第4話 健二

 

 竹さんが帰ると、お志麻さんは屋台の片付けを始めた。


「もう店仕舞みせじまいかい?」


 声を掛けたのは〈月と萩〉のマスターだ。


「あら、健さん。……じゃない、マスター。変な客が来たから早めに片付けようと思って」


「変な客って、もしかしてアベックか? 水商売風の若い女連れの」


「ええ、そう。どうして知ってるの」


「……すまない、俺が紹介した」


「えっ! マスターの紹介だったの?」


「旨いラーメン屋を知らないかって訊くもんだから、ここを紹介したんだが……何があったんだ?」


「大したことじゃないんだけど、作ったのに食べてもらえなかったから」


「すまない」


「マスターが謝ることないわよ」


「罪滅ぼしにおごるよ。飲みに行こ」


「うむ……どうしようかな」


 屋台を片付け終えたお志麻さんは、考える素振りでしばらく間を置くと、


「うふふ……付き合ってあげる」


 笑いながらそう言ってジャケットの袖に腕を通した。なかなかいい雰囲気じゃねぇか。っと、そのめぇに肝心なマスターの名前を紹介すんのを忘れてやした。


 マスターの名前は萩原健二。で、お志麻さんが健さんて呼んだ訳だ。実はこの二人、色々訳ありでしてね。ま、その辺のとこはぼちぼち話すとして。この先が気になるんで、話を進めますが。


 やって来たのは馴染なじみのスナックだ。この店も古く、古希こきを間近にした店主は洒落しゃれたカクテルを作ってくれる。アルコールが弱いお志麻さんにはうってつけの店だ。


「──親父さんの具合はどうだ?」


「うん……治りそうで治らない」


 健さんをチラッと見ると、カシスオレンジを口に含んだ。


「早くくなって、自慢の浪曲を聴きてぇな」


 健さんはウイスキーの水割りを飲みながら、お志麻さんの横顔を見た。


「竹さんも同じこと言ってたわ。うふっ」


 お志麻さんは小さく笑うと、グラスに口を付けた。


「竹さん、来てたのか?」


「ええ。私の思ってることを竹さんが代弁してくれたわ。さっきのお客に」


「俺が紹介した客のことか?」


「ええ。黙って聞いてりゃいい気になりやがって、文句があんなら他で食いやがれって」


「竹さんは生粋きっすいの江戸っ子だから、裏表が無くていい男だよな」


「あら、マスターだって、生粋の江戸っ子じゃない」


「そう言うお前も、……あ、ごめん。昔の呼び方をしちまった」


「別にいいわよ」


 酒で頬をピンク色に染めたお志麻さんが潤んだ目を向けた。


「ン! ン! そう言うお志麻さんも生粋の江戸っ子じゃないか」


「か。生粋同士だね。乾杯っ!」


 お志麻さんが健さんのグラスに自分のグラスを付けた。


「もう酔ったのか?」


「酒が弱いの知ってるくせに」


 お志麻さんがにらんだ。


「……だったな」


「さてと、帰ろ。ごちそうさま」


 お志麻さんが腰を上げた。


「おい、待てよ」


 健さんも慌てて腰を上げると、カウンターの中でグラスを拭いている店主の前に二枚の紙幣を置いた。


「ごちそうさま」


「いつもありがとうございます。またお待ちしています」



 健さんが急いで後を追うと、お志麻さんは仲見世なかみせをゆっくりと歩いていた。


「相変わらずせっかちだな」


「父さんからもよく言われる。もう少し女らしくしないと嫁の貰い手が無いぞって」


「……親父とのことが無ければ──」


「その話はやめてよ。もう昔のことじゃない」


 お志麻さんがにらんだ。


「……すまない」


「まるで、中年のロミオとジュリエットだね、私たち。ふふふ」


 ライトアップで浮かび上がった浅草寺の美しい伽藍がらんが、お志麻さんの潤んだ瞳を照らしていた。

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