第5話

 突然、私は誰かにスイッチを入れられたかのように目覚めた。寝起きのような感覚は無く、むしろスッキリしている。

「あれ、ここは……」

 周りを見渡すと、前後左右全てに道が伸びている。いや違う。私が交差点の真ん中で眠っていたのだ。なんて危険なんだろう。

 ここは……どこかの町だろうか。薄暗く、全体的に赤みがかったように見える。空は真っ黒の雲に覆われていて、それなのに街灯の一つもついていない。

 人の姿は全く見えないだけでなく、鳥や猫などの気配も無い。ブロック塀は所々崩れており、カーブミラーや道路標識はサビだらけ。家という家がなにかの植物に覆われている。なんというか……人の手入れがされていない。

 そしてなにより、私がさっきまで寝ていた部分だけが植物に覆われている。ただのコンクリートの上にどうしてこんなにふかふかの植物たちが……?

 そもそもどうして私はこんな所に。

 思い返してみよう。いつものように悪夢を見て起きたらナツとフユにさすが危ないと心配された。だから私はナツとフユと一緒にミカの所へ行こうとした。途中でミドリに会って……吹き飛ばされて……大穴に……。

「ナツとフユは?!」

 周りを見渡しても見当たらない。声を上げても返ってくるのは風の音。

 探しに行かないと。

 考えるより先に体は動いていた。とりあえずあてもなく走っていた。

 胸が締め付けられる思いだった。だって一杯可愛がってもらったんだもん。

 ある時は新メニューの試食とか言って食べさせてくれたっけ。あれ美味しかったな。別の日にはマネキンになって色んな服着させてくれたんだよね。何着ても可愛いって言ってくれた。カフェの営業時間中でもみんなでテレビ見て感想を言い合って。

 走っていると短い間なのに思い出が……。いやいや、そんなことよりナツとフユを探さないと。

 走りながら左右に視線を動かす。息は上がっている。今すぐ立ち止まりたいが、走っているのはナツとフユを探すためだから。もっと頑張らないと。

 走りながらあちこちを見ていくが、チェーンの外れた自転車やタイヤのない自動車、逆向きに折れ曲がったノートパソコンに割れた電球など、とにかく荒れに荒れていた。

 どうしてこんな目に……。

 私はどんどん別の意味で胸が締め付けられていくようだった。息ができない。体力の消耗からか、足が上手く動かない。

 それでも走っていると、つま先に何かが引っかかる感触がした。それと同時に、私の両足が地面から離れる。少しの浮遊感とともに体勢を崩す。小さな石が脚に刺さる。

 少しひび割れたコンクリートの道路につまづいて転んでしまった。痛い。

 こんな所で転んでいる場合じゃないのに。私はナツとフユを見つけなければいけないのに!

 気力だけで体を持ち上げる。早く動き始めないと。

 ふと頭を上げると、私はとある学校の校門前でつまづいた事に気付かされた。

「まさかね」

 まさか学校の中にナツとフユが居るわけ無い。どうせ私みたいにどこかの交差点の真ん中で倒れているだろう。

 でもそう言い切れる根拠は?

 私の勘でしか無かった。

 学校が怪しいと感じるのも私の勘。なら中に入って探したって良いんじゃない?

 実際、この建物は周りの建物よりも大きい。何か目印として使えなくもない。生憎ナツとフユとの付き合いが短いから二人のそれぞれの考えはちゃんと分かっていない。それでも、学校に入る価値は有るんじゃないの?

 頭では論理立てていたものの、実際、体は勝手に学校へ向かっていた。幸い、門は破壊されていて外部からの侵入を防げるようにはなっていない。

 重い足を何とか動かして門をくぐると、すぐに校舎の玄関が立ちはだかる。しかし、ドアのガラスが割れているどころか無くなっている。

 遠慮無く入ると、中は悲惨な状態だった。

 おそらく玄関だろう。広い空間に下駄箱がいくつか並べられている。床はそこら中に砂とガラスが撒き散らされている。下駄箱はホコリと蜘蛛の巣とカビにまみれていた。不快な匂いも漂っている。

 玄関を抜けると、左右に廊下が伸びている。しかし、右に続く廊下は壁なのか天井なのか、何かが崩れていて進めない。

 左に進むと、右手に教室、左手に窓が配置されている。ここも相変わらず砂とガラスが落ちていて、一歩進むたびにザラザラと音がする。

「ナツー、フユー、いたら返事してー!」

 廊下を歩きながら大きな声で呼びかけてみる。廊下の奥から返事は帰ってこない。自分の声も反響しない。

 教室の中を覗くと、机と椅子が散乱していた。ホコリや砂、ガラスだけでなく、ページの破れた本や、粉々になったチョークが落ちていている。

「人がいた形跡は無いよね……」

 少しでも期待した私が馬鹿だった。勘なんて存在しない。第六感なんてあてにならない。普通に校舎に入ったことを後悔している。

「なにこれ」

 若干の失望と落胆をしながら歩いていると、壁に張り紙があるのを見つけた。ただ文字が印刷されたペラペラの紙がテープで留まっている。

『廊下では縺企撕かに』

「ん?」

 なんか読めないんだけど。廊下では……何?

 かすれているわけではない。だけど文字が読めない。頭の中で文字という記号が私の知っている言葉に上手く変換されない。

 張り紙の前で文字が読めなくてしばらくうなっていた。集中していた。

 それが良くなかった。

 私の視界に何かが上から落ちてきた。

「ひゃあ!」

 思わず後ろに下がる。

 ここで集中の糸が途切れた。

 周りからパラパラと音が聞こえる。さっきまで集中していたから気づかなかったんだ。上を見ると天井からなにか落ちている。いや違う。天井が落ちていた。天井が崩れていた。

 このままここにいたら崩落に巻き込まれて死んでしまう!

 頭が思考を完了したときには私は走り出していた。今すぐ出口に向かわないと。

 いま来た道を引き返す。それほど歩いていないから走れば校舎が崩壊する前にここを脱出できるはずだ。

 しかし、その考えはすぐに潰された。

 目の前に壁がおちてきたのだ。それが元天井だったのかはわからない。ただ、落ちてきた壁に逃げ道を塞がれた。行く道を塞ぐ障害物には赤いスプレーのようなもので『襍ー繧九↑』と書かれている。やっぱり意味が読み取れない。

 私は踵を返した。まだ別の出口があるはずだ。もう一度私は走り出した。走っていると、壁にまたもや赤いスプレーで書かれたような文字が唐突に現れる。

『蜿ウ蛛エ騾夊』『蜿ウ蛛エ騾夊』『蜿ウ蛛エ騾夊』『蜿ウ蛛エ騾夊』『蜿ウ蛛エ騾夊』

 同じ文字列がたくさん出てくるが、意味は全く読み取れない。ただ怖かった。床も天井も壁も、すべてが赤い意味のわからない文字で埋め尽くされていた。

 恐怖の中走っていると、廊下の向こうの方に光が見えた。きっとあれが出口だ。良かった。出れるじゃん。

 しかし、目の前で天井が上から落ちてきた。意味がわからなかった。ただ、目の前で上から天井が落ちてきた。さっきと同じように。

 出られないじゃん。どうするのさ。

 違う、窓があるじゃん。ちょっと高いけど窓ガラスは割れているんだから。飛び越えれば出れる。

 しかし、そんな考えは通用しなかった。割れたはずの窓ガラスは、なにかよくわからない力によって校舎の中と外を分断していた。手を伸ばしてみても、向こうに手が届かない、何か見えない力によって阻まれているようだった。

「教室の方なら……!」

 しかし、教室も同じだった。扉は開かない、どれだけ力を加えてもびくともしないし、音も立てない。窓も同じだった。割れたはずの窓が教室と廊下を分断している。

 そうこうしているうちに、私の後ろでまた天井がパラパラと崩れ落ちてきた。

 ああ、巻き込まれるんだ。死ぬんだ。

 頭の中では死を覚悟した。いや、まだ死にたくないけど。

 また私は走った。至るところで天井が悲鳴を上げている。崩壊は秒読みだった。

 まだ、出られる手段はあるはずだ。

 私は走りながら両サイドの窓と教室のドアを手で触れた。一つずつ確かめながら一回ずつ絶望した。そして、元の玄関近くの崩壊した壁まで戻ってきてしまった。

「私、死ぬんだ。記憶も戻らないし。ナツとフユにも会えないし。こんな終わり方あるんだ……」

 もう声も出なかった。涙で前が見えない。恐怖で力が入らない。

 教室のドアに背中を預ける。

 天井からパラパラと石の雨が私を嘲笑う。ここが私の終着点。

「あーあ」

 なにか言うわけでもない。ただ出てくる言葉がこれ以外無かった。不安を通り越して怒りが湧いてくる。どうして私がこんな目に。普通に生きさせてよ。

 握った拳に力がこもる。届かないことは分かっている。しかし、これが私の死の直前に見せる最後の世界の抵抗だ。

 ダン!

 扉に拳が打ち付けられ、扉はグラグラと音を立てながら揺れる。ああ、世界は何も変わらない。

「……ん?」

 他の扉はビクともしなかったのに、この扉は揺れている。この扉、他の教室と違って固定されていないの?

 恐る恐る扉の取手に手を掛ける。力をいれると、扉は横にスライドした。

「嘘……」

 力がまともに入らない足でゆっくりと教室の中に入る。

 扉を一歩跨いだところで、教室の扉はピシャリと閉まった。とりあえず一安心……なのかな?

 教室の中は、今まで見てきたものと全く違い、とても綺麗だった。

 縦横きっちり整列した机と椅子。ヒビ一つないガラス窓。ワックスがかけられたばかりのようなピカピカの床。汚れ一つない黒板。

 入口から一番近い椅子に座った。窓からは何故か温かな夕陽のような光が射し込む。なんだか失われたはずの学生の記憶が戻ってくるようだった。戻ってこないけど。

 黒板の上には「協力の心」と書かれた謎の紙が貼ってあった。ん、なんだ。どこかで見たことがある気がする。

 いや、違う。この感じ。私はこの光景をどこかで見たことがある。漠然とだけど、そんな気がする。記憶が無いから思い出せないんだけど、何か嫌な雰囲気を感じる。

「何がイヤだって?」

 誰の声?!

 後ろを振り返る。

 そこには赤い目をした男が笑顔で立っていた。真っ黒な髪、キリッとした目、目元のホクロ――。

「僕の事知らない訳無いよね」

 目の前の男は言う。

 私はこの男を知っている。いや、会ったことは無いはずだ。でも、私はこの男を見たことがある。

「……ハルト?」

 男は私の答えに満足したかのようにニヤリと笑った。

「やっぱり覚えてくれてた? そうだよ。僕がハルトだよ。やっと会えたね……ユズカ。君だけが居なくてずっと探してたんだよ」

 本当にハルトなの? 私の知っているハルトは目が黒色なんだけど。それに、ユズカって誰? 

「どうして疑うのさ。僕は本当にハルトだよ。そして君はユズカ」

 ――っ! どうして私の思考に答えてくるの。まさか、思考でも読まれてるの。

「思考? 君の考えは読めて当たり前じゃん。今更どうしてそんな初歩的な事を……。まさか、ちょっとごめんね」

 ハルトは私の額に人差し指の先を当ててきた。少し気味が悪くて体ごと動かして逃げようとしたが、後ろは壁だったためにどうしようもなくされるがまま担ってしまった。

 しばらくすると「わかった」と、ハルトは指をはなした。

「やっぱり。ユズカ、君は記憶を隠されているね」

「どういう事?」

 隠されている? 記憶喪失じゃなくて?

「夢を見ただろう。この学校の」

 夢……ああ、そうか。この学校、この張り紙。夢で見たんだ。

「うん。見た」

「それは夢じゃない」

「え?」

 いきなり言われても意味がわからない。

「夢だと思って見ていたその景色、それこそユズカが過去にみた記憶だ」

「そんなの、いきなり言われても信じられないよ。大体、ユズカって誰のこと? 人違いじゃないの」

 ハルトはキョトンとした。少し考え込む仕草をした後、合点があったように一人で頷いた。

「そうか、ユズカの記憶を隠した人は相当用心深いようだね」

 一人でなにかブツブツと言っている。かと思うと、いきなり私の目をみて説明を始めた。

「名前というものは記憶のトリガーになりやすいんだ。自分というものを識別できる記号だからね。ユズカの記憶を隠した人は、記憶を隠したは良いものの、もし名前で記憶が戻ってしまうのはいけないと考えたんだろう。名前と個々における強烈な体験は記憶に残るものだからね。それも、記憶はただ隠されているだけじゃなくて、当時の感覚と思考が別で隠されている辺り、相当慎重だったんだと思うよ」

 ハルトは一通り言い終わると、一呼吸おいて更に続けた。

「ユズカの記憶が隠されているなんて可哀想だよ。うん。僕はそう思う。だから、僕がユズカの記憶の封印を解いてあげる」

 ……は? いきなり? 私の考えは、私の思いは?

「ほらじっとしててね。ちょっと気持ち悪くなるかもしれないけど我慢してね」

「え、ちょっと……」

 ハルトは突然手のひら全体を私の額に当てた。

 その瞬間だった。すべてが無音になった。私の鼓動も微かなノイズも、すべてが消えた。

「いくよ」

 ハルトの声が聞こえた。そこから頭の中ぐるぐると回り始める。平衡感覚を失い、今私が本当に地に足つけている状態なのかもわからなくなる。

「あ……ああ……」

 なにか頭の奥から引っ張り出されるような感覚に襲われた。脳のストレージに、強制的に景色が詰め込まれる。そして、景色の一コマ一コマに感覚が付け足される。もう今と過去がぐちゃぐちゃになって、なにもわからなくなる。

「あぁ、あぁ……」

 頭が痛い……焼き切れそう……。

 私が私じゃなくなる……。

 もう無理だ。

 視界が赤く染まる。

 意識がどこかへ飛んでしまいそう……。


 バリン! ガシャン!


 どこからか何かが音を立てた。それがなにかもよくわからない。ただ床がキラキラと光っていて、そこになにかいる。ピンク色の長い……髪……。

「ミカ……」

「クソッ……大事な時にこんな……。覚えてろよ。絶対に復讐してやる」

 ハルトの声はだんだん遠くなっていく。代わりにミカの声がどんどん近くなる。

「まさかこんな防護装置を発動できるほどの技術力があるなんてね。ごめんね、クロ。苦しかったでしょう。一緒に戻ろっか」

 体がさっきと別の浮遊感を覚える。いつの間にかミカに持ち上げられていた。

「ミカ……」

「話さなくていいよ。辛いでしょう。一回休もう」

 ミカが私の視界を手で覆う。そこで意識は途切れた。


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