夏風邪と甘えと誘惑


 彼女が風邪をひいた。

 メッセージのやり取りで、風邪っぽいかもと言っていた矢先だ。木曜日の今日、朝イチで熱が出たと連絡が来ていた。仕事も休んだみたいで、そのまま金曜日も休むと。

 ここ最近忙しかったのもあり、先週に比べて夜は涼しくなっていた。色んな要素が重なったのもあるんだろう。

 彼女には心配しなくて大丈夫と連絡をもらったが、心配しないわけが無い。

 仕事終わりに寄るから食べたいものリクエスト、と送れば『いつもの』と返事が来て、不謹慎だが嬉しく思ってしまった。

 定時に仕事を終わらせて、スーパーや薬局に寄り必要なものを買っていく。

 彼女の家の前。一応、もうすぐ着くと連絡はしてあるが既読の形跡はなかった。チャイムを鳴らすか悩んだがやめた。鞄から合鍵を取りだし、鍵穴に差し込む。

「おじゃ、じゃなくて、ただいま」

 機械の音以外、シーンと静まり返った部屋に小声で挨拶をして入る。

 最低限のところだけ電気をつけて、彼女の寝室への扉を光が入らないように少しだけ開く。その隙間から覗くが、暗闇で分からなかった。もう少しだけ扉を開き光を取り込むと、ベッドの上に、こんもりと山になっている塊があった。

 起こさないように近寄る。体調が良くないから、いつもよりも穏やかな寝顔ではなく心配が募る。

 寝汗でおでこに張り付いた髪を撫でる。

 先にご飯を食べてから着替えだな。サイドボードに置いてある水に目をやると中身は減っていなかった。スポーツドリンクを置いて部屋から出る。

 彼女の家の冷蔵庫には、相変わらず最低限過ぎるほどの物しか入れられていなかった。こんな時でも相変わらずで笑ってしまう。

「よしっ、作りますか」

 彼女からの要望はあんかけかき玉うどんだ。初めて彼女が風邪をひいた時に作ったら気に入ったらしく定番となっている。

 材料はシンプルだ。うどん、たまご、ねぎ、しょうがだけ。ねぎも冷凍食品で売っている。便利で助かる。

 鍋にお湯を沸かし、麺つゆ、醤油で味の濃さを整える。チューブの生姜を少し多めに入れればほぼ完成だ。

「……いい匂い」

「ごめん、起こしちゃった?」

 彼女はふにゃりと力無く笑うと、首を横に振った。

「スポドリ飲んだ?」

「うん」

「うどん食べる?」

「うん」

「すぐに仕上げちゃうから待ってて」

 彼女の体を冷やさないために、マッハで仕上げなくては。

 うどんを茹でてお椀に盛ったあと、沸騰してきたつゆに溶き卵を投入。火を止めてから水溶き片栗粉を入れて再度火にかける。うまくとろみがついたところで火を止める。

 うどんの入ったお椀につゆを入れて、最後にネギを散らす。

「おまたせ」

 彼女の分と自分の分。机に二人分を置く。

「さて、食べようか」

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 彼女が食べるのを見守る。ふぅふぅとうどんを冷まして彼女の口の中に入っていく。噛んで、飲み込んで。

「おいしぃ」

 ここでようやくほっと胸を撫で下ろす。食欲はあってよかった。

 元々、彼女は風邪になっても食べれるタイプだ。今回も、食べたいものはという時点ですぐに返ってきたことに食欲はあるとわかってはいたけど、実際に確認するまではやはり不安もあった。

「いただきます」

 自分で作ったうどんに箸をのばす。

 うん。上手くできている。

 初めて彼女が風邪をひいた時に作ってあげたこのメニューが凄く気に入ったみたいで、それ以来、風邪の時だけの定番メニューとなっていた。今日もお気に召したようで良かった。

 色々と調べて、彼女の為に作ったものを喜んでくれて私も嬉しくなる。

 今日に限ってあまり会話もなくご飯を食べ終えた。熱も計ったが、やはり高かった。見た目より辛いのだろう。

「汗拭いちゃうから脱いで」

 洗い物は後でやるとして。桶にお湯をくんで彼女がいるベッドまで行く。

 彼女が驚いた顔で見ている。

「このままお風呂に入るのも危ないし、だからといって汗だくのままも嫌でしょ。パジャマも替えたいし」

 つらつらと説明していけば、納得した表情になった。

 タオルをお湯に浸けて絞る。一個を彼女に渡してもう一個は私が持つ。

「後ろは私が拭くから、前は自分でお願い」

 こくりと頷く彼女を見て、パジャマを脱ぐ彼女を見守る。

 彼女の少し赤らんだ頬。口から漏れ出る息。汗ばんだ肌。咳払いをして邪念を吹き飛ばす。

 彼女が脱いだあと、余計なところに目をやらず背中を拭いていく。

「あと、下は自分でお願いね。私は片付けてくるから」

 逃げるように彼女に新しいタオルを渡す。

「拭いてくれないの?」

 風邪のせいだろう。少しかすれた声で発せられた言葉は思考を止めさせるのは簡単だった。

「ふ、拭かないよ。自分でできるでしょ」

「ふふっ、拭いてくれてもいいのに」

 彼女の顔を見ると楽しそうだ。完全にからかわれている。

「いいから。ほら、早く拭かないと体が冷えちゃう」

「はーい」

 彼女がズボンに手を掛けるのを見て部屋を出た。


「はぁ……」

 大きなため息を吐く。彼女は風邪だ。病人に手を出すなんてもってのほか。我慢した自分の理性を盛大に褒めておいた。

 数分後。彼女から呼ばれて行けば、すでに拭き終えて新しいパジャマに着替えていた。

「洗濯しちゃうのと、お風呂借りてもいい?」

「えっ、泊まってくれるの?」

「あっ、ごめん。そのつもりだった。明日、ここから仕事に行こうかなって。着替えも持ってきてるし。駄目なら帰るけど」

「ううん。だめじゃない。……ありがとう」

「じゃあ、お風呂借りちゃうね」

 彼女の頭を優しく撫でてお風呂に向かう。確か押し入れに来客用の布団があったはずだし、寝る時はそれを借りよう。もしくはソファで寝かせてもらえばいいか。

 お風呂から出て彼女にお布団を貸してと言えば即却下された。

 そのかわり、クイクイと袖を引っ張られてベッドに誘われる。

「いや、それは」

「……いや?」

 いつもより甘えた声で聞いてくる。それはずるい。

「嫌じゃないけどさぁ……」

「じゃあ、いっしょにねよ」

 甘えた声に舌足らずな言葉。かなり眠たいのだろう。

 風邪が伝染るとかそういうのは気にしてはいない。というより私が気にしなくていいと風邪を引くたびに伝えているからだ。

 彼女も初めの方は伝染るからと拒否していた。けど、彼女からの風邪を一度ももらったことがないという事実で、ここまで甘えてくれるようになったのだ。

「お邪魔します」

 いつもより体温の高い彼女の隣に横になる。すぐに彼女が抱き着いてくる。胸の辺りでグリグリしている姿が可愛すぎてキスしたくなるが、それも耐えた。

「寝よっか」

「……ねるだけ?」

 彼女手が私の手を掴む。その手を彼女の胸に……。ごくり、と唾を飲み込む音が大きく響いた気がした。

「うふふ、なおったらしてね。おやすみなさい」

 彼女は時々こうしてすんごい爆弾を落とす。そして彼女は私を置いて腕の中で目を瞑ってしまった。

「もぅ、ほんとにさぁ……」

 残された私は悶々としつつ、これくらいなら許されるだろうと彼女のおでこに唇を寄せて、抱き締める腕に少しだけ力を込めて目を瞑る。


 彼女の風邪が早く良くなりますように。



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