Case.1 異動初日

Case.1 異動初日


 塩谷ジュンは訳のわからないまま長い廊下を歩いていた。

 20××年4月1日。ジュンの異動が発令した。数日前にもらった内示書には「出向を命じる」とだけ書あった。

「簡単に出向って言ってくれますけどね、どこに出向かくらい書いてあってもいいんじゃないですかね」

 ジュンはひどく簡単に書かれた内示書をしばらく見つめてから、ポツリと呟いた。内示書を手渡してくれた上司に聞いても、暖簾に腕押し。『出向は出向』といった返事しかもらえなかった。

 そして、本日。異動の発令日、4月1日。集合場所として指定された場所に向かっている。未だに自分がどこの部署に配属されたのかわからない。

「で、集合場所が開館前の美術館ってのもどうなんですかね」

 集合場所が美術館というのも、訳がわからない。とある美術館の第三展示室が集合場所だ。美術館の開館時間は10時。集合時間は8時半。開館時間前に集合だから、美術館の鑑賞が目的という訳ではなさそうだ。

 開館時間前ではあったものの、学芸員の方は展示の準備をしている。学芸員に名前を告げれば、快く中に入れてくれた。

「快く、というよりは、助かったって感じ?」

 開館時間前に来たのだから、邪険にされるのだろうと身構えていた。だが、帰ってきたのは安堵の表情。どうぞどうぞというように、美術館の中に招き入れられた。そして、第三展示室に向かうよう指示された。

 この美術館で最奥にある第三展示室。まだ薄暗い廊下をジュンは案内標識に沿って歩く。

 ジュンは美術館とは縁遠い生活を送ってきた。最後に美術館に行ったのは、たぶん高校生の頃。美術の時間とかだったと思う。エネルギーの有り余っている高校生。美術館の展示を見るよりも、スポーツ観戦の方がよほど心躍る。だから、どんな展示があったのか全く覚えていない。

 だが、少しだけ歳をとって美術館を歩いてみると、結構面白い。同じモチーフでも作者が違えば違う風景になる。同じ作者でも年代によって違うインパクトを与える作品になる。

 開館前の薄暗い美術館というのも、またジュンに違った印象を与えているのかもしれない。薄暗い中にぼんやりと浮かび上がる絵画は、陰影がいつもより強調されていて不気味だ。

「で、ここが第三展示室、と」

 第三展示室はこれまで通ってきた第一、第二展示室よりも少々狭い。だが、これまで多くの美術品を見てきて疲れているであろう来館者にとっては、これくらいがちょうどいいのかもしれない。

「で、俺は結局ここで何を?」

 指示通りに第三展示室まで来た。けれど、この先はやはりわからない。美術品をいくつも見てきたが、結局どうしてここに呼ばれたのかはわからずじまいだ。

「塩谷ジュン、だな」

 ガラス張りの展示の影から声が聞こえる。

「あ、はい。塩谷ですけど」

 声がした方に向かうと、1人の男がいた。男は一つの展示をじっと見ている。

「俺は松原リク。今日からよろしく頼む」

「はぁ」

 リクは目を展示から目を外さず名乗る。初対面の挨拶にしては失礼な人だ、とも思ったが口には出さない。

 リクが年上だろうことが予想できたことと、装備が異様だったからかもしれない。

 格好は普通のスーツ。ただ、持っているものがおかしい。馬鹿でかい筆を持っている。それこそ、リクの身長と同じくらいの大きさだ。よく見れば、ベルトの周りにもたくさんの筆がぶら下がっている。腰に下がった筆は、ジュンに外国の民族衣装を少しだけ思い出させた。

「えーっと、今日はここで水彩画教室でもあるんですか?」

「塩谷主事はここに何しに来たんだ? 遊びに来たのか?」

 リクは冷たく言い放つ。ジュンには眼鏡が漫画みたいにキラリと光を反射した気がした。だが、その言い方には腹が立つ。

「仕事で来たつもりですけどね。ですが、私も何も聞かされていませんので、わかりません」

 棘のある言い方ではあったが、リクはフッと少し笑った。

「仕事で来たつもりなら、いい。説明してもわからないだろうからと、説明もせずにここに来いと言った俺も悪いからな」

 もっと喧嘩口調になるかと思ったが、ジュンの言い分を聞き入れた言葉に勢いを削がれる。苛立ちの持っていきどころがなくなったジュンは、リクが未だに見つめている展示に目をやる。

 展示されているのは、一隻の屏風だった。見事な虎が描かれている。ただ、他の展示とは明らかに違う。

「ガラスが、ない?」

 展示品と鑑賞者の間を仕切るために、普通はガラスがあるはずだ。展示品を湿気や埃から守るための、ガラスが取り払われている。これまで観てきた展示品は全て分厚いガラスで守られていた。この屏風だって、本来はガラスがあるだろうスペースに置かれている。

「ガラスは取り払っている。仕事に邪魔だからな」

 開館前の美術館と筆と屏風と取り払われたガラス。

「展示品の修繕か何かですか?」

 ならば、何とか説明は付く気がする。開館前に展示品の修繕を行う。だけど、それならリクが持つような巨大な筆は不必要な気がするし、展示を一旦止めて然るべき場所に移してから修繕すべきではないだろうか。

「修繕か。その認識で間違いないだろう」

 リクの手が筆の柄を撫でる。

「塩谷、虎の描かれた屏風と小僧の話は知っているか?」

「殿様が小僧に屏風に描かれた虎を捕まえてくれって頼む、やつですか?」

 結末は、小僧が『では、屏風から虎を出してください』と言われた殿様が、小僧のトンチに感心したという感じではなかっただろうか。

「その話に出てくる屏風がこれだ」

「へ? これが?」

 彼の有名な屏風が、今目の前にあるこの屏風? ジュンは改めて屏風を見つめる。確かに立派な虎が描かれている。

「けど、あれって作り話じゃないんですか?」

「事実だ。殿様も小僧も、そして屏風も全て事実だ」

 古いアニメのフィクションだと思っていた。が、その実物が目の前にある。屏風の横にある解説には、ジュンが思い描いていたのとほとんど変わらない情報が記載してある。

「そして、あの話には続きがある」

「殿様が満足して終わり、めでたしめでたしじゃないんですか?」

「この話はハッピーエンドなどではない。バッドエンドだ」

「バッドエンド……」

 思わず呟いたジュンは再び屏風の中にいる虎を見る。

「あれ?」

 一瞬、虎の目が瞬いて見えた。リクが虎が屏風から出てきたなんて真剣な表情で言ったからかもしれない。話に引きずられて、動いて見えたのだろう。

 だって、絵の虎が動くだなんて――。

「正しい結末は、『虎は実際に屏風から抜け出し、殿様を始め城にいた多くの人々を食い殺しました』だ」

「そ……んな、冗談ですよね?」

 子供向けのアニメに作られた話のはずだ。フィクション。仮にフィクションじゃないとしても、殿様と小僧と屏風が実際にあるのだとしても。『屏風から虎が飛び出して、人を食い殺す』なんてあるはずがない。

 だが、リクは大真面目に屏風を見つめている。

「来るぞ」

「何が……っ!」

 リクの声が鋭くなる。反射的に屏風を確認したジュンは自分の目を疑った。

 迫力満点に描かれた虎の口元が赤く染まっていく。口だけではない。立派な爪の生えた手足も赤に染まる。

 グルルルルル――。

 聞こえたのは虎の唸り声。虎が身体を縮こまらせる。飛び上がり、屏風から抜け出してくるまでは一瞬だった。

「うおっ!」

 ジュンは後ずさる。本物の虎ではない。だからこそ、余計非現実的だ。まさしく、屏風から飛び出た虎。筆のタッチはそのままに、虎が動いている。屏風に目を戻すと、そこには虎がいない。

 虎の口から赤い液体が滴り落ちる。『虎は実際に屏風から抜け出し、殿様を始め城にいた多くの人々を食い殺しました』と言ったリクの言葉が脳裏に蘇る。

 虎が大きく口を開ける。鋭い牙が顔を覗かせる。勢いよく虎がジュンに襲いかかる。

「ひっ……!」

「下がっていろ」

 凄まじい迫力に身体が固まったジュンをリクが押しやる。虎の開いた口を、巨大な筆で受け止めいなす。虎が距離を取る。だが、再び、今度はリク目掛けて襲ってくる。リクは慣れた様子で虎の攻撃を躱し、防ぐ。

「塩谷ジュン、殿様は小僧に虎をどのようにしろと命じた?」

「は? あ、えっと、縄で捉えろ、でしたっけ?」

 この非常事態に何を言っているのか。ジュンはリクの正気を疑う。ジュンは戸惑うものの、返答する。

「その通り」

 リクは大真面目に頷く。今まで虎の攻撃を防ぐためだけに使っていた筆を構える。

「だから、この虎は縄で捕まえるべきだ。そう思わないか?」

 リクの持つ筆に墨が入る。水に墨を一滴垂らしたかのように、じわりと空間に墨が滲む。

「技法・三墨法」

 リクは巨大な筆を器用に動かす。空間に漂う墨が虎を囲む。

「……縄だ」

 ジュンは呟く。リクが空間に描いていたのは、縄。凶暴な虎を捕まえるための縄が空間に描き出される。

 縄の根元はリクの持つ筆と繋がっている。リクが筆を引くと、つられて虎の周囲をふわふわと漂っていた縄が引き絞られる。虎が悲鳴をあげる。

「悪戯の時間は終わりだ。屏風の中に戻れ」

 リクは縄で捕らえた虎を屏風に投げつける。虎は一回転しながら、屏風にぶつかる。そのまま屏風の中にぬるりと入る。しばらくは屏風の外に出ようと踠いていたが、だんだんと動きが弱くなる。そして、ついに動きが止まり動き出す前の状態に戻る。

 虎が完全に動かなくなったことを確認し、リクが筆を下ろす。虎に巻きついていた縄が霧散する。

「修復完了」

 リクが眼鏡の位置を正す。

「これが、今日からお前の仕事だ」

「これがって……」

 これが、と言われても、何が行われたのか全く理解が追いつかない。行先不明の人事異動も、開館前の美術館も、巨大な絵筆も、屏風から飛び出して襲いかかってきた虎も、空間に現れた縄も、リクによって元に戻った屏風も、何が起こっているのか全くわからない。

 呆然と屏風とリクを見比べるジュンに、リクが手を手を差し伸べる。

「ようこそ、改変対策課へ」

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