俺の部屋はハーレムが過ぎる。(1)

 6月17日。土曜日。


 俺の家が練習場所となってから早くも1週間が過ぎた。月、水、金曜日のアルバイトと日曜日を除いた毎日の練習は、着実に俺の演奏技術を伸ばしていた。


 現在、俺は俺の部屋で練習をしている。そして、隣の部屋では紗里奈がドラムの練習をしている。別々の場所で練習することで、お互いの音が邪魔にならないようにしているのだ。


 そんな時、俺はとある問題に直面していた。


「美月先輩」


「ん?」


 制服姿で俺のベッドにあぐらをかいて座る黒瀬くろせ美月みづき先輩が練習の手を止めた。白色のボディと黒色のネックが特徴的なベースをベッドに置き、ゆっくりと俺に近づいてくる。


「どうした? 初給料で私達に焼き肉でも奢ってくれるのか?」


「奢りませんよ。そもそも、なんで奢らなくちゃならないんですか?」


「私の優しさに感謝してだろう?」


「いつ美月先輩が俺に優しさを向けたんですか!」


「かわいい私が、今こうして純太のベッドに座ってあげているのが、優しさそのものじゃないか」


「それを優しさと思うやつは変態ですよ」


「不純太は十分に変態だろう?」


「その呼び方は勘弁してください」


 思いっきり頭を下げる。


 一応、俺が紗里奈の胸を触ろうとした件は「体勢を崩してしまって、紗里奈の胸に触れそうになった」ということで、美月先輩には納得してもらっている。しかし、こうしてイジられると反論できないのは辛い。


 美月先輩は満足げに鼻を鳴らした。それから、まるで女王様にでもなったかのように偉そうに足を組んだ。美月先輩のクールで大人びた雰囲気と相まって妙に様になっている。


「ふん。それで、なにか用か?」


 呼び方に関しての文句はあるが、それを今言っても仕方がない。本題に移るとしよう。


「その、Fエフコードって、人間が押さえられるコードですか?」


「当然だ」


「まったく音が出ないんですけど」


 そう。俺は現在、Fコードを弾くことができずにいた。


 軽音楽部合同ライブで演奏する予定の曲である「火花」。この曲ではサビでFコードを弾く必要がある。つまり、Fコードが弾けない限り、火花のサビを演奏することができないのだ。


 今まで、GジーコードやCシーコードといったメジャーコード、EmイーマイナーコードやAmエーマイナーコードといったマイナーコードは難なく弾けるようになった。もちろん、どれも最初は上手く弾けなかったが、何度も押さえることで習得したのだ。


 しかし、Fコードはそれらとはわけが違う難易度であった。


 俺が習得したコードはどれも、指1本につき弦1本を押さえるというものだ。しかし、Fコードは人差し指で6本の弦を押さえ、加えて中指、薬指、小指で1本ずつ弦を押さえなければならない。


 俺を苦しめているのは、その中でも人差し指だ。


 人差し指を真っすぐ伸ばして6本の弦をしっかりと押さえる。これが想像以上に難しい。


 人差し指だけを意識すれば簡単にできる。だが、中指、薬指、小指を押さえることを意識すると人差し指が押さえられなくなる。また、人差し指で押さえる位置が少しでも悪いとその他の指が押さえるべき弦に届かなくなる。そして、それをどうにか届くように指を伸ばすと手がつりそうになる。


 この負のスパイラルを抜け出せずにいるのだ。


 俺の言葉を聞くと、美月先輩がニヤリと笑った。


「ついにFの壁にぶつかったな」


「『Fの壁』ってなんですか?」


「いいか。Fコードはギター初心者にとって、押さえるのが最も難しいコードなんだ。出来るまでに何週間、人によっては何ヶ月と時間がかかる。その難しさからギターをやめてしまう人が数多くいる。言うならば、初心者殺しのコードだな」


「そんなコード、習得なんて無理じゃないですか?」


「いいや無理じゃないさ。なにせ、私は小学生の頃に押さえることができたからな。ちょっと、ギターを貸してみろ」


 美月先輩が手を伸ばしてエレキギターを要求してきた。


 俺は素直にギターを渡す。


 美月先輩は弦を見ることなく、息をするかのようにFコードを押さえた。右手で軽く弦を弾く。ジャーンと綺麗な和音が響く。完璧なFコードだった。


「こんな感じだ」



 拍手をしようと思ったが、弾いた後のドヤ顔がムカつくのでやめておくことにする。


 ただ、お手本としては見事だった。これを見せられれば、Fコードは人間が押さえられるコードであると認めなければならないだろう。


「最初は難しいかもしれないが、毎日練習していればいずれは押さえられるはずさ」


「コツとかって、ないんですか?」


「コツか……。親指の位置だな」


「親指ですか?」


 美月先輩が背中を向けてエレキギターの背面を見せる。そして、左手をFコードの位置に動かした。お陰で美月先輩の親指がはっきりと見える。


「こんな風に人差し指の真下に来るように親指を置くんだ。そうすると、押さえやすくなるかもしれないぞ」


「なるほど」


 考えてみれば、弦を押さえる指ばかり意識していて、親指の位置など気にしていなかった。経験者ゆえのアドバイスはとてもためになる。


「あとは、インターネットで調べるのも良いかもな。いまどき、動画サイトに山程ギター関連の動画がアップロードされてるはずだし、Fコードのやり方を載せる人もいるはずだ」


「じゃあ、ちょっと見てみますね」


 動画サイトで「ギター Fコード やり方」と検索する。すると、言っていたとおりに何件もの動画が表示された。


 これなら合同ライブまでの習得も難しくないかも知れない。


「ありがとうございました。とりあえずアドバイス参考にして練習してみます」


「うむ。いいやる気だ。そのまま、今日は夜通しで一気に習得するぞ」


「はい! ……ん?」


 今なにか、変な言葉が聞こえた気がする。


「美月先輩。いまの『夜通し』ってどういう意味ですか?」


「寝ずに練習するという意味だが?」


 至極当然といった表情で俺を見る美月先輩。切れ長の目から伝わる真剣さが、これを冗談で言っていないことを表している。

 

「……それって、俺の家に一晩中いるってことですか?」


「当たり前だ」


「……」


 黙って美月先輩を睨む。しかし、キョトンとした表情をするばかりで、まるで俺の考えを理解していないようだ。


 思い返してみれば、美月先輩はやけに大きな鞄を持ってきていた。てっきり、ベース関連の道具を持ってきたと思っていたのだが。まさか、夜通し練習するための着替えの準備だったのか。


「美月先輩。ここ、誰の家だと思ってます?」


「純太のだろう?」


「分かってるなら、なんで許可もなしに勝手に泊まろうとしてるんですかっ!」


「安心しろ。もうすでにタマちゃんに許可をもらっている」


 美月先輩が親指を立てる。


「安心できませんよ! ……って、『タマちゃん』って誰ですか?」


「何を言ってる。お前のおばあちゃんだろう?」


「婆ちゃん許可しちゃったんかいっ!」


 思わずコケてしまう。いち早く、美月先輩がずる賢い卑怯な人間だと婆ちゃんに知らせなければ。


「まさか純太は、自分のギターの名前だけじゃ飽き足らず、おばあちゃんの名前も知らないのか」


「いや、知ってますよ! でも、『タマちゃん』って……」


 いつの間にか、あだ名で呼ぶほどの仲になっていたとは。


 美月先輩と婆ちゃんが出会ったのは先週のこと。それで現在はあだ名呼び。美月先輩のコミュニケーション能力は計り知れない。コンビニでレジをやっていれば、そんな能力が身に付くのだろうか。


 と言うか、婆ちゃんが「タマちゃん」と呼ばれている状況に慣れない。


「そんなことは置いといて、さっさと練習を再開するぞ」


「『そんなこと』で置いとけませんよ……。って、ちょっと待ってください。紗里奈は夜通し練習のこと知ってるんですか?」


 俺は今この場で知った。では、紗里奈は一体どうなのだろうか。少なくとも、美月先輩のように寝泊まりできる大きな荷物を持っている様子はなかった。


 仮に紗里奈が事前に知らなかった場合、寝泊まりの準備をしていないことになる。紗里奈が寝泊まりできなければ、美月先輩も夜通し練習を諦めるはずだ。


「紗里奈はだな……」


 美月先輩が言いかけた時だった。廊下からドタドタと足音が響いてきた。そして、勢いよくドアが開く。


「美月先輩っ! 私を呼びました?」


 口角を釣り上げ目を輝かせた紗里奈が部屋に入ってきた。


 ドラムの練習中であろうと、美月先輩から呼ばれた声は聞こえているらしい。変態の耳は侮れない。


「あぁ。紗里奈は夜通し練習のこと知ってるよな?」


「はい」


「いや、知ってたんかいっ!」


 あまりにもアッサリとした返答であった。紗里奈は美月先輩がなぜそんな質問をしたのかと目を丸くしている。


 しかし、俺にはまだ疑問があった。寝泊まりの準備に関してだ。


「じゃ、じゃあ着替えとかは? 特に荷物とか持ってなかったよな」


「うん。だからこれから片寄くんに借りるつもり。というわけで、服貸して」


「なんでそれを事前に言わなかったんだよ! せめて事前に聞いてれば、泊まり込み練習を知れてたのに」


 すると、紗里奈が不思議そうに首を傾げる。


「なんで片寄くんが知らないの?」


「俺が聞きたいわ! なんで俺にだけ教えてくれなかったんですか」


「私なりのサプライズってやつだな。どうだ。嬉しかっただろう?」


「いきなり泊まり込みが決まって嬉しい訳あるかっ!」


「私は嬉しいです!」


「紗里奈の気持ちはどうでもいいわっ」


「美月先輩。このあと一緒にお風呂入りましょう!」


 俺の言葉を無視して、紗里奈が美月先輩に抱きつく。蒸気機関車が蒸気を排出するような音の荒い鼻息を立てている。


 風呂で何を企んでいるのかは、なんとなく想像がついた。


「あぁ、いいぞ。ただし、注意しろ。この家には変態がいるからな」


 そう言って美月先輩がこちらを見てくる。


「無言で見てくるのやめてください」


「黙れ。私達が入ったあとの風呂のお湯は決して飲ませないからな」


「なんで飲む前提なんですかっ!」


「不純太ならそれぐらいのこともしかねないからな」


「片寄くんのえっち!」


「何もやってないわっ!」


 美月先輩と紗里奈からの言葉によるダブルパンチはツッコむだけで精一杯だ。反撃ができないのが辛い。


 いっそのこと、本当の変態は誰なのか教えてやりたい。ただ、それを今この場で言っても、美月先輩は信じてもらえないだろう。


「はぁ……」


 諦めて泊まり込み練習を受け入れるしかないようだ。

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