第16話 傷痕

それから衣織いおりは帰宅しご飯を食べ、お風呂に入った(今日は智由梨ちゆりが風呂場に突撃してくることはなかった)。


 ゆったりと湯船に浸かると、身体の内部から疲れが溶け出すようだった。

 ついこの間までは、学校に行くだけでこんなにも疲れるようなことはなかった。


 日常的に人と会い会話することは、こんなにも疲れがのしかかるものなのか。

 そう思いつつも、衣織いおりの表情は柔らかい。


 湯船から顔だけを出し、すぐそばの鏡をじっと見つめると向こう側にはもちろん反転した自分が映っている。

 なんとなく、自身の身体を上から下まで見下ろしてみる。

 顔、それを支える首、そこから先はバスタブに隠れていて、だから衣織いおりは鏡から視線を外して現在お湯に浸かっている自身の身体を確認する。


 胸、お腹、腰、太腿、膝――脛、とそこでいつも視線が止まる。


 脛にあるのは、黒ずんだ傷跡。

 彼女の真っ白な肌に墨を落としたかのような、古傷。


 これは、衣織いおりが中学生の頃につくってしまったものだ。


 もちろん見えないところにも傷痕はいまだに残っていて、現在は前髪で隠れているが額にも微かな傷跡がある。

 もちろん彼女は日頃からそれを隠すようにしていて、外出する際にはファンデーションを塗り、前髪で覆い隠すようにする。


 そんな誤魔化しも、風呂場ではすべて洗い流されてしまい、すべてが露になる。


 この傷も。

 そして、その傷をつくった原因も。

 過去も。

 そして、そんな過去を歩んできた自分も。


「――ねえ、私、由佐ゆさちゃんのこと好き。付き合ってよ」


 この傷は、衣織いおりにとってのごうなのだ。

 感情で動いてしまったがゆえにできた傷。そこには、自身の心の輪郭も核もそこに丁寧に表されていて、だから。

 だから。


「……だから、私はみにくい」


 だから、衣織いおりに芽生え始めた、彼女への愛慕も感情もたぶん。


「……みにくい」




* * * * *


 自室のベッドに潜り込むと、那智なちからの着信があった。


>放課後、何か決まった?


 意外にも簡素な文面だった。

 学校では、感情表現が上手でいつもニコニコしていて、友達想いでだから今は精神の起伏が激しくなっているけれど、普段は優しくて朗らか性格の持ち主。

 白鷺那智しらさぎなち


 彼女から送られてくるメッセージはなんというかもっと絵文字やスタンプがいっぱいで、もっとした内容になるだろうなと勝手に思い込んでいたので、衣織いおりはちょっと驚いている。


 話し合って決まった内容を、打ち込む。


「……えっと、まずするべきだと決まったのは……担任に仕事を頼むこと。具体的に仕事とは、特殊教室から教材を運んだり、授業で使う資料制作の配布のことで……」


 口に出した言葉のままに、衣織いおりは説明口調なメッセージ送る。

 すぐに返信が返ってくる。


>そうなんだ

>それはつまり

りょうと誰かがペアになって仕事するように

園田そのだ先生に頼めばいいんだね


 早っ。返信早っ。どんなスピードでフリックしてんだこれ。


 衣織いおりがノロノロと打ち込んだメッセージに対し、ものの十数秒で返事が返ってくる。


「……そうです。その行動をする理由としては、風見かざみ君のスタンスを確かめるためであり、グループ全員のスタンスを確認し終えたあとの方が解決策を模索しやすいかとけい君からも……」


 と、「けい君」と打ってからそれを消し「外浦そとうら君」と正す。

 送信。

 すぐに返信が返ってくる。


>そうだね

>物事は慎重に進めたいね

>じゃあ明日の朝すぐ職員室に行って

園田そのだ先生に頼もうよ

>明日何時に学校来れる?

>待ち合わせしよ


「早い、早いって」


 衣織いおりは彼女からくるメッセージに「そうですね」や「その方がいいですね」と相槌を打とうとしたが、打ち込むのに慣れていないせいで、全然追いつかない。


「……せ、せめてキーボードだったら打つ速度負けないのに」


 そうぶつぶつ言いながら、ちまちまとフリックする。


 ともあれ、いくつかメッセージを送り合うだけで情報の共有はなされた。

 一旦トークが止まって、けれど衣織いおりは自分から「おやすみなさい」と打ち切っていいものかと悩んでしまう。


 これまで誰かとメッセージを送り合うことなんてなかった。

 スマホは完全にSNSを学校で見るための道具と化していたし、家にいるときは基本パソコンしか使用しない。そのためキーボード操作には慣れていても、フリックには一苦労だった。


 陽キャ恐るべし。

 衣織いおりは液晶に映った「白鷺那智しらさぎなち」という名前を「むむむ……」と睨んだ。


 と、そのとき、また那智なちから着信がくる。


>今、時間大丈夫?

>つーわできない?


 どきんっと思わず心臓が高鳴った。

 心なしかスマホに伸ばす手も指先まで震えていて、一度ベッドに取り落としてしまう。

 

 どうしよう。

 どうしよう。


 誰かと通話をするなんて初めてのことだ。

 しかも夜中。


 ごくんと唾を飲んで、けれど落ち着かない。

 なぜか頬から首筋にかけて熱くなっていて、ばたばたとベッドの上で足を暴れさせる。……けれどけれど、心はいつまでたっても平静を手放し、緊張を手繰り寄せている。


 そうしている間にも、


>ダメ?

>話そうよ

>つーわしたいな


「……あうあうあうあうあ」


 悩んでいても彼女とのトーク画面が開きっぱなしだから、既読はついていく。


 どうする?

 どうする?

 どうする?


 悩みに悩んだ結果。


>よろしくお願いいたします


 そう送り付けると、那智なちから、


>なんか湯崎さんのメッセージっておじさんみたいだね笑笑


 と送られてきて「おじさんっぽい……?」と衣織いおりは頬をひくつかせた。

 それとほとんど同時に彼女から通話がかかってきて、しかし衣織いおりは「おじさんっぽい」と言われたことにショックを受けるあまり、ワンコール目を取り逃した。

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