Case.8 歓迎飲会
Case.8 歓迎飲会
訓練で汗をかいた後に飲むビールは格別だ。
「ぷはぁ~。このために生きてるぅ!」
「~~っ! お前、若いのに親父臭いな」
「リクさんだって、目閉じて、顔きゅってしてるの親父臭いですよ」
仕事終わりで飲む、キンキンに冷えたビールの一口目はどうしてこうしてもおいしいのだろう。まず感じるのは、冷たさ。唇から始まり、口内、喉、胃と冷たさが身体中を駆け抜ける。そして、苦み。冷やされた身体を、爽やかで重たい苦みが包み込む。それから、炭酸が最後、仕上げのマッサージのようにしゅわしゅわと弾ける。
「一緒に食べる焼き鳥もおいしいんですよね~」
「俺は枝豆の方が好きだな」
ジュンは焼き鳥に、リクは枝豆に手を伸ばす。シンプルに塩だけで味付けされた焼き鳥と枝豆は、ビールでコーティングされたそれぞれの口を旨味で満たす。それから、またビール。永遠に終わらない繰り返し。
「リクさん、後でホッケ頼みましょう」
「あぁ、いいぞ」
リクの声が明るい。ジュンはにやりと笑う。
「リクさん、ホッケ好きでしょう」
「好きだが、それがどうした」
リクは居酒屋で食べるホッケが好きだ。家でホッケを焼くと匂いが充満するから、あまり食べないし。だから、居酒屋では必ず注文する。日本酒を飲みながら、箸で突くとより一層おいしい。
「リクさんは飲み会の時、隅っこでホッケを一人で突いていそうだなって」
「……お前、嫌な奴だな」
それは遠回しに、リクには話し相手がいないと言っている気がする。話し相手がいないというのは間違っている。改変対策課の風通しは良い。飲み会も大層盛り上がる。その中でリクは一人で隅に座ってホッケをつつくのが好きなだけだ。
「どうだ、改変対策課は。慣れたか」
「そうですねー。みなさん良い人だと思いますよ」
「どうしてそこで目を逸らす」
ジュンは意味ありげに目線をリクから焼き鳥に目を逸らす。暗にリク以外は良い人と言っているようで、リクは気分が悪い。ジュンなりの冗談だとはわかっているし、ジュンもリクが理解してくれているとわかった上で言っているのだけれど。
つまり、それだけジュンは改変対策課に馴染んだとみていいのだろう。
「もしかして今日の飲みって、身上把握だったりします?」
「それもある。知っての通り、特殊な仕事だからな。時には、怪我もする。……命にも関わる仕事だ。そして、機密性も高い。より深くのめり込む前に、向かない人間は去った方が本人にとっても、組織にとっても良い」
「あー、確かにそうですね。けど、俺は大丈夫ですよ。俺がどこから異動してきたか覚えてます?」
「そうか、警察官だったな」
「警察官ですからね。怪我することもしょっちゅうです。殉職された方もおられます。情報の保持も一応わきまえているつもりです。全部承知の上で、警察官の試験を受けてますから」
それもそうか、とリクは納得する。警察官を志望し、実際に就職し、しばらく働いたのであれば、それくらいの覚悟はできている。
「変なこと聞いた。悪い」
ジュンに対しては愚問だった。とっくにできている覚悟を改めて問われるのは気分が悪いだろう。
「お前みたいな警察出身の人間は少ない。むしろ俺のように文化庁に就職して、改変対策課に配属される人間の方が圧倒的多数だからな」
文化庁に就職したのに、まさか巨大な筆を振り回すだなんて誰も思いはしないだろう。10年前のリク自身に言ったって、絶対に信じやしない。
しかも、怪我もするし、命を落とす危険性だってある。『文化を守る』というテーマは同じ。でも、デスクワークは覚悟していた。命を張る覚悟はしていない。
普通の人間はそう簡単に命を張る覚悟はできないし、怖じ気づく。だから、改変対策課は初めての任務の後に、上司が新人に聞き取り調査を行う。無理そうなら無理と早いうちに決めてもらう。第一係が無理なら、第二係という選択もできるし、できるだけ元の所属に戻れるように人事課に申し入れる。
「リクさんは最初普通に文化庁に就職したんですよね。逆によく改変対策課でやっていこうと思いましたね」
「俺には才能がなかったからな」
「才能、ですか」
「才能だよ」
リクは自分の手を見る。筆を握る度に手を洗ってはいても、いつもどこかに墨がついている。洗ってもなかなか取れないのだ。今も右手人差し指の先に墨が付いている。
「昔から絵を描くのが好きで、高校で水墨画にハマって、芸大に進学したんだけどな」
絵を描くのは好きだった。自分の中にある世界を紙に広げていく。最初はクレヨンでカラフルに力強く。だけど、段々と黒と白だけの繊細なものに。
どちらが良いとかではない。どちらもリクの世界だ。優劣はない。世界にある全ての芸術に優劣がないように。ミレーのリアリティに富んだ油絵と幼児の自由気ままなクレヨン画に優劣をつけないように。
「芸術に優劣はない。なんて嘘だよ」
だけど、リクはそれが嘘だと知っている。芸術にははっきりとした優劣がある。
優劣がつかないのであれば、どうして小学校でもらう通知表の成績は数字に換算されるのか。どうして芸術大学に入学するのに、どうして合格者と不合格者が出てしまうのか。どうして売れる作家と売れない作家がこの世にはいるのか。説明がつかない。
「芸大に入って俺は衝撃を受けたよ。『才能がある』って、こういうことかって」
思うがままに絵筆を動かし、キャンバスを彩る人々。リクもその中の一員だと思っていた。だけど、それは大きな間違い。天才は線の描き方から違う。そして、それは生まれ持ったものだ。リクがどれだけ練習しても、模写をしても足下にも及ばない。
「逆に俺には才能がないって気がつくことができた」
ちょっと絵が上手だからと誤解していた。周囲も上手だと褒めてくれるからいい気になっていた。だけど、違ったのだ。リクは天才ではない。秀才だ。練習すればするだけ上手になるタイプ。そんなタイプの芸術家だって、過去にはたくさんいる。逆に言えば、練習をすればするほど、いい絵が描けるのだろう。
だけど、リクの心は折れてしまった。あれほど楽しかった絵が、苦痛になっていると自覚したとき、リクは芸術家の道を諦めた。
諦めたけれど、絵に関わる仕事がしたい。では、どんな仕事が世の中にはあるのだろうか。将来を見て、現実的に就職先を考えたとき、文化庁のホームページを見た。文化庁で文化を守り発展させる仕事をするのもいいかもしれない。
リクは公務員試験を受験し、合格した。就職してすぐは文化財を保護する仕事をしていた。改変対策課に異動の内示が出たのは、就職して3年後だった。
「才能がなくても絵に関わる仕事ができるのは、嬉しくもあり悔しくもあるけどな」
リクはビールを流し込む。先ほどより苦みを強く感じるのは、気のせいではないだろう。店員にビールを追加する。ジュンもビールを注文し、ついでに唐揚げを注文する。
絵に関わる仕事ができるのは、絵で生きていくことを諦めたリクにとって嬉しくも悔しくもある。文化財を守る仕事は誇りを持てる。だが、その隣でリクが届かなかった世界を創りあげる画家を見るのは苦しい。
背反する二つの想い。だけど、それが自分が選んだ仕事だとリクは割り切ることができた。
「よく言うだろ。趣味と仕事は分けた方が良いって。俺は分けた方が良いタイプだった。それだけだよ」
追加で来たビールを口に含む。新しいビールは良く冷えていて、喉越しが良い。揚げたての唐揚げを口の中で噛みしめながら、リクは思う。
水墨画を仕事にしなくて良かった。仕事にしていたら、もっと自分の才能に絶望していた。絵を嫌いになる前に、自分を嫌いになる前に、諦めることができて良かった。
「今でも描いているんですか?」
ジュンはリクの手元にある枝豆に手を伸ばす。残っているのは小さなさやのものだけだ。口元に運び、さやに見合った小さな実を口で転がす。
「あぁ、描いてるよ。才能がなくても、絵を楽しむことはできるしな」
普段は冷酷にも見えるリクの頬が緩んだのを、ジュンは確かに見た。
「俺は結局絵を描くのが好きなんだよ」
守ることにも誇りを持っている。だけど、それ以上に絵を描くのが好きだ。才能がないと諦めても、描くことは止められない。真っ白な和紙に、墨だけに挑む感覚にリクは未だに取り憑かれている。
取り憑かれている感覚が、リクは決して嫌いじゃない。むしろそれこそが、リクに絵を描かせる。
「……ま、これが俺が文化庁に入った訳だ。改変対策課に来たのは、お前と同じで異動の内示が出たから。芸術に携わることができるのなら、こういうのも良いかなと思っただけだ」
自分の過去をだらだらと話過ぎた。リクは照れ隠しにビールを飲む。飲み会の席で聞く先輩の過去ほど耳障りなものもない。
「飲めよ。お前が改変対策課に馴染めそうかを確認するのもそうだが、今日は純粋にお前の歓迎もあるんだから」
「歓迎? リクさんだけで?」
今日のリクとのサシ飲みは、歓迎会のようなものなのだろうか。ジュンの思い描いていた歓迎会は、課全員で盛大にやるものだ。
リクと飲むのだって嫌ではないけれど、歓迎会がこれではもの悲しい。歓迎されていないのかもしれない。
「うちの課は春は繁忙期で忙しいんだよ。仕方ないと割り切れ」
「繁忙期とかあるんですね」
「卒業制作、卒業コンサート、入学おめでとうの展示、花見やそれに伴う催し……」
リクの声が段々と重たくなる。話している内容はどれも人生でのビッグイベントで楽しそうなのに、リクの声に乗ると腕立て伏せ腹筋背筋500回ずつのごとき修羅場に聞こえる。
「お前も来年になればわかるさ」
リクはジュンの肩をポンと叩く。心なしかがっしりと掴まれた気がする。逃さないという意思と、逃れられないという確信。ジュンは少しだけ改変対策課から逃げ出したくなった。
「ということで、歓迎しよう。塩谷ジュンくん。好きな物を好きなだけ頼んでいい。今日は奢りだ」
「マジッすか! 先輩、あざーす!」
ジュンは気合いを入れてメニュー表を見直す。
「ビールもう一杯ください! それから、冷やしトマトとお造り六種、卵焼きに極厚ステーキ、軟骨揚げ、ポテトフライをお願いします」
「二人だけだぞ。そんなに食えるのか」
奢りだと言った瞬間、たくさん注文するジュンをリクは冷ややかに見る。いくら何でも注文しすぎじゃないだろうか。成人男性2人とはいえ、食べきれるか心配な量だ。リクは食がどちらかといえば細い。
「大丈夫ですよ!」
「……日本酒一合ください」
せっかくの歓迎会が二人きりという負い目がリクにはある。仕方ないから付き合うことにして、炭酸で腹が膨れないようにビールから日本酒に切り替える。
「あ、それからホッケもください」
ジュンは最後にホッケを注文する。リクの顔を見てにっこりと笑う。
「俺もホッケ食べたくなりました」
「……食べたいなら、もう一皿頼め」
「ホッケ一人で食べる気ですか?」
ホッケを一人で食べる人なんて、ジュンは見たことがない。だけど、ホッケが好きなリクは一人で食べたい派だろうか。
リクはそっぽを向く。自分の好きなものを握られて、『リクのために』と自慢気に注文されるのが癪だ。
リクは来た日本酒を豪快に流しこんだ。
「だからな、お前にはもっと頑張ってほしい訳よ。仮にも警察官だろ? 俺よりも身体が動くのは当たり前なんだからな」
「わかりました、わかりましたって。リクさん、飲み過ぎですよ」
「うるせぇよ。お前も飲め」
「飲みますけど。すいません、お冷やお願いします」
「お冷や? お前、何頼んでるんだ。キャンセルだ」
「お冷やお願いします」
店員は苦笑いしながら、厨房に戻る。おそらくお冷やを持ってきてくれるだろう。
日本酒を一人で2合飲んだリクは、ジュンに管を巻いている。ホッケを突きながら、日本酒をあおり、リクに胡乱げな目を向ける。
リクは立派な酔っ払いになった。
春日を初め改変対策課の人たちには、『松原くんはホッケを食べている時が、一番口やかましい』と若干煙たがられているのを、ジュンが知るのは翌日になる。
「聞いているのか、ジュン」
「聞いていますよ。はい、日本酒追加です」
「もらう」
ジュンはリクに日本酒と嘘を吐きながら、お冷やを飲ませることに成功した。
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