第37話
どうやら取引先から、かなり無理な注文をつけられたらしく、今のいちかのプロジェクトチームが死にかけていると言うことだ。
大して単価も工数も高くないというのに、いちかの上司が仕事を引き受けてしまったのが全ての元凶らしい。
俺達プログラマーの中には、上流工程と呼ばれる人達がいる。
簡単に言えば顧客のニーズを分析して、要件を定義する人達を指す言葉だ。
彼らの中には、そもそもプログラミングができない人も少なくない。
そういった人が現場の声を聞かずに適当に仕事を引き受けてしまうと、悲劇が起こる。
しわ寄せは俺たち下っ端にやって来て、デスマーチが始まるというわけだ。
いつだって割を食うのは、現場の人間なのである。
ちなみにうちの三田課長もプログラミングはできないが、あの人は無理な仕事を引き受けることはない。
もし自分がわからない領域の話をする場合、必ず部下から詳細な情報を得てから仕事の可否の判断をする。
なので不可能な仕事は振られない。
――まあキツい仕事は振られるんだけどな!
いちかに愚痴を言わせてストレス発散をさせながら、一緒に食事を食べていく。
人間腹がたまると機嫌が良くなるらしく、いちかの声はみるみるうちに弾んでいった。
ちなみに出てくるのは、一体どこの国のものかもわからにあ長ったらしい料理ばかりだ。
俺には何がなんだかわからなかったので、注文は全ていちかに任せている。
「なんだこれ、しょっぱい魚卵だな」
「先輩、それキャビアですよ」
「えっ、これが? ……初めて食べたかも」
「――ええっ、マジですか!?」
マジもマジ、大マジよ。
だってキャビア、高いじゃんか。
ちょっとメニュー見るか……って、5000円!?
こんなちょっとキャビアが乗ってるだけなのに!?
他のメニューも見て驚愕した。
ぜ、全部高ぇ……お通し1000円って、俺の財布爆発しちゃうよ……。
東京はおそろしいところったい……。
顔を青ざめさせていると、救いの女神からの声がかかった。
「先輩、次からはいつもの居酒屋でいいですよ」
「……そう?」
「はい、私居酒屋も好きですし。なんなら宅飲みとかでもいいですけど」
「宅飲みかぁ……」
大学生の頃は上京してきて一人暮らしをしてるやつのアパートに突撃しては、意味もなく朝まで飲み明かしたものだ。
次の日の朝にグロッキーな状態になって食べるハンバーガーや牛丼の美味しさが、なんだか少し懐かしい。今同じことをしたら、間違いなく胃もたれして受け付けないだろうけどさ。
でも宅飲みは、社会人になってからは一回もしてない気がするな。
たしかに店の酒の値段は定価の三倍なんて言うくらいだし、家で飲んだ方が経済的ではあるのに。
なんでだろうと思い、俺は悲しい事実にたどり着いてしまった。
俺、家に呼べるような友達、いなかったわ……(泣)。
「よければウチ来ますか? 先輩と違って、綺麗にしてますよ」
「俺の部屋だって綺麗だが?」
「じゃあ家帰ったら掃除しないで写真撮って送ってください」
「遠慮しておきます」
自慢じゃないが、俺の部屋はあまり綺麗ではない。
ゴミ箱すらないし、袋が乱雑に置かれていてそこにゴミを放り込んでいるだけだ。
寝室横には積み本も大量にあるし、掃除は掃除機をかけるのがめんどくさいからコロコロ一本で賄っている。
けれど話を上手く逸らすことには成功したぞ。
いちかが俺の家に来て、そこでガンガン酒でも飲もうものなら……俺が獣になってしまう可能性が否定できない。
自慢じゃないが、俺はそこまで自制心も強くないからな……。
「……先輩のいくじなし(ボソッ)」
ぽつりといちかが何か呟いた気がしたが、ムーディーな音楽にかき消されて何を言っているかまでは聞き取れなかった。
会計を見て顔を青ざめている俺をかわいそうに思ったいちかによって、今回のお会計は割り勘という形になった。
今日俺は、何事も背伸びのしすぎはよくないということを学んだ。
ぶっちゃけ雰囲気とかが出過ぎていて、俺にはちょっと敷居が高かった。
次からはまた、いつもの激安チェーン店居酒屋に戻ろうと思う。
等身大でありのままな自分で生きていこうと思うのだった。
「ふあぁ~、風が気持ちいぃ~」
秋風が、アルコールで火照った頬を優しく撫でていく。
頬を赤く染めたいちかが、ぐぐっと背筋を伸ばす。
別に指定されているわけではないのだが、いちかはいつもスーツを着ている。
グッと背筋を伸ばすと、元々ぴっちりとしたスーツに身体のラインが更に浮き出て非常に目に毒だった。
思わず視線を逸らすと、俺のよこしまな視線に気付いたいちかが頬をつんつくしてくる。
「ちょっと、どこ見てたんですか~?」
「どこも見てないぞ」
俺もいちかも大分酔っ払っている。
財布を気にしてあまり料理を注文せずに酒を飲んだせいで、いつもより酒が回っている。
いちかの指をつつぅと動かしていく。
頬から首筋、そして胸筋へ。
キラリと彼女の瞳が輝いた気がした。
「先輩……ちょっと聞いていいですか?」
「ん、どうかしたか?」
「先輩って、最近何してるんですか?」
「な、何って……仕事と筋トレだって」
「それ以外にも何かしてません?」
ドキッとしながらイチカの方を見ると、彼女の指先が胸から腕に移っている。
今の俺はシャツにパンツなラフなスタイルなので、妙にこそばゆい。
けれどいちかの顔はめちゃくちゃ真剣だ。
気付けば頬の赤みも消えている。
俺の背中に、冷や汗が垂れる。
こいつ……酔ってなかったのか?
「スーツの時は気付かなかったんですけど……先輩、明らかに焼けすぎてますよね」
ここ最近ウィドウと稽古をする時には稽古着を着ていた。
そのせいで俺の身体はたしかに働いていた時と比べると大分黒くなっている。
「それに、手にたこもできてます。先輩……最近、何やってるんですか?」
いちかは妙に勘が鋭いところがある。
多分だがこいつは、俺が何かを隠していることに気付いているんだろう。
流石に異世界に行っているとまでは想像してないだろうが……どうしよう、この場を切り抜ける上手い言い訳が思いつかないぞ。
なんか適当に言い訳をしてごまかすか?
最近農業始めてさ……とか。
でもそんなことをしたら、墓穴を掘ってどうしようもなくなる気がするぞ。
どうする、どうする……?
必死になって頭を巡らせていると、唇にぴとりと何かが当たる。
何かと思えば、いちかの右の人差し指だった。
何か塗っているのか、妙に光沢のある爪がキラリと光を反射する。
「言いたくないなら、いいんです。無理に聞き出したいわけでもないですし」
でも、これだけは忘れないでください。
そう言うと、いちかは俺の耳元にまで顔を近づけて……
「私は先輩の、味方ですから」
ドキリと心臓が高鳴る。
さっきまでとは違った種類の動悸がやってくる。
多分今俺の顔は、かなり赤くなっているだろう。
沸騰した頭を必死になって冷まそうとしていると、気付けば口にあった感触は消えていた。 見ればいちかは距離を取ってこっちに手を振っている。
「――それじゃあ、また!」
いちかはそのまま、ぴゅーっと駆け出していった。
短めのスカートなのも気にせずに、ものすごい勢いで駆けていく。
後ろ姿しか見えなかったが、去り際の彼女の耳は真っ赤になっているのがわかった。
「……」
こうして俺は出不精を卒業し、再度外に出ることができるようになった。
俺は世界は理不尽を押しつけてくるものだとばかり思っていたけれど。
どうやら世の中というのは、俺が想像するほどに悪いものではないらしい……。
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