Case.14 木熊対人
Case.14 木熊対人
ディストーションになったのは、入り口に展示されていた木彫りの熊『穿つ』。大きな熊の彫像は、入り口に展示されているのも相まって人々の印象によく残る。
だからだろうか。SNSで展示会を検索してみると、この熊についての感想が多数ある。
彫刻刀の彫り筋を敢えて残した熊は、『そのうち動き出しそう』、『北海道のお土産がこれだったら、めっちゃ怖い』、『遠目で見たら、絶対本物の熊だと思って逃げる』と言った書き込みが溢れている。
辰巳が作ったバレリーナたちのようなリアルさではない。だが、本物に肉薄する迫力が、『穿つ』にはある。
そして実際『穿つ』は動き出し、展示会の準備に来ていた人を襲った。
「……」
ジュンは唇を噛みしめる。昨日、自分が行った展示会だ。辰巳に声を掛けられる直前、カップルが話をしているのを聞いた。女性がやけに怯えて入り口で引き返したのは、これが原因だったのだろう。
事前に展示会について検索をしてから見ると、『穿つ』のディストーションの兆候に気がつくことができたかもしれない。もっと目を凝らせば、察知できたかもしれない。
たくさんの『あの時、ああしていれば』がジュンの中に渦巻く。
「行くぞ」
リクは言葉少なく、例のピンク色のドアを開ける。ジュンも続く。
展示会場は既に人払いが済んでいた。床にそのままになっている鮮血が生々しい。誰もいないひんやりとした空間に、荒い呼吸が響いている。
大きな木彫りの熊。本来の二倍はあろう巨体を持った『穿つ』は、どれだけの体重があるのだろうか。歩く度に床が足とぶつかってガツガツと音を立てている。
ジュンは『穿つ』を見上げる。荒々しい彫り筋はそのままに、筋肉が木のしたで蠢いているのがわかる。本来は備わっているはずのない筋肉が、たしかに木の下に存在している。
「これが……」
ディストーション。
初めて見る現象ではない。屏風から出てきた虎も変化する御朱印も見てきた。
だけど、『穿つ』を見て、ジュンは初めてディストーションの恐ろしさに震えている。虎の時も怖かった。人間を食い殺したことがある虎だと聞いていたし、水墨画のタッチで表現された虎が動いているのを見た時は本当に驚いたし、怖かった。だが、ジュンが感じていたのは、虎に対する恐怖だ。ディストーションに対してではない。
御朱印やそのほかの小さく害の少ないディストーションばかり解除してきたから、感覚が鈍くなっていたのかもしれない。
目の前で動く『穿つ』に、この熊を動かしているディストーションという現象に、骨の髄が痺れるほどの恐怖を感じている。実際にこの熊が動いて人に怪我をさせたという証拠が、熊の手に染みついている血の色が、ジュンの骨髄に突き刺さる。
「気を引き締めろ。行くぞ」
リクが巨大な筆を構える。ジュンも巨大な彫刻刀を構える。
「まず俺が動きを止める。お前は血の着いた手の表面を削り取れ」
「はい」
リクの持つ筆に墨が入る。水に墨を一滴垂らしたかのように、じわりと空間に墨が滲む。
「技法・三墨法」
虎の時と同じように、リクは空間に墨で縄を描いていく。虎の時よりも大きな縄が結われていく。
「リクさん!」
熊がリクに向かって突進する。大きいが、早い。身体が大きい分、筋肉が発達しているからかもしれない。
ジュンはリクに声を掛けるが、リクは微動だにせず熊を見据えたまま筆を走らせる。
「確かにお前は人を襲えるかもしれん。だが、それだけだろう」
熊の足がバキリと折れる。中から木目が覗いている。
「構造的に無理があるんだよ。その足は」
荒々しく削られた熊。その迫力は本物の熊に肉薄する。だが、決して精巧に作られたものではない。
荒々しさで目を引くのは、顔から上半身にかけて。下半身は上半身に比べて貧相だ。
芸術は必ずしも精巧さが求められる訳ではない。極端なデフォルメも、一見してわからないパターン化もみな等しく芸術だ。
だが、現実で動きたいのであれば、高すぎる芸術性は邪魔になる。
弱々しささえ感じる下半身では、筋骨隆々な上半身を支えられない。その証拠に、リクを襲おうとした熊の足は骨折したかのようにぼきりと折れている。
展示会の準備で訪れた人は運がなかったとしか言い様がない。聞けば、『穿つ』の作者だという。自分の作品を確認しに近寄ったから、手が届いてしまった。
「グオォォオォ」
足が折れてもなお熊は動きを止めない。腕の力だけで前に進もうとする。熊もわかっているのだろう。せっかく動き出した自分を止めようとするリクを、何とか排除したいと足掻く。
リクの描いた縄が容赦なく熊を縛る。腕を曲げた状態で縛られた熊は、必死に抵抗する。だが、どれだけ藻掻いても捉えどころのない、墨で描かれた縄は緩まない。
「ジュン、やれ」
「はい!」
リクに命じられて、ジュンは彫刻刀を握り直す。縛られた熊の手に、巨大な彫刻刀を宛がう。今日持ってきたのは、彫刻刀の平刀。広い面を柔らかく表すのに使用するほか、余分な部分をすき取るのに使用する彫刻刀だ。
ジュンは血が付着した熊の手の表面を削っていく。元々、荒々しい削り方が特徴的な熊だった。素人のジュンが削って削り口が汚くとも、荒さがカバーしてくれる。
リクが描いた縄は緩まない。熊に一つの身動ぎも許さないほどのキツさだ。だが、ジュンは慎重に一彫り一彫りを進めていく。
全てが削り終わる頃には、汗だくになった。首の下に滴る汗を袖で拭いながら、ジュンはリクに声をかける。
「血、全部削りました」
「了解」
ジュンが手に着いた血を削っている間、リクは折れた足を接着剤で固定していた。事前に準備していた接着剤を木の断面に塗り込み、重ね合わせる。折れた部分がわからないように、絵の具で木目を描き誤魔化す。遠目には、折れた部分がどこかわからないだろう。
「足、直して大丈夫なんですか?」
だが、足を直してしまって大丈夫なのだろうか。また人に襲いかかったりしないだろうか。
リクはジュンが削り終わった熊の手を見る。血は全て取り除かれた。足も直った。リクは熊を縛っている縄と繋がっている巨大な筆を手に取る。縄は更に複雑に編まれ、熊を縛り上げる。
「熊の姿勢はどうだった。こんな感じで合っているか?」
「右手がもっと上です。肩くらい」
ジュンは慌てて解説本を開く。リクは縄を使って、熊に元の姿勢を取らせるつもりらしい。何故解説本が必要なのかと出発の時に疑問に感じたが、このためだったようだ。ジュンは解説本と睨めっこしながら、リクに細かな指示を出す。
「こんな、感じで大丈夫だと思います」
リクはジュンが広げる解説本に目をやる。自らの目で確認し微調節を加える。
ピシリと音が出たのかと勘違いするような変化が熊に起こる。今まで確かに動いていた熊が動きを止める。
「すごい……」
先ほどまで動いていた熊と、ただの木彫りに戻った熊。どちらも同じだ。だけど、今目の前にある熊が動き出すとは到底思えない。木彫りは木彫り。どれだけ力強くとも、動き出す訳がない。そう思わせる説得力が、今の熊にはある。
リクが巨大な筆を下ろす。縄が解けても、熊はもう動き出さない。リクは熊の周りをぐるっと見て確認する。ディストーションの名残が少しでも残っていれば、簡単にディストーションは再発する。ジュンはディストーションをきっちりと削り取ったようだ。
「帰るぞ」
リクはスマホを取り出し、改変対策課に連絡をする。例のピンク色のドアがどこからともなく現れて、開く。ドアの向こうの第二係と入れ替わる。第二係はホウキとちりとりを持っている。ディストーションの残骸である、ジュンが削った木くずを集めるためだ。
「俺も手伝います」
自分が出した木の屑だ。ジュンも第二係を手伝おうと、またぎかけたドアを引き返す。「ダメだ」
だが、リクに止められる。
「どうしてですか」
「第二係の仕事だからだ」
「縦割りですか」
第二係の仕事をどうして第一係のジュンが手伝ってはダメなのだろうか。ゴミの掃除くらいしたって良いじゃないか。
「第二係の仕事だからだ」
リクはもう一度繰り返す。それから、補足する。
「第二係の足手まといになりたくはないだろう」
ジュンはハッとする。『第二係の仕事だからだ』とリクが言ったのは、『ジュンが手伝えば、第二係の邪魔になるから止めろ』の意味だった。
ジュンはホウキとちりとりを持って床を丁寧に掃いている第二係を見る。警察官として見たことのある光景と重なる。第二係がやっているのは、まるで鑑識作業だ。鑑識課のように目を皿にして、少しの証拠も見落とさないように、丁寧に木くずを集めている。
『ゴミの掃除』と思って手伝おうとしたジュンは、確かに足手まといにしかならない。
「帰って報告書を書け。昨日、展示会を見た時からの分だ」
リクに続いてドアを潜る。ドアが閉じると同時に、ジュンは自分がいかに役立たずであるかを理解した。
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