憂き世噺
松井千悠
第一章 憂き世の理
第一話 戦う女たち
怖れ。
それは人を変える感情。
怖れが――人を、弱くする。これぞ、憂き世の理なり。
……
その手は、朝陽のように白かった。
日の出の最も明るい光を肌に溶かしたかのような、優しげで、温かみのある白さ。花や蝶を乗せているのがお似合いな、その、きめ細やかな白い手で――
しかし、握るのは凶器。
刀だ。
刃渡り二尺{約60cm}の小太刀を両の手で握りしめ、白刃を閃かせる。
その姿は流麗の極み。
手先から
この女――武者である。
そして、この者と相対する女もまた比肩の者だった。
同じく小太刀の使い手。ただし、こちらは二刀流。
曇りなき夜を思わせる艶やかな黒髪をなびかせ、散る汗粒が陽に煌めく。さながら星空のごとく美しい髪。斯様な麗しき女が、双の刃を操っている。
今、ふたりの美女が斬り合っていた。
石庭のごとく白と灰の砂利が敷き詰められたこの空間が、たったふたりだけの
ガキンッ――と、激しい音が鳴り響いた。
朝陽のような女が振り下ろした刀。それを、夜空のような女が交差させた刀で受け止めたのだ。
火花が散るほどの衝撃。両者、目前の敵を殺めるつもりで戦っている。勝敗は誰にも読めない。互いに一進一退の攻防。
朝陽の女は剛で押し、夜空の女は二刀を生かして多彩な技を魅せた。
迫る剣撃を片方の刀でいなし、もう片方で突く。それが躱されたと見るや、いなしに使った手でさらに突く。敵を真っ向から貫かんとしたこの一撃は、惜しくも防がれた。と、同時に、また片方の手を素早く動かし、今度は空いた腰元を狙って斬りつける。
怒涛の攻めであった。
一方、朝陽の女もやり手である。流麗な体捌きでもって、腰元に迫る刃を躱してみせた。それと共に、豪快な振り上げを見舞う。
この強烈な剣先をそらすため、夜空の女は二本の刀を両方使って守りに入った。
ふたりとも、攻めては守り、守っては攻めを繰り返してゆく。
拮抗していた。
互いに決め切れない攻防が、何十手も続いている。
だが、ほんの小さなしくじり一つで勝負は動く。
鋭く突き出された切っ先をいなしつつ、夜空の女が、朝陽の女の右側面に身体を滑らせた。そして、ひと振り――
キンッと金属音が響く。
朝陽の女は側面から迫る刃を防ぎはしたが、打ちどころがまずかった。切っ先に近いところで受けたせいで、手首の踏ん張りがきかず、腕ごと捩れてしまう。
体勢が崩された。
「やっぱりな」と、夜空の女が言う。「こっちが苦手だろ!」
二刀を豪快に振り回し、畳みかけた。すると、
「くっ……」
朝陽の女は声に焦りを滲ませた。
力強い踏み込みと共に、夜空の女が二刀同時の振り下ろしを繰り出してくる。
このままでは押し切られる。剣技だけでは状況を覆せない。
しからば、
敵の踏み込みに合わせ、朝陽の女は大きく跳び退り、そしてなぜか片手を刀の柄から離した。その手で自らの髪をひと撫でしてみせる。
瞬間、バチッ、と。指先が光った。
さらに次の瞬間には、指で虚空を斬るような所作。すると今しがた上がった小さな光が鞭のように伸び出でる。
「なっ」
咄嗟、夜空の女は上体を仰け反らせた。
朝陽の女がどこからともなく繰り出したのは、電撃の鞭。
それが目と鼻の先を通り過ぎていったところで、夜空の女は構えを取り直しつつ、
「お前」
と、問い詰めるような視線を投げる。
これに、朝陽の女は落ち着き払った顔で応えた。
「私の癖は、私が一番よく知っている」
「ちっ。誘ったのか。いやらしい……っな!」
と、今度は、夜空の女が妖術を見せる。
二刀を擦るように滑らせ、火花を散らせた。それら小さな火の粒たちが、宙に舞っては、消え入ることなく迸る。目前の敵、朝陽の女を目がけて。
ほどなく、火花の一粒一粒が爆炎を上げた。轟音と共に視界を埋め尽くすほどの爆発が巻き起こる。
舞い上がる土煙。
中から、朝陽の女が飛び出してきた。どうやら爆炎を掻い潜ったようだ。
そうして再び、両者の間合いが詰まり剣技の応酬が始まる。妖術を混ぜたところで決着はつかなかったのだ。
間断なき戦い。
だが、永遠に続くものでもない。どれだけ長引いたとて、終わりがやってくるのは、ほんの一瞬の出来事だ。
攻めては守り、守っては攻める。それを繰り返してきた両者であったが、ある一瞬、攻めと攻めが重なり合あったのだ。
突き出した刃が互いの心臓めがけ走る。それらが避けようもない位置まで迫り、ふたつの切っ先が、今まさに到達せんとする――寸前、
「止め!」
と、声が響いた。
それに従うようにして、ぴたり。女たちは動きを止める。
ふたりに言を放ったのは、涼やかな目をした青年だった。年頃は十五。元服して間もない。
一方の女たちはというと、十八かそこらだろうか。妙齢である。少なからず青年よりは年嵩。
とはいえ、どうやら青年の方が立場は上らしい。
戦いを止めた女たちは、機敏な動きで跪いていた。まさしく、主君に対する平服の姿勢である。
彼女らが戦っていた広大な仕合場。
そこに面した濡れ縁にて、青年は女たちを見下ろすように立っていた。
「今日は引き分けだな。ふたりとも、日に日に磨きがかかっているようだ。頼りにしている」
「はっ」
と、女たちは揃って返事を口にする。
それだけのやり取りを終え、青年は背後の部屋へ下がってゆき、障子を閉めた。
主君の姿が見えなくなるや否や、
「うちが褒められた」
「
夜空の女、もとい、夜代という名の女が呟いたことに、すぐ隣で朝陽の女が反応する。
「
「
「そんなわけないでしょう」
いがみ合いが始まる。
「いや、あるでしょ。だって、実際、伸びてるのはうちの方だし」
「むっ」
と、朝陽の女、もとい、朝佳という名の女が口を尖らせるので、夜代はねめつけ返す。
「何よ?」
「なんでも〜」
わざとらしい不服の態度を受け、
「イラっ」
となった夜代は、ゴツン! と、頭突きを繰り出した。
おでこを強打された朝佳は、
「ちょっと何すんの……よっ!」
同じ攻撃でやり返す。
「痛っ。やったな!」
襟を引っ張ったり、肩をどついたり、頬をつねったり、やぁやぁ言いながらの取っ組み合いに発展してゆく。
と、ここで。先ほど閉ざされた障子がそろりと開いた。
総一郎様――そう呼ばれていた青年が呆れたような顔を覗かせ、ただ一言。
「おい」
途端、しゅんとなる朝佳と夜代であった。
年下である総一郎の目から見ても、このふたりのやり取りは実に子供っぽいというか、微笑ましいというか、仲が良いというか……
「まったく。お前たちは、あの頃からちっとも変わらないな」
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