第2話 陰と陽

 白鷺那智しらさぎなちという女子生徒は、男子と一番近く煌びやかな陽キャグループに属している。

 いつも会話の中心に立っている、正統派美少女。同学年の生徒からは好意と憧れの目を向けられ、先輩連中からも「あの一年生の子気になるんだけど」的な注目を受けている。


 たくさんの生徒や教師からチヤホヤされ、だがそんな彼女を見て良い思いをしない一部の連中からは悪口や僻みを吐かれるのが常であった。

 有名税という言葉があるが、それはおそらく那智なちにも該当してしまうのだろう。


 ……あんだけ男子と仲良いってことはさ、わかるだろ? 裏で男子とさ——。

 ……あたしこの間、ホテル街であいつ見かけたよ~。

 ……成績良いっていうけど、結局勉強しかできない硬い頭でしょ?


 たまたまトイレの個室に入っていたから耳にした、女子生徒からの心ない言葉。

 たまたま聞こえてしまった、自身をネタにした男子生徒たちの卑猥な妄想話。


 けれど那智なちは、小、中時代でも同じような扱いを受けていたので多少は慣れている。……精神をすり減らすことには、慣れている。


 代わりに那智なちが安息地として設けていたのは、親友との交流の場である。何気ない日常会話や、休日のお出かけ、ちょっと羽根を伸ばしてお泊まり会。

 那智なちは溜まった鬱憤を吐く場所をきちんと定めていて、だから普段の学校生活で感情を暴れさせることはなかった。


 それはつまり逆説的にいえば、彼女の最後の砦は「親友」であるともいえた。


 ——今回起こった事件は、那智なちの交友関係内でのことだ。

 だから彼女はついに、校内で涙を流してしまったのである。感情を荒立たせ、冷静になろうとするも問題の解決策は見つからない。


(どうすれば)

(……どうすれば、あたしと、は、また以前と同じような関係に戻れるのだろう)


 那智なちが一人寂しくそんなことを考えていたときに。


 そこに偶然やってきたのが——湯崎衣織ゆざきいおりであった。

 ……そして、そんな那智なちの涙を(かなりエキセントリックなやり方とはいえ)止めたのは、衣織いおりなのであった——。




* * * * *


「し、白鷺しらさぎさんは……」

「ん?」

「どうしてここで泣いてたんですか?」


 昼休みは、もう終わりに近い。

 衣織いおりの質問に、那智なちはばつが悪そうに口ごもる。唇を噛み、どうでもよくなったはずの涙の理由を再び思い出してしまって、また心が軋む。

 衣織いおりはそんな彼女を見て、はわはわと慌てた様子で手を振る。


「い、言いたくなければ言わなくても結構ですけどっ」

「……うん。あんまり言いたくはないかもしれない」


 今度は、衣織いおり那智なちの顔を見つめた。いつもは誰かと目を合わせるのもままならないのだが、このときばかりはできた。

 ——那智なちの瞳に、が見えてしまったから。


 ……白鷺しらさぎさんは、いったい何を迷っているのだろう?


 衣織いおりはちょっとだけ踏み込んで考えてみる。

 ……現状考えつく彼女の迷いは、おそらくこういったものじゃないだろうか。

 

 泣いていた理由を他人に吐いてしまうか、それとも黙っているか。

 こんなクソ陰キャごときと会話していても生産性がないから、さっさとこの場を去ってしまうか、それともちょっとぐらいは付き合ってやるか。

 というかなんなんだ、この芋女は。存在自体が気にくわない。焼き払うべきか、生き埋めにするべきか。海に沈めるべきか、八つ裂きにするべきか。


 ……あう。


 考え事をすればすぐに自虐へ向かう癖のある衣織いおり

 また泣きそうになって、うるうると瞳を潤ませる。

 そこへまた、那智なちが「あぁ、もう」と頭を抱える。もはや、突発的に泣き出す衣織いおり那智なちが介護するのが、お決まりみたいなノリである。


「だからなんで湯崎ゆざきさんが泣き出すの! ああもう、ほら、抱っこしてあげるから泣き止む!」

「あうあう……」


 衣織いおりに手を伸ばし、胸で抱き留める。

 身体を密着させたそのとき、那智なちはふと思ったことがあった。

 ……この子、めっちゃおっぱいデカいじゃん。抱き心地もすごく良いし、くっついているだけで安心する。良い匂いがする。それはシャンプーとか柔軟剤とかの匂いじゃない。彼女の肌の匂いだ。


 一方的に抱きつかれていることに甘えて、那智なち衣織いおりの首筋に深く顔を埋めてみる。


 あたたかくて、衣織いおりの心臓の拍動が肌を通して伝わってくる。

 いつまでもこのままでいたいと思ってしまう。

 彼女の息遣いが感じ取れて、ぎゅっと力を込めれば彼女の骨も感じられる。

 ……変わった位置に、ほくろがある。


 ふと、衣織いおりが、そのままの姿勢で言った。



「もしかして、ここで泣いていた理由。誰かに白状すること、躊躇ってますか?」



(————っ!)


  それは、先ほど考えていた那智なちから窺えた迷いについてのこと。

 いつもは内向的な性格ゆえに他人に深く踏み込めないのに、どうしてかこのときばかりは勇気をもって訊ねることができた。


 言われた瞬間——那智なちは、ほとんど衣織いおりを投げ出すようにして、抱きつきを解く。

 放された衣織いおりは、その動作の勢いで階段から落ちそうになった。


 そこで那智なちははっとして、自身の浅はかな行動に驚く。


「あ、違うの! ごめんなさい、湯崎ゆざきさん! あたしそんな乱暴なことをしたかったわけじゃ……!」

「……いいの。別にいいんだよ、白鷺しらさぎさん。今ので、白鷺しらさぎさんが、どれだけ泣いていた理由を言いたくないかが分かったから」


 那智なちは青ざめる。

 なんてことをしてしまったのか。もし今ので怪我を負ってしまったりしていたら、あたしはどうやってそれを償えばいいのか。


 ……考えただけで、背筋に鳥肌が立った。


 思わず背けてしまった視線を、衣織いおりのほうに向けるのが怖い。

 彼女は今、どんな表情をしているだろうか。

 暴力を振るったことに対しての怯えた表情。先ほどまで打ち解けていたのにという失望の表情。怒りの表情。憐憫の表情。困惑の表情。無表情。


 那智なちは取り返しのつかないことをした事実に、また、涙がこぼれそうになる。


 はたして衣織いおりは——。


 ——衣織いおりは、柔らかな微笑みを浮かべ優しい表情をしていた。

 ゆっくりと口を開く。


「……白鷺しらさぎさん。そんなにも他人に自分の弱みを吐けないのなら、一個だけをしませんか?」

「……取引って?」

「私はさっき自分が泣き出してしまった理由を曝かれてしまいました。だから今度は白鷺しらさぎさんが泣いていた理由を教える番です。これは、等価交換です。お互いに抱えている、恥の等価交換です」

「恥の等価交換……」

「だって、私が一方的に恥を公開してるようで不公平じゃないですか。私ばっかり赤裸々にされたようで、ちょっぴり、私、腑に落ちないです」

「でも、でも……」


 それでも那智なちは白状することができなかった。


 それは、彼女が学内で貼り付かせている「白鷺那智しらさぎなち」というキャラクターを、簡単に剥がすことができなかったから。


 クラスでも明るいキャラとして通っていて、常に笑顔を溌剌とさせていて、男女関係なく教師にも信頼を置かれ、だけれども注目されるがゆえに一部からは反感を買い、それでも強く自分を保とうと生きていた、「白鷺那智しらさぎなち」というキャラクター。


 これを脱ぎ捨てることが、那智なちは怖い。

 本当の自分を曝け出したとして、それが相手に受け入れられるかどうか、考えるのさえ、怖い。

 

 けれど、衣織いおり那智なちが怯んでいるのを気にせずに踏み込んでしまう。……いや、


 衣織いおりは、誰からも注目されることはなかったし、注目されようと自分を取り繕おうとする性格でもなかったから。

 周囲に向けて自分を飾る必要も、理由も、きっかけさえもなかったから。

 陰キャと陽キャ。衣織いおり那智なちは根本的にをしてきたから。


「今の白鷺しらさぎさんを見てると、ものすごく苦しそうです。だから、もう休んでもいいんですよ。私の前では曝け出しもいいんですよ。私友達いないから、白鷺しらさぎさんの内情をバラす相手なんて一人もいませんし。……友達募集中ですし。

 どんなに性格が悪くても。

 どんなに表裏が激しい悪女でも。

 どんなに感情的な人間でも。

 成績優秀で、運動神経抜群で、美人で、クラスでも学内でも人気者で、

 だけど本当はそんな綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして泣いちゃうところがあって、

 本当は泣き虫で脆いのに周りから持ち上げられて、強く生きなくてはいけないと思ってしまうくらいに真面目なところがあって、

 さっき抱きついたときに、ちゃっかりほくろの位置を確認しちゃうくらいエッチな女の子でも、私は、大歓迎なんですよ?」



「——っ!? み、見てないもんっ、のほくろなんてっ!」

「誰もだなんて言ってませんけど」


 ぐはっ。

 見事にカマを掛けられた。

 那智なちは、思わず顔を熱くする。

 対して衣織いおりはジト目を向ける。


「それで、白鷺しらさぎさんは恥の等価交換を受け入れてくれるんですか?」


 衣織いおりの質問に、今度は頬を拭って答える那智なち


「……うん、ありがとう。受け入れます。ここまで本音で話してくれる人、初めてだし。あたしは、そんな礼儀正しい人にきちんと向き合いたいと思うし」


 会話のペースは、完全に衣織いおりが握っていた。いつもであれば会話なんて上手く回すことができないはずの、衣織いおりが。


 これだけ言葉を交わせば、カーストなんて簡単に撤廃することができて。

 本音で語り合えば、そこに上下関係なんて存在しない。


 ……そんなことに、今更ながら那智なちは気づかされていた。


(……どうしてこんなにも真っ直ぐな子に、友達ができないんだろう)


 そんな風に考えて、またすぐに気づく。


 普通であったら自分の恥を曝かれた時点でその場から逃げ出したくなる。

 けれど衣織いおりは、羞恥心に欠けているのか、動じずに本音で語ろうと主張する。


 確かに、そういう人種は、大多数からあぶれてしまう。

 普通じゃないから。

 自分の恥を曝け出しておいて、そんな状態でも他人に優しさを享受できてしまうぐらいに優しい人間なんて。

 普通じゃないから。


 ふと、昼休み終了の鐘が鳴る。

 けれど、二人は教室へ戻ろうとはしなかった。


 那智なちは、突然ぎゅっと衣織いおりに抱きついた。

 そのときの二人はすでに「語り合いモード」をやめていて、那智なちはいつもの「カースト上位の女の子」に、衣織いおりは「地味系陰キャ通常運転」に戻っていた。


「——ちょっ!? 白鷺しらさぎさん!? 何急に抱きついてんのっ!?」

「だって抱き心地良いんだもん。こうやって抱きついてたら、安心してうまく話せるような気がするんだもん」

「だからって、こうも簡単に抱きつくのは……もしかして、発情期なんですかっ!?」

「……そうかも」

「っ!? ちょっとマジっぽいトーンで言わないでくださいっ!」


 那智なちはこの日、初めて「優等生」というキャラを脱ぎ捨てて、五時限目の授業をサボった。

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