Case.7 春日主任
Case.7 春日主任
「やり直しだ」
「どうしてですか!」
リクから突き返された書類を持って、ジュンはわなわなと震える。これで5回目だ。
「何が、俺のいったい何がダメなんですか……」
ここまで来れば怒りよりも悲しみが来る。ジュンの目尻に涙が……。
「目薬刺してまで涙を演出するな」
「バレました?」
リクはあっさりとジュンの行動を見切る。ジュンは刺そうとした目薬をしまう。だが、悲しいのは本当だ。
「この報告書のいったいどこがダメなんですか!」
ジュンは首を捻る。ジュンがリクに提出したのは、昨日行った奈良の神社の報告書だ。
「『神様のご機嫌が悪いから、御朱印が変化した』なんて馬鹿みたいなことを書くな」
「けど、本当のことじゃないですか!」
「書いていいことと悪いことがあるだろう」
リクは溜息を吐く。今回の場合、ジュンの書いた内容があながち間違っちゃいないのが厄介だ。
「確かにお前は間違っていないかもしれない。だが、これは公文書だ。しかも、永年保存。その意味がわかるか?」
「俺の報告書が永遠に残る」
「だけじゃなく、下手したら総理大臣まで決裁が回る」
「俺の報告書が?」
「お前の報告書が」
「何かすげー」
自分の書いた報告書が、国で一番偉い人まで決裁される。何かすごい。本当にそんなことになったら、家族に自慢する。……改変対策課の存在が秘密になっていて、全ての仕事に守秘義務が課せられているから、実際は無理だけれど。
「そこにこんな馬鹿みたいなことは書けないだろう」
「リクさん、さっきから馬鹿何回言うんですか」
ジュンが指摘しないと際限なく言う。わざとなのか、素なのか判別は難しい。リクは咳払いをする。
「とにかく、こんな報告書では決裁を通さん。書き直せ」
「はぁーい」
リクはジュンのバディではあるが、直属の上司でもある。リクに決裁を通さないと言われてしまえば、ジュンは書き直すしかない。
ジュンは気分を変えるために、水屋でコーヒーを淹れる。おいしくもマズくもない、職場でよく飲まれているコーヒー。だが、社会人はこの微妙なさじ加減のコーヒーがなければ、死んでしまう生き物だ。
二十歳になって初めて飲んだビールも大しておいしいとは思わなかったが、親にせがんで飲ませてもらったコーヒーだって、最初は苦くて飲めたものじゃなかった。大人はどうしてわざわざこんなマズいものをありがたがって飲むのかとも思った。
だけど、大人になってからは毎日コーヒーをブラックで飲まないと気分が優れないし、どんな高級料理店で出される逸品だって仕事終わりのビールには敵わない。高級料理店の逸品はそれはそれで食べたいけれど。
コーヒーの入ったマグカップを持って席に戻る。リクは席を外している。リクの報告書はとっくに仕上がっているらしい。今日は次の現場の資料を探すと言っていたから、資料室にでも行ったのかもしれない。
「塩谷くん、ちょっといい?」
「大丈夫ですけど」
ジュンが席に着くと、女性――春日が声を掛けてきた。春日は三人の子持ちで大変パワフルで、ジュンは初日から大量のお菓子に囲まれた。『安売りしてたからたくさん買ったんだけど、消費期限が切れそうでねー。若いんだし、たくさん食べて』と割引シールが貼られたチョコレート菓子をくれた。割引にはそれなりに理由がある。チョコのねっとりとした甘さが不快感をもたらすそのお菓子は、腹は満たされたがあまりおいしくはなかった。
豪快で嫌味のないお節介が、ジュンには好感が持てた。ほとんど人見知りしないジュンは、初日から春日と意気投合し、三人の子供の名前を把握するまでに至った。
「はい、これ。松原くんの報告書。真似しちゃいなよ」
「え、いいんですか」
春日が小声で囁きながら、紙を一枚ジュンに手渡す。ジュンも受け取る。資料を違法に入手した気分になって、思わず周りをキョロキョロと見る。だが、どの顔も『大丈夫大丈夫』と菩薩のように穏やかな顔でジュンを見ている。
春日は一際大きく頷く。
「いいのよ。あの神社なんて、定期的に行っているんだから、報告書も型が決まってるの。松原くんだって、前回の報告書のコピペよ」
「へぇー」
人には強く言うくせに自分も手抜きじゃん、とジュンは遠慮なくリクの前回の報告書を受け取る。報告書は『御朱印に対するディストーションが発生。原因は不明なるも、祀られている神だと考えられている』から始まっている。ディストーションの解除も『神と思われる対象を説得』など無難に纏められている。
ジュンはパソコンに向き直り、ジュンの報告書を元に報告書を埋めていく。
「松原くんは人に説明するの苦手みたいでね。塩谷くんは初めての部下だし、教え方がわからないのかも」
「人への説明は確かに苦手そうですねー」
会話の中に必ず『馬鹿』と入れないと気が済まないみたいだし、とジュンは心の中で呟く。
「芸術家肌ってやつですかね」
ジュンの中の勝手なイメージだが、芸術家はやっぱり普通の人間と一線を画している気がする。自分の中に絶対的な基準を持っていて、それが絶対に譲れない。だからこそ、他人とは見ている景色が違う。世界を圧倒する作品が作れる。
その代わり、他人との意思の疎通が難しい。見ている景色が違う人と会話をするのは、きっと困難を極めるし、何よりエネルギーを使う。だから、より一層他人と会話をしなくなる。
「芸術家の中には、そういう方もいらっしゃるけどね。松原くんは全然まともよ。優秀だし。公務員試験を受かって、文化庁に入ったくらいよ。人と基本的なコミュニケーション取れないと、試験に受からないでしょう」
だけど、春日は否定する。松原は少し人付き合いが苦手なだけで、話は通じる。賢くて、仕事のやりとりもスムーズだ。改変対策課に来てから5年だが、エースと言っても差し支えない。
「春日主任は改変対策課以外の芸術家とお知り合いなんですか?」
ジュンが聞けば、春日はあら、と目をぱちくりさせる。
「塩谷くん、第二係の仕事知らないの?」
「まだよくわかっていないというか……」
改変対策課には庶務係の他に、第一係、第二係、第三係と三つの係がある。ジュンとリクは第一係、春日は第二係だ。机で作る島は第一係と第二係で別れているが、隣同士だ。
だが、初日に虎を退治し、二日目に武器を選び、三日目に御朱印のディストーションを解除し、四日目に報告書を書いているリクは、隣の島が何をしているのかよくわかっていない。
「松原くんもそこらへん説明しなさそうだしねぇ」
春日は、確かにと納得する。リクは優秀だし、会話するにも支障はないが、何分素っ気ないというか、面倒くさがって説明を省くところがある。口で説明すれば済むところを、『資料を見ればわかるでしょう』と省略しがちだ。
改変対策課の組織だって、初日に庶務係からジュンに渡された資料を見れば確かにわかるのだろうが、ちょっとした本くらいの厚さになっている資料を全て読むのは無理がある。それよりは、リクが説明した方が早いのだけれど、リクはそれをしない。
無駄なことはしない。それがリクらしいのかもしれないけれど、新人を教育するのには不向きな性格だ。
春日は後からリクにフォローを入れようと気持ちを切り替える。
「まず、塩谷くんたちの第一係はどんな係だと思う?」
「俺たちの係は、現場に行く感じですか?」
ジュンとリクも実際に現場に行った。第一係の他の人たちも今は席にいない。現場に行っているとリクが言っていたから、例のドアを駆使してどこかに出掛けているのだろう。
「第一係の方のロッカーだけ異常にでかいし、机もごちゃついていますし……」
初日に案内されたロッカーはがっしりとした造りで大きかった。小さな物置と言っても違和感がない。ロッカーが大きく頑丈な理由はすぐにわかった。巨大な彫刻刀をしまうには、ちょっとした物置サイズでなければ入らない。ちらりと見えたリクのロッカーにも巨大な筆が何本か入っていた。第一係のロッカーの中には、そういった大きな文房具が入っているのだろう。
だけど、全てのロッカーが大きい訳ではなく、ジュンやリクの第一係だけが大きく、春日などの第二、第三係のロッカーは普通のサイズだった。前線に出て戦う係ではないことが窺える。
「私たち第二係は主に情報の収集をしているの」
「情報の収集、ですか?」
「そう」
春日はジュンの机の上に置いてある、昨日の神社についての資料を差す。
「この資料は誰が作ったと思う? 私たちよ」
ジュンは改めて資料を見直す。神社の歴史、祀られている神、ディストーションの状況、過去の記録など情報は多岐にわたる。
ディストーションの情報を纏め上げ、前線に出る第一係に伝達する。第一係からの報告を受け、今後への対策を練る。類似する他作品に向けた警戒を行う。現在ディストーションの指定を受けていない作品の変化を確認する。
第二係の仕事は裏方ではあるものの、業務量は多い。
「芸術作品は毎日、何百何千と生まれている。その全てを監視することは絶対に無理だけどね」
芸術への敷居は、昔と比べて格段に低い。誰もが絵を描き、作曲をし、小説を投稿することができる時代だ。その全てにディストーションの危険性は含まれている。
だが、数多あるそれらの芸術作品の監視は不可能だ。
「だからといって、何もしない訳にもいかない。ディストーションの被害が出てから対処するのでは遅いし」
絵が暴走し始めてから対処するのでは遅い。第二係としての最上は、ディストーションが起こる前に前兆を察知し、第一係に現場に行ってもらうことだ。
「でも、矛盾してませんか? だって、この世にある全作品を監視は無理って、春日主任もさっき言ってたじゃないですか」
春日は『毎日生み出される作品を全て監視するのは無理だ』と言い、次に『だけど、何もしない訳にはいかない』と言った。
ジュンの中でこの二つが上手にかみ合わない。
「そうね」
春日は悲しそうに笑う。
「だけど塩谷くん、思い出してみて。ディストーションがどういう作品に起こりやすいのか」
「えっと、作者の強い思いが込められているとか、他者からの偏見で作品の意味が歪んだとか、だったと思いますけど」
「合ってるわよ」
春日は、松原くんはこういうことはきちんと教えるのね、と笑う。
「作者の強い思いが込められている場合もあるけれど、こちらは少数ね。思いを込めるって簡単に言うけど、そこまでの作品はなかなか生まれない」
絵を毎日描く、何枚も描く。寝食を忘れてピアノに向かう。一日で小説を1冊書き上げる。だけではまだ足りない。
自らの耳を切り落とす。踏み抜いた釘が刺さったままで演奏を行う。毎夜架空の生物に拉致される夢を見る。
正気を失するほどの情熱を作品に込めなければ、魂を削るほどの真剣さがなければ、ディストーションは生まれない。
「だから後者、つまり他者からの偏見で作品が歪む、ていうのが多いんだけど。こっちは見つけるのが簡単ね。有名な作家さんが新作を発表したり、SNSでバズってる作品を監視していればいいんだから」
普通の人間も創作をする時代になった。全ての作品にディストーションの可能性がある以上、本来は全ての作品を監視するのが望ましい。だけど、現実的ではない。
だが、SNSの発展により、他者から注目される作品というのが流行という形で見えやすくもなった。バズる――人の関心が集中するものは、ニュースでも報道されるくらいだ。作品が増えた分監視は大変になったが、情報の収集はしやすい時代になった。
「一般人の作品はSNSでの情報収集で済む場合が多い。だけど、作家さんの作品については、やっぱり作家さんとかマネージャーさんから情報を手に入れないといけないのよね……」
『作家さん本人からの情報収集』というのが、難儀だ。
「全ての作家さんがそうだとは言わないけれど、やっぱり話が通じない人も多くて」
個展が開かれると聞けば、改変対策課は警備体制を整える。だけど、直前で作家が『この作品たちには納得がいかない!』とか理由を付けて、ドタキャンする。なんていうのは、まだ優しい方で。
「私たちとしては、作品の意味とか意図とかを知りたいのよ。ディストーションが起こるとしたら、どんなタイミングで、どんな現象が起きるのかを把握したいから。だけど、聞いたら、『見ただけで通じないのなら、こんな作品なんてない方がマシです……』って言って、作品破いちゃったりね」
春日が遠くを見る。実体験なのだろう。
絵画や曲はどれだけ見ても、聞いてもこちらに向かって話さない。作品に込められた情熱を読み解くのが訓練された鑑賞者であり、第二係の仕事でもある。文学だって、慣れ親しんだ日本語で書かれているはずなのに、ひどく難しく、丁寧に読み解く必要な場合がある。
解釈が間違っていては、対応が遅れる。仕事として、作品についての情報を仕入れたかっただけなのに、作家が勝手に傷つき、しかも目の前で作品を破る。有名作家の作品が一つ自分のせいでボツになったのだ。多方面から怒られそうだ。
落ち込む作家もいれば、怒り出す作家もいる。暴力に訴える作家にこそ春日は出会ったことがないが、過去の事例を見ると公務災害として計上されている事案もある。
「あとはあれね。言葉は悪いけど、電波系、みたいな」
「話が通じない系ですか」
「そうそう」
作家の中には『宇宙からの声が聞こえた』と真顔で言う人だっている。自分の世界を創りあげる。そして、それを表現する。そのためには、常人と同じ感覚ではダメなのかもしれないけれど。
「同じ日本語を話しているはずなのに、話が通じないと心が折れるのよねー」
良く言えば、前衛的すぎてついていけない。悪く言えば、話にならない。
だけど、仕事だ。ここで第二係が諦めてしまえば、未曾有の災害が起こる可能性だってある。
だから、できるだけ詳細に、心が折れても立て直して、作品の意味も意図も汲み取る。
「……第二係って凄いっすね。プロの鑑賞家だ」
「そう言ってくれると嬉しいわ」
春日は誇らしげに胸を張る。たとえ前線に出なくとも、戦うことはできる。縁の下の力持ちと第二係は言われることも多いけれど、そんな評価では物足りない。縁の下どころではなく、実際に表に出て作家と協力し、時には戦っているのだから。
「第二係の仕事はわかりました。じゃあ、第三係は……?」
ジュンは第三係の島を見る。第一係の島にも人は座っていないが、第三係の島もがらんとして人の姿は見えない。
「第三係はね……」
「何をサボっている」
春日が説明をしようしたところで、リクが帰ってきた。ジュンの頭を軽く叩く。
「暴言の次は暴力ですか」
「手が滑っただけだ」
リクは春日を窘める。
「春日主任もこいつに構う必要ないですよ。お仕事忙しいでしょう」
「いいのよ、いいのよ。塩谷くんと話するの楽しいし」
春日は気の良い人なので、配置されてすぐにジュンと仲良くなっているのだっておかしくはない。リクはジュンの手の中に、自分の報告書が握られているのを確認し、黙認した。
リク自身も部下を持つのが初めてで、どう指導すればいいのか考えあぐねていた。第一係は外に出がちで協力を頼みづらい。今回は春日の誠意に救われた。
「……報告書を早く書け。終わったら、訓練。定時になったら、上がるぞ」
「はい!」
ジュンは再びパソコンに向かう。なお、再提出した報告書は、リクのを参考にしたにも関わらず3回書き直しをくらった。
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