夕暮れ旅情
さなこばと
夕暮れ旅情
(無事にあなたのもとへ届くでしょうか)
こんにちは。こうして手紙を送るのは初めてのことです。まっさらな便せんに筆をいれるときの緊張というものは思っていた以上で、手のふるえが止まりません。たった一文字を書くにもこれほど勇気が必要なのですね。心のすみで、あなどっていたところがありました。そんな情けないわたしなので、ところどころで文字がゆがんでいたならごめんなさい。
なにを書くつもりだったのか忘れてしまいました。思いたったそのときにたくさんふくらんでいた言葉というのは、どうして筆を持った瞬間にあとかたもなく消えてしまうのか、とても不思議です。頭のなかでなくし物をした場合、どのようにして探せばいいのか、まるで作法が分かりません。なんとかして手探りしようにも、手どころか指一本使えないのです。まさしくお手上げ状態ですね。それで、しかたないことなのですが、この場で思いつくまま記すことになります。あまりにもおかしなことを書かないよう気をつけますね。
お元気ですか? わたしは、あなたのいるそちらからはるか遠くにいますが、ここ一年は無病息災で過ごしています。以前は熱を出して寝込んでばかりでしたが、いま滞在しているこちらの環境は悪くないらしく、晴れた日には早起きして散歩に出かけるほどです。早朝の澄んだ空気も、草木の葉に朝露というのも、とてもきれいですよ。じつは、飛び跳ねたいくらい体の調子がよいのです。むかし、あなたと一緒にいた頃の病弱なわたしとは、まったくの別人みたいです。いまのわたしで、あなたのとなりを悠然と歩けたなら、どんなに幸せなことだったでしょうか。しかし、いまとなっては、それは叶わぬことです。
あなたと最後にお会いしてから何年がたちましたでしょう。急な旅立ちというものは、お互いにとって、たいへん酷なるものでした。お別れのあいさつを、ひとつも、あなたに言えませんでした。
いま、わたしは、わたしの実家のことを思い出しました。
あなたも知ってのとおり、わたしの生まれた実家は、いまにも倒壊しそうな古さです。突風が吹くたびに家の骨組みがきしみ、みしみしと音を立てます。使われている木材の老朽化も進んでいるのでしょう、ときおり天井から木くずがぱらぱらと落ちてきます。そんな家にあなたをお招きしてたくさんお話ししたことは、わたしの大切な、大切な、思い出です。かたときも忘れたことはありません。その実家が、ちかく取り壊されることになりました。なんでも人が住むには危険すぎるとのことなのです。通知がきたときのわたしの驚きといったら、涙が目に浮かび、二粒もこぼれ落ちるくらいでした。こうしてまた、大きな別れがわたしにちかづいています。
でも、あなたとの別れに比べたら、たいしたことはありません。家のことなど、ここでは時計の針がほんの一秒だけずれているようなものです。こんなことを書くと、あなたは腹を立てるかもしれませんね。それでよいのです。あなたのそういうきまじめなところを、わたしは好いていましたから。
実家からすこし離れたところのひと部屋を借りて、わたしは生活しています。遠くへ行きたい気分というのが、いまのわたしをつくっています。初めて見る窓越しの風景、壁のあちこちにある染み、年季の入った畳のにおい、それらすべてが新鮮で、どこか美しさを感じます。同時に、心に穴があいたような空虚感もあって、それはきっと。
それはきっと、わたしのそばに、あなたがいないからです。
わたしは、ずっと、夕暮れのなかにいます。一日の終わりを、味わい続けています。遊び疲れた子どもが家路を急ぎ、どこかの家から夕食の煮物のにおいがただよい始めて、空では鳥たちが群れをなして飛んでいく、そんな夕暮れどきに、いつもわたしはいます。わたしの時間は、ながらく止まったままになっています。
あなたが、わたしの時計を止めたのです。
あなたがそばにいないから、わたしは、わたしの心をどこに置けばいいのか、分からないのです。いま、わたしの心は旅をしています。あなたが遠くへ行ってしまったとき、わたしも旅に出ました。しかしです。こんな心細くて寂しい気持ち、胸を苦しめるだけです。
ほんとうは。
ほんとうは、わたしは、旅なんてしたくありません。
それが、体を丈夫で健康にさせているとしても、ほんとうはいやなのです。朝の空気は、好きだと思います。嘘ではありません。でも、その次の瞬間には、わたしは夕暮れに包まれていると気づきます。赤い色をした、沈みゆく日差しに囲われています。
遠くにいってしまったあなたを、家でじっと思い続けることが、わたしにはできませんでした。あるいは、自分からあなたのもとへ行くことも、どうしても選べませんでした。
どこかへ、心を旅させるほかに、わたしにできることはありませんでした。
いまのわたしは、いまのあなたが思っている以上に、弱いです。すぐに落ち込むくせも、ちょっとしたことで泣いてしまうところも、あなたの知るむかしのわたしと、全然かわってはいません。
だから、わたしは。
わたしは、あなたに帰ってきてほしいです。
この手紙が、あなたに届いたら、わたしはうれしく思います。うれしさのあまり、大泣きしてしまうかもしれません。
いつになるか分かりませんが。
いつか、再会できたときは、わたしと一緒に、早朝の散歩をしましょうね。
わたしは、ずっと、そのときがくるのを、楽しみにしています。
また会える日を願って。
それでは。
夕暮れ旅情 さなこばと @kobato37
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます