Case.9 美術見学
Case.9 美術見学
ジュンが改変対策課に来てから1ヶ月が経った。毎日が慌ただしく過ぎる。ジュンは改変対策課に来てから日が浅いため、御朱印の時のように危険度の低い任務に、リクと共に当たっている。
危険度は低いが、その分量がある。一日に10件こなした日は、ジュンもリクも最後には疲労困憊で言葉もなくピンク色のドアを潜った。どれほど効率の良い旅程を組んでも、プライベートジェットを持っていても、一日10件の業務はこなせないだろう。ピンク色のドアが必要な理由が良くわかった。
ジュンとリク以外の第一係の人とも、一通り挨拶はできた。絵画や彫刻だけではない。それぞれが音楽やダンス、文学から映像作品などを担当している。改変対策課の仕事が幅広いことを、ジュンは改めて知った。
そして、自分の武器が彫刻刀でまだ良かったと実感した。例えばバレエを習え、と言われたらだいぶ困ったと思う。ジュンのバレエのイメージは、上流階級の坊ちゃんお嬢ちゃんが小さい時から習う教養の一環だ。成人になってから習って、あのしなやかさは身につくのだろうか。自慢じゃないが、身体は硬い。
第一係の人々に挨拶をしたとはいえ、全員多忙だ。リクがずっと言っているように、人員が慢性的に足りない。挨拶は辛うじてできたが、とてもじゃないがジュンの歓迎会をするような雰囲気ではないことはわかった。
ある日、ジュンが出勤すると同時に任務から帰ってきた声楽担当の佐藤が、のど飴をザラザラとポテトチップスの残りかすのように口に流し込むのを見てジュンは思わず泣きそうになった。どれだけ歌ってきたんだ。しかも、日常的にやってるだろ、それ。ジュンは未来の自分を憂いた。彫刻刀をペロペロ舐めていたらどうしよう。
だが、今のところジュンの任務は軽いものばかりだ。リクには彫刻刀の使い方を勉強するように、とゴム版や木の欠片を渡された。巨大な彫刻刀を振り回すのも、大立ち回りをする時には重要だ。大立ち回りはコツが掴めれば、剣道の応用ができそうだが、それ以上にジュンには彫刻に関する基本的な技術と知識が足りない。任務の隙間時間にとにかく彫って彫って彫りまくれとリクから厳命された。
だが、あいにくと現在の改変対策課には彫刻を専門的に学んできた人はいない。全員が美術の時間に習った程度という、ジュンとほとんど変わらない知識しかない。それでもリクを初め、美術を嗜んできた人たちは器用で、ジュンよりも余程上手に彫刻刀を扱う。それに、デッサン力が高く版画を彫っても上手だし、立体の把握もきちんとしていて彫像も上手だ。
ジュンはリクや第二係の人たち、それからインターネットを駆使しながら、一週間に一つ、作品を仕上げることを目標に彫り続けることにした。ジュンの机は、自分の作品で埋まりつつある。下手なのは承知しているが、作った作品に愛着が湧いてしまって捨てられない。上手にできたと思った物は、こっそりとリクの机の端に置いた。
ジュンは着実に改変対策課に染まりつつある自覚を持ちながらも、敢えてそれに身を任せることにした。今まで剣道をずっとやってきた。美術の授業や美術部員としての活動は本当に片手間で、課題を仕上げることだけを目標にやってきた。夏休みに出されるポスターを描く宿題も残りがちだった。
だけど、改変対策課に来て、彫刻刀を持たされ、何か彫ってみろと言われ、いざ彫ってみると、これが思っていた以上に楽しい。
絵の素養は凡人。ゴム版に鉛筆で描く線は、悲しいくらい正直にジュンがこれまで絵に向き合ってこなかったことを思い知らせる。線が平凡であれば、当然彫っても平凡なものにしかならない。彫像になっても、それは変わらない。
それでも、四苦八苦しながら彫って、自分の思い通りの線が浮き上がれば楽しい。8割難しいと思っているし、1割これが本当に仕事でいいのか疑問ではだけれど、1割楽しいからまぁいいかとジュンはこの頃思っている。
「……信じらんねぇよな」
そんな最近芸術に目覚めつつあるジュンは、美術館の前に立っている。手に持っている上質な紙でできた前売り券が、手汗で湿っている。
前売り券はジュン自らが買った。誰かから余ったのをもらったのではなく、自分で買ったものであるはずなのに、ジュンは未だにこのチケットが手元にあるのが信じられない。
ある日、リクがパンフレットをジュンに差し出した。新進気鋭の彫刻家が集まって、展覧会を行うと、そのパンフレットにはある。
「作品を見るのも勉強だぞ。次の休みに行ってきたらどうだ」
ジュンが改変対策課でやっていくには、芸術に対する知識が圧倒的に不足している。知識と一口にいっても、有名画家や傑作に対する教養だけではない。
審美眼も絶望的だ。審美眼を鍛えるためには、とにかく多くの作品に触れることだとリクは言っていた。自分が良いと思ったもののどこが気に入ったのか。逆に刺さらなかった作品は、どこが好みではなかったのか。作品の良し悪しよりも先に、好みを把握しておいた方がいい。
「はぁ」
なかなかパンフレットを受け取らないジュンに、リクは首を傾げる。
「入場料はかかるが、うちの課は全ての展覧会で補助が受けられる」
「そう、ですか」
リクはジュンが入場料で躊躇していると思ったようだ。1000円程度とはいえ、入場料を自分で負担するのも、胸に引っかかる部分がある。
だが、そもそもジュンは展覧会に行くつもりがない。
彫刻をするのは楽しい。趣味にしてもいいかも、と思うくらいには。だけど、まだ休日を返上してまで美術館通いをするほどには、ジュンは踏ん切りがついていない。休日は芸術に浸るよりも、筋トレとか昼寝とか動画鑑賞とかしたい。
リクは趣味と仕事が重なっている部分がある。絵を描くのが好きだし、鑑賞するのも好きなのだろう。休日には美術館に赴き、ショップにある解説本や図鑑を買い、カフェでコーヒーを飲みながらそれを読むのだろう。改変対策課の人々にとっては、それがよくある休日の過ごし方なのだと思う。
だから、何の疑問もなく、勧めれば二つ返事でジュンが『行きます』と言うと思い込んで、パンフレットを差し出したのだ。だから、なかなかパンフレットを受け取らないジュンが、まさか『休日にわざわざ美術館になんて行かないですよ』と言おうとしているなんて露にも思っていない。
リクの100%の善意が込められたパンフレットを、ジュンはぎこちない表情で受け取った。真剣に芸術に向き合うリクに『普通の人は美術館に行かないです』と現実を突きつけるのは気が引けた。
受け取ったパンフレットは、ジュンのカバンの中でわだかまり続けた。そして、いつの間にか前売り券を買い、割引の申請の仕方を春日に教えてもらい、そして実際に今日、美術館の前まで来た。
ここまで来たのならぐずぐずせずに入ればいいのに、と思うもののなかなか踏ん切りがつかない。美術館に入っていく人たちを見ながら、自分の服装が変ではないかとか、何を持って入ればいいのかをチラチラと横目で確認する。気張ることではないとわかっていても、勇気がいる。
「よし……」
ジュンは気合いを入れて、美術館に入る。
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