明日死ぬと思って食べなさい 。永遠に生きると思って食べなさい(2/3)
「助かった。いや本当に助かった。君は本当に聖女のようだな」
いきなり僕が住んでいるマンションの扉を開けたかと思いきや、堂々と入り込んだ挙句にマンションの中に溜まりに溜まっている汚物の臭いを直に嗅いでしまったが為にいきなり胃の中のものを嘔吐してしまった初対面の女の子の面倒を見ること、実に数時間。
気づけば時間帯は午後の5時ぐらいになっており、3月と言えども夕日の眩しい時間帯に差し掛かっていた。
「そして、重ね重ねお詫び申し上げる。まさか人様の家で……しかも、和奏の家で嘔吐をした挙句に面倒を診てもらうだなんて、胃が痛くなるな」
「いえ、それに関しましては後片付けをしていなかった僕の責任ですので。まさか、此処にこうしてお客様が来るだなんて夢にも思っていなかったというのが正直なところです」
「そう言って貰えると心が軽くなる。ついでに胃の痛みも少々収まる」
いきなり床の上で吐瀉物をまき散らしたという前科があるだけに、彼女の胃痛は冗談のようで冗談とは思えないというのが正直なところで、僕は乾いた笑みを浮かべるしか出来なかった。
――話は数刻前まで遡る。
僕は1週間前に交通事故で姉を失ってしまった心痛でこれからどうやって生きていけばいいんだとヤケクソになっていた所に、いきなりこの家に侵入してきた彼女がいきなり吐瀉物を吐いては生死の境を彷徨った。
なので、僕は嘔吐によって体力を奪われてしまった彼女を楽な姿勢になるように椅子に座るように勧めると、彼女は疲れが溜まっていたのか椅子に座った瞬間に爆睡。
当然ながら、家の中にゲロがあれば片付けをしないといけない訳で、そのついでに前々から腐らせていた食材の片付けを寝ている彼女を起こさないように物音立てずに行い、数時間もの間、寝ている彼女をそのままに片付けに勤しみ――そして、今に至る。
「にしても、まさか数時間であの汚部屋がここまで清潔感溢れる空間に変化するとはな。ここまでの変わりようを目の当たりにさせられると、私は夢を見ていたのではさえ思うよ」
感慨深げに椅子に座った状態で周囲の様子を見渡す彼女だが、確かに彼女が目の当たりにしたあの部屋と今の部屋が同じ空間だなんて、普通の人間では到底考えられないような変貌っぷりを遂げていたのである、えっへん。
「ところで君は一体何を? いや、エプロンを着用している事から何となく予想はついているのだが」
「はい。折角のお客様でしたので何かご飯でも作ろうかと思いまして」
「食事か。折角の好意に水を差すようで悪いのだが、私は先ほど吐いたばかりで食欲がなくてな」
「ですので、塩分補給がてら本当に軽いものを。僕もここ数日何も食べていなかったので、胃腸に優しいものでも食べようと思っているんです。……あ、良かったら塩分と水分補給にスポーツドリンクでもどうぞ。冷えてますよ」
「え? あ、あぁ、頂く。にしても随分と手際が良いんだな」
「姉と2人暮らしでしたので。慣れざるを得ないと言いますか……まぁ、お料理自体は僕も大好きなので」
厨房の前に立った僕は慣れ親しんだ包丁を手にして、これから調理する具材の下準備を行っていた。
具材と言っても、冷凍保存しておいた椎茸にかまぼこ、まだまだ使えそうな三つ葉や菜の花と言った季節のお野菜……等々と、そこら辺のスーパーで安く買い揃えられるものばかりであるのだが。
「何かアレルギーがあったりします?」
「いや、特には無い。……というか、本当に作るのか?」
「えぇ、僕もお腹がペコペコですし。それに誰かと一緒にこうして食事を採れるだなんて夢にも思わなかったので」
「……それを言われると私は何も言えやしないな。分かった、ご相伴に預かるとしようか。ところで君が作っているものは一体何だ?」
「お吸い物です」
彼女とそんなやりとりを交わしながら、市販の豆腐をそのまま冷凍保存にして作り置きしていた『高野豆腐もどき』の解凍を確認してから、冷蔵庫からとある液体で満たされた半透明のボトルを取り出した辺りで、僕が調理する様子をまじまじと見つめていた彼女が不思議そうな声を出した。
「その容器に入っているものは何だ? 醤油か?」
「え、これですか? 前々に作り置きをしておいた出汁です。鰹節と昆布の旨味を3時間ぐらいかけて凝縮させた代物なので、時間がなければこれとお野菜で簡単にお吸い物が出来るお手軽マイ出汁なのです」
「……君。もしかして、将来は料理人でも目指しているのか?」
「いやいや、まさかまさか。こんなの誰だってするでしょう」
「いや、君ぐらいの年齢でそこまでする人間は少ないと思うんだが。君、来月の4月から私と同じ高校生2年だろう? ちょっと意識が高すぎやしないか? それとも料理動画か何かを投稿して収益でも得ていらっしゃるのか?」
「マイ出汁作りぐらいは誰でもすると思うんですけどね。え? 冗談ですよね? してないんですか? マイ出汁作り?」
「しない」
「うっそだぁ」
笑いながら否定した僕に対して、何故か少しだけ引いているような雰囲気を醸し出す彼女を差し置いて、ボトルに入れておいた出汁を鍋に投入した後、塩や醤油で味を調え、濃すぎるようであれば水道水で塩分を調節。
とはいえ、今回は胃腸が弱っている彼女の塩分補給も兼ねているので塩分はいつもよりも気持ち半分ぐらい多めにしておく。
充分に鍋の中の出汁が温まったのであれば、準備しておいた高野豆腐と椎茸を入れ、3分ほど中火にかけてしっかりと芯まで温めた後に、崩れやすいかまぼこを入れる。
そして、御椀に具材と汁を移し、最後に見栄えが良くなる三つ葉や菜の花を投入したら、数分程度で春野菜の澄まし汁の完成である。
「はい、お待たせしました。春野菜の澄まし汁です。温かいので胃腸にも優しいですし、塩分と水分補給を兼ねています」
「……君、金とか普通に取れるんじゃないのか……?」
「まさか。こんなのどこにもあるようなズボラ飯ですよ」
「君は一度ズボラという言葉の意味を調べ直した方がいいと思うんだ」
そうは言う彼女ではあるが、それでも今回の料理はあまり力を入れていないのが実の所だ。
実際、1週間近く放置していた冷蔵庫には使い物になるような食材が少なく、予め冷凍保存しておいた物しか無かったので、作れる選択肢がとても少なかった。
本当なら、鯛とかそういう白身魚をふんだんに使った澄まし汁を用意したかったのだが、上手くいかないのが世の常であった。
「さぁ、冷めないうちにさっさと食べましょう。美味しくなかったらごめんなさい」
「知ってるか、君? 出汁はな、料理のセンスが最大に問われる要素がたっぷり揃っているから、美味しい澄まし汁が作れるヤツはとんでもないほどの料理上手らしいぞ」
「世間一般的にはそう聞きますね。さて、それでは……」
「頂きます」
「頂きます」
異口同音でそんなお決まりの言葉を口にした僕たちは早速、澄まし汁を口にするべく御椀を手に持った。
「……」
当然ながら、作った人間として自分の作った料理を食べている人間の反応を気にするなと言われても出来る訳がなく、僕は慣れ親しんだ澄まし汁を啜りながら、彼女の動向を静かに見守っていた。
――こうして見ているだけであるのだが、御椀と箸を手にしている彼女は絵になるぐらいに様になっていて、普段から彼女はあんな綺麗な姿勢で食事に向き合っているのであろう事が簡単に予想できた。
かちゃかちゃと容器と箸をぶつける音や、汁を啜る際の物音なんて全くさせないまま、御椀に口を寄せた彼女が澄まし汁を啜ったその瞬間、彼女の表情はぱぁっと、明るい光輝くような笑顔になった。
「うわ、美味っ⁉ え、なにこれすっごく美味しいコレ! ――こほん。うん、美味しいな」
澄まし汁を口にした瞬間、まるでまだ幼い子供のように豹変して美味しいと言葉にしてみせた彼女を前にしてしまった所為で、今までに抱いていた彼女のイメージが急に崩されてしまった僕は唖然としていると、彼女は恥ずかしそうに赤面をしては咳払いをしてみせた。
もしかして、男言葉を話している彼女は演技か何かであって、先ほど見せた子供のようなリアクションをとってみせたのが素の彼女なのだろうか……まぁ、本人が恥ずかしそうだから言及しないでおくけど。
「良い出汁だ。五臓六腑まで染み渡るという慣用句はよく聞くけれど、まさか実感できるだなんて思わなかった。濃すぎず、薄すぎず、優しい味だ。溜息が出る味とはまさにこの事だな」
ふぅ、と何やら色っぽい溜息を吐いて見せる彼女に思わずどぎまぎしてしまい、僕はそれを誤魔化すように澄まし汁を啜り、椀で顔を隠す。
もし見られていたらとんでもなく恥ずかしいと思っていたのだが、どうやら彼女は僕が作った澄まし汁の感想を口にするのに必死のようで、僕の様子なんて気にも留めていなかった。
「うっま……え、なにこれ、うっま……なにこの豆腐……うっまぁ……数分で作っていい味じゃないよこれぇ……えへへ、しあわせぇ……」
演技を忘れて高野豆腐もどきを貪る彼女と同じように、僕も豆腐を箸で摘まんで口の中に入れる。
……まるで本物の鶏肉のような食感が堪らない。
噛めば噛むほど豆腐の中に染み込んだ濃厚な出汁が爆弾のように弾けるのも中々に乙だ。
苦汁を入れた豆腐を冷凍庫に入れただけで、こんなに美味しい具材になるだなんてなんてお得なのだろう。
「お代わり! ――ではなく。うん、お代わりを希望する」
めちゃくちゃニコニコした笑顔で御椀を僕に突き出してきた彼女ではあるのだが、すぐに冷静さを取り戻したのかいつもの男言葉口調で仏頂面の彼女になった。
とはいえ、それでもお代わりを撤回しなかった彼女の図太さが何だか可笑しくて、僕は笑いながら彼女の要望を聞いてあげる事にした。
「前述した通り、美味い澄まし汁を作れる人間は大変な料理上手らしいが……それを数分で作れる君はとんでもない程の料理上手だな? お代わり」
「うーん、断言できるぐらい多くの人の料理を食べた事が無いので何とも言えませんけど。はいお代わりどうぞ」
「なら、適当に入った料理店で自分の方が美味しい料理を作れると自負した経験はあるか? お代わり」
「いや、そんなにないとは思いますけど。はいどうぞお代わりです」
「そんなにぃ? うっそだぁ! えー? 本当の所はどうなのさ? んー? もう1回お代わりー!」
いや、素の自分を本当に隠す気あるんですか、貴女。
「正直に言いますと結構あったりしますね。ところでそろそろ澄まし汁なくなるんでこれが最後のお代わりです。これ以上食べたら胃腸に悪いですよ?」
「えー⁉ もっと食べた――ではなく! ふむ、道理だな。だが私の胃腸はそんなに軟じゃないのでお代わりを希望する」
「はいはい」
――不思議なものだ。
僕たちはつい先ほどまで見ず知らずの他人同士であった筈だったのに、気づけば食事のおかげでこうして気安く会話をしていた。
彼女の名前が
「それはそれとして、今回の澄まし汁は『食べる為に、食べる』がモットーです。胃腸に優しい食事にしようと思いましたので食べ過ぎは厳禁です。めっ、です」
「食べる為に、食べる……うん、そういう哲学的な考え方は嫌いじゃないけど……むぅ……もっと食べたいなぁ……成長期なんだけどなぁ私……」
とはいえ、今の今まで自分1人の為だけに食事を作ろうとせず、もうどうにでもなれと投げやりになっていた人間が偉そうに言える内容だとは思えないけれど、僕は先ほどの憂鬱な気分を忘れて、笑顔を浮かべながら彼女に残酷な言葉を投げかけた。
「駄目です。今日はもう終了です」
「うわ、そういう事を口にするキミは本当に和奏そっくり。気持ち悪」
お互いにあまり知らない間柄だというのに、たった一度の食卓を囲んだだけでこんな気安いやり取りをしている僕はあまりにも警戒心という物が欠けているのではないのか、と思わざるを得ないのだろうけれど――。
「はは、あはは……!」
「ふふ、ふふふ……!」
――あんまり考えなくてもいいかなぁ。
よく分かんないけど、なんか、ちょっとだけ幸せだし。
姉さんが死んだ世界で、こんな温かい気持ちにもう一度なれるだなんて思ってもみなかったから、別に考えなくてもいいかもしれない。
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