Case.10 懐古学友
Case.10 懐古学友
街中とは違う、静謐で緊張感漂う、空調が効いた美術館の中。
屏風から飛び出す虎を退治したときの美術館は開館前だった。あのときの美術館は薄暗く、薄気味怖ささえ感じるほどだった。だが、開館中の美術館はただ静かにそこにある。
静かな美術館の中ではあるが、展示会は結構ド派手なインパクトを初見で叩きつける。展示会に入らずとも、入り口で待ち構えている巨大な熊が見える。
まず目を惹くのは、その大きさだ。人間よりもずっと大きい。彫刻刀の彫り筋を敢えて残したそれは、熊が本来持つ荒々しさを表現しているかのようだ。凶暴な爪が付いた腕を振り上げている熊は、実際に襲ってきそうな迫力がある。
その熊の隣に、様々な材質で『一日、毎日、彫刻』と彫られたオブジェが飾られている。これが、今回の展示会名だ。
前売り券を出して、入場する。何事もなく入場できたことで、少しだけ気が軽くなる。
入り口で待ち構えていた熊の足の下を通る。木彫りの熊の足下には『穿つ』と書かれたプレートが置かれている。確かにこの腕を振るわれたら、がっつりと大穴が空きそうだ。
額やガラスケースの中に閉じ込められた、数々の芸術品の間をジュンは歩く。もちろん動くはずもない。ここにあるのは、あくまで彫刻や彫像。何か仕掛けが取り付けられているのならともかく、今回の展示会にそのようなものはない。
(だけど、全ての芸術品に可能性がある……)
ジュンは知ってしまった。屏風から飛び出し人を襲った虎。神様の気まぐれで変わる御朱印。ディストーションが解除できないまま保管されている芸術品の数々。
どの芸術品だって、こうして展示されるために作られたはずだ。それでもいつの間にか歪んでしまって、周囲に危害を加えるようになってしまって、保管庫の奥深くにしまわれている。
逆に言えば、ここに展示されている芸術品だって、この瞬間に動き出してもおかしくはない。
ジュンは来館者に目をやる。真面目に、もしくは付き添いで気もそぞろに、もしくは余ったチケットを消費するために冷やかし半分で、作品を見ている。
人によって真剣度は違う。それでも全員『じっと見る』仕草は変わらない。あれほど近づいてしまっては、いざ芸術品のディストーションが始まってしまえば避けきれない。ディストーションが始まれば、芸術品と鑑賞者を隔てるガラスなんて何の意味もない。
心静かに芸術品を楽しめるのは、ディストーションを知らないからだ。ジュンのようにディストーションの存在を知ったならば、やはり少し距離を置きたくなるはずだ。それどころか、美術館やコンサートに足を運ぶ人間はごく少数になる。
ディストーションを公表しない。賛否はあるものの、公表しないという判断は現段階で正しいとジュンは思う。知らない方が幸せなことは世の中には確実にある。
「ふぅ……」
ジュンは深呼吸をする。入り口でこんなにも緊張していては、いつまで経っても中に進めない。展示されているものはどれも改変対策課の第二係の検閲を通っている。ディストーションの可能性は極めて低い。
ジュンは静かに中を進み、一つ一つの彫像をじっくりと見る。
順路に沿って作品を鑑賞する。今までだったら10分で見終わっていたであろう展示を、ジュンは1時間かけて回った。
今までは展示の前で立ち止まることなどなく、歩きながら『ふーん』と思うだけだった。
だけど、ほんの少しであるが、彫刻をするようになった今は、彫刻刀の走らせ方や角度の付け方、線の出し方が気になる。どうすればあのような線が出るのか。どんな意図を持ってこんな形を作っているのか。制作者は何を考えてこの作品を作ったのか。気になって仕方がない。
展示会を全て見終わる頃には、ジュンはすっかりと疲れきってしまった。作品が思ったよりも多くて歩き疲れたというよりは、集中して鑑賞したために目と頭が疲れた。美術館に併設されているカフェに入りコーヒーとバニラアイスを頼む。コーヒーはともかく、いつもは注文しないアイスを頼んだのは、クールダウンをしたかったからだ。
いつも職場で飲んでいるものよりもコーヒーの苦みが強い。美術館を歩き疲れた人をリラックスさせるためにわざと苦みを強調しているのかもしれない。一緒に運ばれてきたバニラアイスはコーヒーに合わせてか、市販の物よりもミルクの味が濃いように感じられる。
ジュンは先ほどの展示会の物販で買った解説本を机に広げる。誰もジュンに注目していないし、美術館に併設されているカフェなのだから解説本を読んでいても不思議ではない。それでもジュンは恐る恐るページをめくっていく。
人生のうちで美術館に併設されたカフェに入るのなら、あり得るだろう。芸術が好きな人とデートでもすれば、お茶をする口実になる。だけど、まさか一人で美術館に赴き、解説本を購入し、それを読むだなんて。恥ずかしいことをしている訳ではないけれど、慣れないことをしている自覚はある。だから、気恥ずかしい。
だけど、一ページ目をめくれば、後は同じ作業をするだけだ。恥ずかしさは段々と薄れていく。解説本には先ほど見たばかりの作品の写真と作品に込められた思い、それから制作者のプロフィールが載っている。新進気鋭の芸術家の展覧会だから、売り出す意味でも作家本人のプロフィールが必要なのだろう。
「お前が来たいって言うから連れてきたのに、なんだよ、早く出たいって!」
「ん?」
カフェの外から、つまり美術館のロビーから男の怒った声が聞こえる。目をやれば、男性が女性に腹をたてているようだ。
「け、けど……、たっくんは見えなかったの?」
女性は酷く怯えている。たっくんと呼ばれた男性――彼氏と思われる――から厳しい言葉がかけられているからだろうか。
(それだけじゃないような……)
警察官として鍛えられた直感が、違うと言っている。女性はたしかに男性に怯えているが、それ以上に何か別の物に気を取られているような……。
「あれ? もしかして、塩谷くん? 塩谷ジュンくん?」
「え? ん? あー、もしかして、辰巳さん? 久しぶりじゃん」
揉めている男女を見ていたジュンだが、名前を呼ばれて意識がそちらに向く。声を掛けてきた人物に見覚えがある。ジュンは記憶を辿る。絵の具の匂いと共に、彼女の名前を思い出す。高校の同級生の辰巳アオイだ。辰巳は美術部の部長だった。
「まさか東京で辰巳さんに会うとは」
「塩谷くんは東京で就職したんだっけ」
「辰巳さんも? 東京で就職したの?」
ジュンと辰巳の故郷は東京ではなく、地方だ。ジュンは地方にいる間に警視庁の採用試験を受け、合格。そのまま上京した。
辰巳は地元の大学に進学したはずだ。大学卒業してから、上京したのだろうか。
ジュンの問いかけに、辰巳は首を横に振る。
「就職は、してないかな?」
「えっと……、何かごめん」
聞いてはいけないことを聞いてしまった。就活失敗だろうか。辰巳の微妙な笑顔に、ジュンは頭を下げる。
だが、辰巳は『違う違う』と手を横に振る。
「就職していないっていうのは、本当だけどね。そんな後ろ暗い話じゃなくて」
辰巳はジュンが机の上に開いている解説本を指さす。幽霊部員だったジュンにとって、真面目に美術部に所属し部長まで勤め上げた辰巳は、美術ガチ勢だ。そんなガチ勢の辰巳に、美術館に来ているのがバレて恥ずかしくて身の置き場がない。親の誕生日に感謝の手紙を読もうと思っていたのが、バレたくらい恥ずかしい。
だけど、辰巳が指摘したかったのは、『幽霊部員だったのに、美術館に来たんだ』ということではないらしい。
辰巳は解説本を指した指を頬に持っていき、カリカリと掻く。
「私、この展示会に出品したんだよ」
「マジ⁉」
大声を上げたジュンに注目が集まる。ジュンは口を手で覆う。人々は反射的にジュンを見たが、すぐに興味をなくし自分たちの世界に戻っていく。向かいの椅子に座るように辰巳を目で促す。
ジュンは声量を落として、辰巳にもう一度確認する。
「マジで? 辰巳さん、これに出品したの?」
「マジだよ」
「どれどれ?」
ジュンはページをめくっていく。制作者のプロフィールを見れば、すぐにわかった。
「この『辰巳葵』が、辰巳さんか」
「うん、そう」
辰巳ははにかみながら微笑む。そのままタチバナアオイではあるが、一応ペンネームで活動しているらしい。
ジュンは辰巳が制作した作品が載っているページを改めて見る。
辰巳の作品は大理石を彫って作られたバレリーナたちだ。タイトルは『仲間はずれ』。衣装の部分まで精巧に作られた数々のバレリーナたちがガラスケースの中で踊っている。黒い大理石で作られたバレリーナが中央に配置され、白い大理石で作られたバレリーナがその周りを囲っている。
「これ、覚えてるよ。綺麗で繊細で、だけどちょっとひんやりとした感じで」
展覧会にはたくさんの作品が並んでいたが、その中でもこのバレリーナたちは印章に残っている。
バレリーナたちは決して大きくない。15センチほどだろうか。それなのに、衣装のレース部分やアクセサリーの緻密さ、バレリーナたちの伸ばした足のしなやかさから力強さまで、人間がそのまま石に閉じ込められたような精巧さと迫力があった。
ジュンは『仲間はずれ』を見たときのことを思い出す。精巧過ぎるが故に、白いバレリーナに囲まれた黒いバレリーナの『仲間はずれ』感がリアルで、背筋がぞくりと寒くなったのを覚えている。
「塩谷くんの記憶に残ったのなら、成功かな? 塩谷くん、全然芸術とかに興味なさそうだし」
ジュンのことを少しディスりながらも、辰巳は嬉しそうだ。ジュンが芸術に興味がないと知っているからこそ、ジュンの記憶に残ったのが嬉しいらしい。芸術に興味がないとディスられ、だけどだからこそ辰巳を喜ばせることになったジュンは複雑な気持ちになる。
だけど、事実なので反論のしようもない。辰巳の言う通り、ジュンは今までほとんど芸術に興味を持ってこなかったのだから。
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