06 (完)
深い夢から目の覚めるようだった。
いや、それは目を開けたときに「目を覚ましたのだ」と理解をしたためで、覚えたのは異なる感覚だった。
深い深い――海の底にいるようだった。
とても静かだった。ほかには誰ひとり、生き物一匹おらず、サズは自分が何故そこにいるものか思い出せぬまま、冷たい水に少しずつ体温を奪われてゆくことだけを意識していた。
このままでは死んでしまうと、焦ることはなかった。恐怖も。何も。
ただ、不意に、温かい手が頬に触れた。肩に。首筋に。唇に。
(――サズ)
呼ばれて彼は目を覚まし、そこで「目を覚ましたのだ」と思った。
「お帰りなさい」
口づけを終えた女が言った。
「私の可愛い人」
「ラーミフ」
彼は王女を呼んだ。呼ぼうとした。だが声は掠れ、わずかな吐息が出ただけだった。
では、とサズは思った。
自分は死ぬところだったのだ。
魔術の理で計り切れない相手から――紛う方なき、魔術の技を受けて。
南東の小さな町の、薄汚れた店が蘇る。
あれは、何だ。何だった。
思い出そうとするとぞくりとした。
この感覚は何かに似ている。恐怖のようでそうではない。
畏敬。畏怖。敵わぬものに対しての。
そう、あれはアスレンの技を目の当たりにしたときと、とてもよく――。
「サジアレス」
彼はぴくりとした。
ラインたる第一王子、従弟アスレンがサズを「サジアレス」と呼ぶのは、とても機嫌のよいときか、或いは最悪のときだ。
いまがどちらであるのかは、考えるまでもなかった。
サズは二度に渡り、失態をやらかしたのだ。
三度目は、ない。
「言い訳はあるか」
アスレンは凍るような冷たい声で尋ねた。言い訳など聞くつもりもないくせに。
サズは黙った。巧く声が出ないということもある。だが、何も言うことはないとも、思った。
「いいだろう」
その無言をどう取ったか、アスレンはかすかにうなずいた。
「俺は言ったな。お前はお前の役割を果たせと」
言った。確かに言った。
果たせると、思った。
「だが、お前はしくじった。繰り返し、しくじった。レン王家の一員として、あまりにも不名誉」
何も言うことはない。その通りなのだ。これは彼の失態にほかならない。
「お兄様」
ラーミフがサズの傍らからすっと立ち上がった。
「せっかくラーミフが連れて帰ってきたのよ。なのに、殺してしまうつもり?」
アスレンは妹の言葉に答えなかった。だが、答えずとも明らかだった。
そこでサズは――何だか、可笑しくなった。
ラインは愚かな従兄を殺すつもりだ。失敗の罰として。
もちろん、ラインにはその権限がある。王甥でも、召使いでも、アスレンがどうしようと誰も咎めない。
どうやら死ぬようだ、とサズは他人事のように思っていた。
アスレンの魔力に対する畏怖はある。だが恐怖はない。それどころか、可笑しい気持ちすら浮かんだ。
この従弟殿は、まるで失態続きのサズがレン王家の恥だとでも言うように、大義名分で彼を殺そうとしている。
だがその実、自らの企みが巧く運ばぬことに苛ついているだけなのだ。
サズにはそれが判った。
アスレンは、西の〈守護者〉がラインたる彼に抗い続けている、その腹いせに従兄を殺す。サズの失態が、まるで自分を鏡に映したようで、気に入らないのだ。
しかし、もしサズが巧いこと南の〈守護者〉を籠絡していても、話は同じ。自分が為せないことをサズが為したなどと思えばアスレンは腹を立て、ほかに何か理由をつけて――いや、理由をつける必要などない。腹が立ったから殺した、で何がいけない? 彼は〈ライン〉なのだ。
為そうとしくじろうと、アスレンが西の守護ごと翡翠を手に入れない限り、近い内にサズは殺されただろう。
「残念だ、サズ」
アスレンは心にもないことを言った。可笑しかった。
「可愛い人」
ラーミフの声がした。
「あなたが死ねば、私があの男に復讐をするわね、サズ」
王女が誰のことを言っているのか、彼には判った。
サズを殺すのはアスレンであるのに、ラーミフは、サズが罰される原因を作った南の男に復讐をすると、そう言った。
彼は何も言わず、口の片端を上げた。
皮肉を覚えた、というのもある。彼は自身の死によってさえ、ラーミフの心をアスレンから奪うことはできないようだ、と。
だがその笑みには、喜びもあった。
初めてのことだった。ラーミフが、サズのために何かをすると言ったのは。
もちろん、王女の言うのは「彼が死んだら」だ。だがそんなことは関係がない。
本当の意味で復讐をするのならば、その相手はアスレンのはずだ。だが、そんなことは、関係がない。
サズはわずかに笑んだ。
ラーミフは、サズという玩具を守るためにアスレンに逆らったりはしない。
だが復讐をすると言う。
アスレンの代替としてではなく、死に行くサズのために復讐をすると。そう言った。
サズの内には捻れた喜びが浮かんでいた。
しかしそれは、「王女が復讐を果たしてくれる」ということに対してでは無い。
ラインと呼ばれる王子の左腕が振られた。そこには、かすかな傷跡があった。ああ、あの傷がアスレンを怒らせたのだな、と従兄は気づいた。
そのあとはもう、サズはアスレンを見なかった。
サズはラーミフを見つめた。
自らの全てと引き換えても――手に入らなかった女。
悪い終焉ではない。
最後に与えられたのは、ねじれて表裏の区別がつかない〈ドーレンの輪〉のような、馬鹿げた定め。
だが、悪くない。
愛しい女のために、この世ならぬ力と戦うことのできる男が、どれだけいると?
敗れたことは心残りだが、もしも首尾よく翡翠を手にしたところで、ラーミフはやはり彼に礼を言うだけだっただろう。そして、アスレンに抱かれ続けただろう。
しかし、こうしてアスレンに罰され、殺されることで得るものがある。
彼の死の原因となるのは、この世ならぬ力。
ラインの魔力がサズの命を奪おうとするとき、サズの脳裏にははっきりと浮かんでいた。
サズの復讐を目論んだラーミフは、この世ならぬ力を得た南の〈守護者〉に対峙し、そして、死ぬだろう。
先ほど彼を呼んだ王女は、次には彼を水上に引き揚げず、その代わり、共に海の底に沈むだろう。
――それはたとえば、身を滅ぼすほどの恋。
自らの身のみならず、愛する相手までを滅亡させる。
なかなか刺激的だ、と彼は思った。
「さようなら、サズ」
いいや、ラーミフ。彼は思った。
お前は俺のところにくるんだ。
アスレンを離れ、永遠に。
手に入れたと、捻れた歓喜の内に、レンの王甥はその鼓動をとめた。
―了―
この身、滅べども 一枝 唯 @y_ichieda
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