Case.2 改編対策

Case.2 改変対策


 文化庁――文化に対する施策の推進、国際文化交流の振興、博物館による社会教育の振興、宗教に関する行政事務を所管する文部科学省の外局である。

 その文化庁にある部署の一つ、改変対策課にジュンは異動となった――らしい。

「『改変対策課』なんて聞いたことないですけど」

 検索をしてもヒットしない。ジュンはリクを胡乱な目で見る。美術館を出た後、ジュンはリクが運転する車で改変対策課に案内された。リクは霞ヶ関に林立するとあるビルの地下駐車場に車を止め、エレベーターで上階に登る。

「当たり前だ。改変対策課は秘密にされているからな」

「それまたどうして」

 リクの言葉に、ジュンは益々不信感を強める。文化庁に秘密の組織なんて、本当にあるのだろうか。

「お前も見ただろ。屏風から出てきた虎を」

「……見ました。まだ信じられませんけど」

 まだあれから1時間も経っていない。だけど、未だに実感が伴わない。現実で起きた出来事なのか、白昼夢でも見たのか。だが、嘘ではない証拠に、リクは大きな筆を持ってジュンの隣に立っている。

「描かれたものが飛び出してくる、というのは決して珍しい話ではない」

「珍しくないって。俺、見たことないですけど」

「秘密にされている、と言っただろう」

 エレベーターのドアが開く。リクに続いて、ジュンも降りる。廊下も備え付けられているドアも、みな普通のビルと変わらない。廊下の行き止まりでリクがドアを開ける。企業名や部署名を表すプレートは付けられていない。

「ここが改変対策課だ」

 十数名が部屋の中にいる。リクがおはようございますと挨拶をする後に続いて、ジュンも挨拶をする。リクににこやかに挨拶をする人、新顔のジュンをマジマジと見る人など様々だ。リクは一番奥にある机の前で止まる。

「こちらが改変対策課長の森田課長だ」

「課長の森田だ。塩谷ジュンくん、だったな。突然のことで驚いただろう」

「塩谷です。驚いたというか、今もまだ信じられないというか……」

 森田の机の上には『改変対策課長』と書かれたプレートが乗っている。ジュンが初めて見た『改変対策課』という言葉だ。リクからどれだけ『改変対策課』と言われても軽かった認識が、森田に会うことで重みを増す。

 『改変対策課』という組織が存在していることの証明こそが、森田と机に置かれたプレートだ。

「信じられないのも無理もない。突然、絵が動き出すんだからな。私が入庁したのはもう30年以上前になるが、初めてディストーション――動き出す絵画を見た時は腰を抜かしたものだ」

 森田は昔を懐かしみ、ジュンを安心させるように笑う。

「今日、君が見たのは紛れもない現実だ。そして、君はディストーションを防ぐためにここに異動となった。慣れないうちは大変かもしれないが、頑張ってほしい」

「はい」

 新しく配属される人が来るたびに言っているであろう、言い慣れた言葉だな、とジュンは思った。

 だけど、重みがある。実際に人を喰いそうな虎を見た後だからかもしれない。森田も似たような経験をしているのがわかるからかもしれない。『頑張ってほしい』なんて聞き慣れた言葉のはずなのに、指先が痺れるようだ。

「しばらくは松原くんとバディを組んでもらう。松原くんは第一係になって何年だっけ?」

「5年です」

「もうそんなに経つのか。じゃあ、もうベテランだ。よろしく頼むよ」

「はい」

 リクが頷いたことを確認し、森田が手を叩く。

「はい、みなさん。こちらに注目してください。今日から改変対策課で一緒に勤務する塩谷ジュンくんです。塩谷くん、一言挨拶できる?」

「あ、はい。えー、今日からここで勤務することになりました塩谷です。初めてでわからないことばかりですが……いや、本当に何が何だかわかってないんですが、足を引っ張らないように頑張ります。よろしくお願いします」

 森田から突然振られた挨拶だったが、無難に自己紹介を終える。ジュンが頭を下げれば、拍手が返ってくる。

「改めて、今日からよろしく。松原くん、後は頼んだよ」

「はい。塩谷、こっちだ」

 森田が椅子に座ると、みんな仕事に戻る。ジュンは歩き出したリクに付いていく。

「ここがお前の席。俺の隣だ」

 案内された席にはパソコンが乗っているだけで、何もない。ジュンのために綺麗に掃除してくれたのが窺える。一方、隣のリクの席はパソコン以外にも文房具やファイルやら本やらが乗っていて雑多だ。ペン立てにはボールペンやシャープペンシル以外に筆が刺さっているのが、リクの机らしいのかもしれない。

「パソコンの設定は後から説明する。それよりも、聞きたいことがあるだろうからな」

「まぁ、そうっすね。何から聞けばいいかも、どんな質問をすればいいのかもわかりませんけど」

「それもそうだな」

 リクは机の上からマグカップを取り立ち上がる。部屋の隅にあるコーヒーメーカーから、コーヒーを注ぐ。

「ほら、今日は奢りだ。飲みたいなら、明日から毎月500円払えよ」

「ありがとうございます」

 リクに差し出された来客用と思われるコーヒーカップを受け取る。黒々としたコーヒーは美味しくもないが、不味くもない。どこの職場でもよく飲まれているであろう、安くてそこそこ美味しいコーヒーの味だ。

「まず説明すべきなのは……そうだな、屏風から虎が飛び出る現象がいったい何なのか、からだな」

 リクは引き出しからファイルを取り出す。ファイルの表紙には『新人向け教育マニュアル』と書かれている。

「あー、まず、『新しく配属された方は混乱されています。優しい言葉をかけましょう』だ? もうかけてる。飛ばす」

「かけられましたかね?

 リクは乱雑にページを飛ばす。森田からは優しい言葉をいただいたが、リクからはもらった覚えがない。ジュンは首を傾げるが、リクはマニュアルを見ているため目に入らないようだ。

「よし、このページだな。今日みたいな現象のことを『ディストーション』と呼ぶ。日本語に直訳すると『歪曲』とか『歪み』という意味だな」

 リクがマニュアルを斜め読みしながら、ジュンに説明する。

「何でわざわざマニュアル読むんですか? 実は理解してないとか?」

 ベテランであるはずのリクがマニュアルを見ながら説明するのが、よくわからない。リクはムッと顔を顰める。

「俺にとっては日常だからな。人間はどうして生きているのか、という単純な問いほど難しい」

 リクにとってはすっかり日常で馴染んでいるからこそ、説明が難しい。だから、今一度マニュアルを紐解いている。

「話の腰を折るな。続き。このディストーションは世界各地で見られる現象だ。そう頻繁に起こってもらっては困るが、決して珍しい現象でもない。だが、一般には隠されている」

「実際、俺もさっきまで知らなかったですしね。でも、どうして隠す必要が?」

 ジュンも今日まで知らなかったことだ。珍しくない現象であるなら、公表しても良さそうなものだと思う。

 リクはメガネを押し上げ、ジュンを見る。

「考えてみろ。描かれたものが飛び出してくる可能性がある、と知ったら人々はどうなる?」

「……パニックになりますね」

 実際に屏風から飛び出して来た虎を見たジュンには、身に染みて恐ろしさがわかる。確かに絵のはずだった。屏風から飛び出した後だって、絵のタッチそのままに動いていた。

 だけど、口から滴り落ちる赤い色。爪にこびりついた赤い塊。それらは元から描かれていたものではなく、虎の中から溢れ出たようにも見えた。まるで、その口で、爪で、何かを食べたかのように。

 異様だった。そして、実際に噛み殺されるかもしれないと、ジュンは本気で思った。

 リクはディストーションが、決して珍しい話ではないと言った。ジュンは開館前の美術館を思い出す。ガラス越しに飾られた様々な絵画。その絵画の全てに、今回のようなことが起こり得るのだとしたら。たとえば、鬼の絵があったとして、鬼が飛び出して来るのだとしたら。

「パニックどころではない。芸術は禁止されるだろうな」

 動き出すのは絵画に限った話ではない。彫像だって、詩歌だって、音楽だって、みな今回のように1人でに動き出す可能性がある。怪物を倒すために石を構えた青年が動き出せば、都市が一つ丸ごと消える。この世を恨む詩歌が暴走すれば、大勢の人が呪われる。魔王の恐ろしさを表現した音楽が起動すれば、魔王がこの世に出現する。

 それが芸術である限り、本来の意図から外れて動き出し、人間に危害を与える恐れがある。そうなったとき、危害をもたらす根源が芸術だと判じて、芸術そのものを禁じるだろう。

「作品に悪意はない。それもそうだ。お前だって、絵に感情がある、なんて信じないだろう」

「そのつもりだったんですけどね」

 ジュンは返答に困る。昨日までだったら、『実は絵にも感情があるんです』と言われても鼻で笑っただろう。だけど、動き回る虎を見た後では何を信じればいいのかイマイチ確証が持てない。

 絵が動き回ることは現実だけど、絵には感情があるが非現実であると言われても、説得力がない。

「たとえば絵に描かれたものが出てくるのは、人がそのように考えたからだ」

「意味がよく……」

「たとえば、作者が『この鬼が動き回れば面白いのにな』と強く願う。たとえば、絵を見た人間が『この虎は動き出しそうだ』と考える。そうすることによって、作品に意味が付与される。子供の落書きみたいな絵だって、高値で取り引きされることがあるだろう? あれは『価値がある』と考える人間が大勢いるから、値が釣り上がる。それと同じで、『動くかも』と思う人間が大勢いれば絵が動き出す」

「つまり、今日の屏風の虎は、大勢の人間が『この虎は動く』と考えたから、動き出したということですか?」

 ジュンの辿り着いた考えにリクが頷く。

「その通り。あの虎は日本では誰もが知る御伽話レベルで有名だからな。もっとも、最初は殿様の嘘が発端だったんだが」

 嘘から出た真。虎が動き出したきっかけは、殿様の嘘。だけど、その嘘は城中、どころか街中に広まった。

 噂は絵を歪める

「人間は偏見を持つ生き物だ。前情報なく見れば『見事な虎が描かれている屏風』程度の認識だったのかもしれない。だが、噂が広まるにつれて『今にも飛び出し人を襲いそうな虎が描かれている屏風』に歪曲した」

 そして、悲劇は起きる。虎は本当に屏風から飛び出し、人間を襲った。

「展示を止める訳にはいかないんですか?」

「ディストーションを秘している以上、展示の中止を進言することは余程のことでない限りできない。また、全ての芸術作品がディストーションの可能性を秘めている以上、一つの屏風の展示を取り止めることに意味はない」

 屏風の展示を止めたところで、他の展示物が動き出すだけだ。人間は、天井の染みや木の木目にまで人の顔を見つけるくらいだ。他の展示物にだって、不要な意味を見つけ出す。

「逆に、あの屏風の管理はしやすい方だな。今までディストーションの報告がない作品が突然暴れ出すよりも、ディストーションの報告がある作品の方が注意しやすく、対策も打ちやすいからな」

 人喰い虎が暴れ出すのは確かに問題だ。だが、何が起こるかわからない作品よりもよほど御しやすい。

 今回の屏風の場合、『虎の牙が赤い顔料で汚れているみたいだ』という報告があれば、ディストーションが起こる前兆。ディストーションの解除の方法も『縄で捕縛し、屏風に押し戻す』と解明されている。

「な? 他の作品よりよほど展示に向いている」

「向いて……いますかね?」

 少なくともジュンは、もう二度とあの屏風を見たくない。人喰い虎が描かれているという点だけでもげんなりするが、実際に動き回って人を喰ったことがある虎なんてゴメンだ。

「知らぬが仏、だな。そして、知らないままに見てもらった方が、ディストーションの頻度が減ってこちらも助かる」

 知らない方がマシ。鑑賞者は純粋に展示を楽しめる。改変対策課は仕事が減る。ウィンウィンだ。

「そして、ディストーションを抑える組織が、この改変対策課だ。わかったか」

「まぁ、だいたいは」

 絵が動き回る意味も、改変対策課が秘密にされている意味も大体わかった。

「ということで、はい。これ」

「はい、って」

 ジュンはリクから『新人教育マニュアル』を受け取る。

「読んでおけ。勉強になる」

「これって、上司が部下に教えるためのマニュアルじゃないんですか?」

 新人を教育するためのマニュアルだ。上司のためのマニュアル。ジュンはパラパラとページをめくる。分厚いマニュアルは、読むだけで一苦労しそうだ。

「俺が読んでお前に教えるよりも、お前が直接読んだ方が効率的だろう」

「そうですけど」

 確かにその通りだが、納得がいかない。リクが楽をしようとしているようにしか思えない。

「納得できないなら、上司からの命令にする。今日のお前の仕事は、そのマニュアルを熟読すること。どうせ他に仕事はないし、できないからな」

「そうですけど、リクさんはどうするんですか?」

 来たばかりで即戦力にならないのは、その通りだ。では、部下を指導しないリクは、今日いったい何をするんだ。ジュンは疑念の目でリクを見る。

「俺は今朝の報告書。それから、次の現場の下調べ。お前と違ってやることは多いんだよ」

 リクはパソコンを立ち上げる。型がいくつも前のパソコンだ。ファンが懸命に音を立てて動き出す。

「あと、何で名前で呼んだ」

「いや、何となくですけど。あ、俺のこともジュンって呼んでくれて構わないので」

「俺は構う。お前の上司だぞ? 歳も上だ」

「歳上ってことくらい、わかりますよ。だから、敬語使ってるじゃないですか」

 態度を改めないジュンに、リクはカッとなる。注意しようとするも、諦めてようやく立ち上がったパソコンに向かう。

「お前、この時代に生まれて良かったな」

 今は少し注意しただけでパワハラだと騒がれる時代だ。リクは面倒を回避するために、ジュンの発言を黙殺した。

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