だが、それも仕方のないことだろう。
「塩谷くんの知っていることを、最初から話して」
「はい」
ジュンは時系列に沿って話を始める。昨日、展示会に行ったこと。そのときには、『穿つ』は動いていなかったこと。展示会を見たであろうカップルがディストーションらしきことを話していたこと。
ほとんど全て報告書に書いてある。だが、そのときジュンがどう感じたのかまでは書かれていない。その書かれていない心情を、森田は聞きたい。
森田は時折質問を挟みつつ、報告書の内容を頭の中で補足していく。ジュンの報告はわかりやすい。報告書を書くときに内容を整理しているのもあるだろう。警察官として、完結でわかりやすい報告をするように訓練されているのがよくわかる。報告書を書くのが下手だとリクは溢していたが、書くのが苦手なだけで、話すのは得意なのかもしれない。
「だいたいわかった。もう一つ、確認させてほしい」
そして、この質問が一番大事だ。
「塩谷くんは展示会で『穿つ』を見た時、ディストーションの兆候はわからなかった?」
「それは……」
ジュンは言い淀む。怒られるのが怖いから言い淀んでいるのではない。それでも、言葉にするのに躊躇する。
「塩谷くん」
森田はジュンを促す。ジュンは唇を舐める。
「わかりません」
「わからないというのは?」
「覚えてないです」
ディストーションについての知識はある。展示会場に入る前にも、ディストーションがあるかもしれない、と考えた。
だけど、考えただけだ。ディストーションの兆候がないか注意しよう。事前にSNSで人気の作品を調べてからいこう。作家がどのような人物なのか把握しておこう。
そういったことは全く考えなかった。ディストーションがあるかもしれないとただ怯えるだけで、何も考えずに展示会場を見て回った。いつか地震が来ると知ってはいるが、実際に避難経路を確認しないのと同じだ。ディストーションを知っているだけで、何か対策を取ろうとは考えなかった。
だから、入り口に展示されている『穿つ』を見ても、『この熊の彫り方好きだな』と思いはしても、ディストーションの可能性があるとしたらどういうものだろうと考えはしなかった。
ディストーションの可能性を探る意識がなかったから、ディストーションの兆候があったのかと聞かれてもわからないし、覚えていないとしか言いようがない。
「なるほど。わかったよ」
これ以上聞いても、ジュンを追い詰めるだけだろう。森田は質問を切り上げる。
「展示会は今後も続行される。第二係が改めて展示を確認したところ、他の作品でディストーションの兆候は見られなかった。今日は展示物に不具合があったとして臨時休業しているが、明日から通常通りに展示を再開することが決まった」
「『穿つ』はどうなりますか?」
「引き続き、展示を続ける。ディストーションは解除された。松原くんと塩谷くんの処置が良かったから、そのまま展示を続けても支障はない」
「けど、私が削った部分もありますよ」
「課長は『展示物の不具合』と言っただろう。『熊は突然倒れた。その衝撃で、展示会の準備に来ていた人を下敷きにした』不具合で処理された。その際、作品に血が付着した。そして、作品は『血を削って再度展示される』という処置がされる」
リクが補足する。
『穿つ』にはジュンが手を加えた。血で汚れた熊の手を削った。リクが手を加えた部分もある。屈強な上半身を支えることができない貧相な下半身は、戦闘の最中に自らの自重により折れた。折れた部分を、リクは接着剤で貼り合わせ、貼り合わせた部分が目立たないように絵の具で着色した。
ジュンとリクの手によって手が加えられた作品。それを再展示する。
「けど、作者はそれで良いんですか?」
「実際に作者に確認してもらったが、この方針で構わないとのことだ」
「……」
作者が構わないと言ったのであれば、それ以上ジュンに言えることはない。だが、胸の中にわだかまりが残る。
「この件については、以上だ。二人とも、時間を取って悪かったな。突然のことで疲れただろう。今日は早く帰って身体を休めた方が良い」
話はここまでというように、森田が立ち上がり退出する。リクも続いて出るかと思ったが、椅子に座ったままだ。上司であるリクが動かない以上、ジュンも同じように待機するしかない。
森田が充分に会議室から離れたのを待ったのだろう。リクはすぐには口を開かなかった。
「……正直、お前には失望した」
リクの言葉は平坦だ。だからこそ余計に、リクが心からジュンに失望したのが伝わる。
「改変対策課に来てから日が浅いとはいえ、それなりにディストーションの現場に連れて行ったし、いろんなパターンを見せてきたはずだ。勘も悪くない」
芸術が動き出すという非現実的な現象を、ジュンは驚きつつも受け入れた。初日に屏風から出た虎を見た後でも、御朱印のように地味な仕事をこなした後でも、改変対策課の仕事に真摯に向き合っていた。
やったことがほとんどない彫刻にも意欲的に取り組んでいたし、リクがダメ元で勧めた展示会に行って、解説本まで買ってきた。
ジュンは本気で改変対策課の一員として活躍しようと努力していたのはわかる。だからこそ、落胆が大きい。
「改変対策課の仕事は、決して遊びではない」
リクの言葉がジュンを刺し貫く。遊びだと思ったことはない。とは言い切れないからだ。
ディストーションという未知の現象を知って興奮していた。ごく少数しか知り得ない情報に優越感を抱いていた部分もきっとある。不思議なドアを潜り、様々な事件を未然に防ぐ興奮もあった。執務時間に彫刻をしていても良いという自由な環境も楽しかった。
ジュンが、改変対策課の仕事が遊びだと思っていた部分は確かにある。だって、普通の仕事をしていて、彫刻をする時間なんてない。そんなもの、余暇の範囲だ。
改変対策課に異動になって、大変という思いよりも楽しいという思いの方が強かった。気が緩んでいたという指摘を、ジュンは黙って受け入れるしかない。
「……起きてしまったことは仕方がない。これからは、気を付けてくれ」
「はい」
「もうすぐ昼休みだ。早めに休憩に入ってもらって構わない」
リクはわざとらしく会議室にかかる時計を見上げる。ジュンにクールダウンの時間を少しでも与えるためだ。身体を休めるために『帰ってもいい』と言うことも考えたのかもしれない。けれど、『帰っていい』と言えば、ジュンが更に傷つくとわかっているのだろう。だから、せめて早めに休憩するように促す。
「ありがとうございます」
リクの心遣いを、ジュンは素直に受け取る。リクはジュンを置いて会議室を出て行く。
「ああぁぁ……」
ジュンは一人になった会議室で、頭を抱える。情けなかった。
自分一人だけ警察出身で、身体能力に自信があったのも、逆に芸術に自信がなかったのも関係しているのだと思う。芸術の知識がなくとも役に立てるのが嬉しかった。知識がないのに、わかったつもりで芸術を見ていた。中途半端な自信ほど、危険なものはない。
「――よしっ」
ジュンは両頬を叩く。バシリという音と共に、鋭い痛みが走る。昨日のことをもう一度思い出す。どれだけ情けなくとも、自分の失敗は直視しなければならない。どこかで起こるかもしれないディストーションの兆候を見逃さないように、反芻しておきたい。
昨日ジュンが見た時は、確かに『穿つ』は動いていなかった。ディストーションの可能性を見逃したとしても、『動く』というディストーションの結果はさすがにわかる。
動き出したのは、やはりジュンが見終わった後、カップルが話をしていた頃からだろう。カップルの話が聞こえた時点で、もう一度見に戻れば良かった。
ディストーションという現象は知っていたし、今回の展示会でも起こるかもしれない可能性も視野にいれていた。
だけど、心のどこかで、例えば人が怪我をするような大きな事件は起こらないだろうとタカを括っていた。動いたとしても、例えば彫像の手の角度が変わるとか、顰めっ面をしていた顔が笑っているだとか、そういう穏やかなものだと思っていた。
売れない作家の展示会だからという油断もあった。ディストーションは大勢に見られることによる、認識の歪みから発生すると言われていたからだ。来場者の少ない展示会で、ディストーションは起こりにくいと思っていたのがそもそもの間違いだった。
考えれば考えるほど、ジュンは自分の考えの浅はかさが頭にくる。
リクが言っていた言葉が身に染みる。『俺にとって美術館は仕事の場であり、勉強の場であり、趣味も兼ねているからな』。誇張ではなく、事実。リクは美術館に行って鑑賞するだけではなく、ディストーションの兆候がないかのパトロールも兼ねているのだろう。
改変対策課は常に人材不足。だから、趣味で行く美術館だって、たとえオフだとしてもディストーションの可能性がないかを確認する。
公私混同で、休日にも仕事のことを考えろだなんて今どきブラック企業と言われるかもしれない。だけど、リクが進んでパトロールをしているのは、それだけ改変対策課の仕事に誇りを持っており、ディストーションによる被害を本気でなくしたいと思っているからだ。
「負けだ」
勝負をしていた訳ではないけれど、負けたと感じる。リクの本気に、ジュンは全く歯が立たない。何度も馬鹿と罵られる訳だ。
ジュンは目をきつく瞑る。昼休憩が終わるチャイムがなる。ジュンは立ち上がり、会議室を出る。
「お昼、食べ損ねたな」
残念だ。だけど、気にならない。警察官として働いていた頃は、昼食の時間がなくなるなんて日常茶飯事だった。
今は一刻も早くリクから、ディストーションについて教えてもらいたかった。
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