第2話
天気は快晴。雲ひとつ無い綺麗な空だ。風は無く、過ごしやすい。
とある駅前の小さな広場は、この街の数少ない待ち合わせスポットになっている。
二階建ての駅の出口を一歩出ると、都会の喧騒が出迎えてくれる。駅の前の土地には、小さな真円を描くようにロータリーが設置されている。狭い土地に無理矢理作った感じがとても出ていて、あまり良いイメージを持てない。この狭さじゃ旋回にも苦労するでしょ。
それにしても、この街は同じ見た目の建物が多すぎる。こんな似たような見た目のオフィスばかりじゃ目印になるものが何もない。
私は出口のすぐ側にたまたまあった二人がけのベンチの片方に座って、ただ彼が来るのを待っていた。
鳩が羽ばたく音。子どものはしゃぐ声。自転車のベルの音。車のクラクション。風の音。
本当に騒がしい街だ。
駅の周りは全て私の何倍も背の高いビルによって囲まれており、圧迫感を感じる。
そんな無駄な圧迫感を感じながらも、私はあまりにも暇だと感じた。そう言えば私は何を待っているのだろう。ロータリーの真ん中にある背の高い時計をじっと眺めてみる。長針が動き、十二をぴったり指した瞬間、後ろから声がした。
「お待たせ、――。待った?」
恐らく名前であろう部分が全く聞こえなかったが、私はそこに全く違和感を覚えなかった。
「ちょっとだけ……?」
全然待ってないと言いたかったけどね。私の悪い性格だ。
「ごめんごめん。ほら、行こっか」
彼が私の手を引く。私のちょっと意地悪な答えは正面から受け流された。
あれ、今日は何をするんだっけ。
「どこに?」
「ちょ、待たせたのは悪いと思ってるけどさ。そんなに怒ってる? 本当にごめんって。付き合って一ヶ月だからデートに行こうって言ったのは――の方だろ?」
あー、確かにそんな感じだった気がする。
「ちゃんとわかってるよ。ちょっとからかっただけじゃん」
「やめてくれよ……」
彼は視線を外し、声は小さくなる。からかうとこうやって可愛い反応をするんだよね。やめられない。
彼は……えっと……あれ、名前なんだっけ。まぁいっか。彼は私より少し背が高い。真っ黒な髪、キリッとした黒い目に口元のホクロが特徴だ。あと、彼は優しい。何しても怒らない。心が広いのか、怒りの感情を知らないのかはわからないけど。
それから、私達は二人で並んで歩くことにした。目的地はわからない。ただ、ビルだらけの街を歩いていく。進んでいるのかどうかもわからないけど。
ふと気づくと、私たちはいつの間にかどこかの大通りの歩道を歩いていた。風景に見覚えは無い。景色が徐々に変化したという訳ではない。いきなりぱっと変わった。地面も、空も、周りの景色も、全てが変わった。瞬間移動したみたいだ。
広めの歩道に大量の街路樹。そびえ立つ建物は背こそ低いものの、どことなく高級感が漂う。
だがしかし、建物はなんだかハリボテに見える。なんというか、凹凸が無い。そういえば、車も私たち以外の人も見当たらない。変な街だ。ただ、そんな街でも彼は車道側を歩いてくれている。優しい。
「それにしても暑いね。大丈夫? どこか店にでも入って涼む?」
「え?」
それまで特に感じていなかったが、彼の言葉を聞いた瞬間、突然暑く感じた。太陽から降り注ぐ日差しが痛い。ジリジリと肌が焼けていく。汗が頬を伝う。向こうの景色がぼやぼやとしていた。
「そ、そうだね。確かに暑いかも。どっかカフェでもあれば入りたいね」
一歩進む度に、私の中の見えない体力ゲージがどんどん削られていく感覚になった。
ちょっと気を抜けばそのままバタッと倒れそうだ。
そんな中、私はハリボテの街に一つの店を見つけた。
明らかに他と違う。店の前に赤い日除けの屋根が付いていて、ドアの横には綺麗なガラスがはめ込まれている。存在感が違った。
私たちは何を言うまでもなく、吸い込まれるようにガラスの前で立ち止まる。
「わぁー、かわいい!」
なにかのアクセサリー店なのだろう。
ガラスの向こうはショーケースになっていて、アクセサリーが大量に置かれていた。花や蝶をモチーフにしたもの、ハートの形をしたアクセサリーも置いてある。
色々目移りしていると、私の興味を一際惹くものを見つけてしまった。
「ねぇ、これ欲しい!」
私は彼に一つのネックレスを指さした。
ハートの形になっている銀色の輪っかの内側に細かなチェーンが通ったネックレスだ。
「良いね。似合うと思うよ」
彼は優しく微笑んでそう言った。彼にそう行ってもらえることが、私には何故かとても嬉しかった。
ふと、ガラスに反射する私たちの姿に焦点が合う。青い目を輝かせる少女に優しそうな表情をする少年。私ってもしかしたら幸せかもしれない。
ピキッ……。
どこかで何かにヒビが入るような音がした。
慌ててガラスを確認するが特に何も無い。
ピキピキッ……。
違う。下から聞こえる。
足元を確認した私は青ざめた。
実際に地面にヒビが入っているのだ。
「嘘でしょ?」
慌てて一歩後ろに下がる。すると、ヒビも私の後を追うように着いてくる。もう一歩動こうとするが、何故か体が言うことを聞かない。私はその場から動けなくなってしまった。
地面のヒビは、そんな私を嘲笑うかのように、さらに音を立てながら数を増やしていく。そして――。
パリン!
地面が割れた。
私を中心にして、円状に地面がガラスのように粉々になっていく。そして、私の体は虚無の暗闇に吸い込まれていくように落ちた。
最後の助けを求めるように彼の方に腕を伸ばした。
しかし、彼はあの優しそうな表情から一切顔を変えず、どこか遠くの方を見ていた。
ああ、このまま死ぬんだ。
体がどんどん沈んでいく。彼が小さくなっていく。
永遠に落下する感覚だけ感じ取っていた。
誰か、誰か助けて。
「ハルトー!」
不意に口から出たそれが彼の名前なのかどうかは分からない。しかし、私の呼びかけに応じてくれる人は誰もいなかった事だけは確かだった。
ただ、虚無の空間を落ちていく。
***
ドン!
何かに着地する衝撃を感じて目を覚ます。
あれ、ここは……昨日目が覚めた部屋と同じ場所だ。さっきまで暗闇の中を落ち続けてたはずなのに。
ああ、夢でも見てたのか。なんかよく分からない夢だったな。夢の内容はぼんやりしているけど。ただ、親近感を感じる謎の男と恋人関係だったことと、地面に空いた穴に落とされたことは覚えている。
まあ、夢の内容なんて深く考えても仕方ない。早く目を覚まさないと。
私はベッドから立ち上がると、部屋のカーテンを思い切り開けた。太陽の光が部屋に射し込む。暖かい光だ。
……さて、どうしようか。部屋の中には私一人しかいない。どうやら私はこの状況に安心感を抱いているっぽい。正直部屋に居たい。引きこもりたい。
ベッドに腰掛けると、近くに置かれた小さなテーブルに、一枚の紙切れが置かれているのを発見した。手を伸ばして取ってみると、それは無造作に破られたどこかのスーパーのチラシだった。
『広告の品! たわし詰め放題! 袋に沢山詰めちゃおう!』
袋が破れちゃうよ。
変なチラシだと思ったが、他にも何かないのかと裏を見た。すると、広告ではなかったが、ボールペンで何か書かれていた。
『おはよう! いい夢は見れたかな? 起きたら一階に降りてくること! 今日から君も喫茶ミストの従業員だ! byナツ&フユ』
なにこれ。
綺麗で読みやすい文字だが、一文字ずつポジションが右上に上がっていくのがとても気になる書き置きだった。
「面倒かも……」
部屋から出たくない。ナツもフユも、悪い人では無さそうなんだけど……。ただ、わざわざ言う事を聞くほどでは無いかな。
私はそのままベッドに寝転がった。二度寝しても別に良いよね。
真っ白な天井を眺めてボーッとする。外から車の通る音が聞こえる。風が吹く音も聞こえる。
動く気力が無い。体がマットレスに沈み込む。感覚に身を預けると、ベッドが限界を超えて体がさらに沈み込む感覚がする。そのまま体が溶けて、世界がぐるぐる回りだして――。
「クロ、おはよう!」
私の体はスっと現実に引き戻された。
ドアの前にはメイド服姿のナツが立っていた。いつの間に?
私は重い上半身をどうにか起こす。
「お、おはよう。ナツ、部屋に入る時はノックしてくれないと」
「したよ? でも反応が無いんだもん。死んだのかと思った」
ナツは顔色一つ変えずに怖いことを言う。
「不吉で物騒な事言わないでよ」
「事実だよ。クロって一週間寝てたんでしょ? それって明らかに異常だよね。今は元気でも、次の瞬間元気かどうかは分からない。ふとした瞬間にパタっと倒れてもおかしくないよ」
ナツはずっと真顔だ。言っていることは本当なのだろう。もしかすると、明日には死んでいるのかもしれないのか。寝たら一生起きることがない……。
「はい、って事で寝過ぎは良くないから早く起きましょうね。もう、そんな顔しないの」
「まだ寝てちゃダメ? 寝る子は育つって……」
いや、ふとした瞬間に死ぬって言われても、実感湧かないし。私の未来も大事だけど、今はそんなことよりもうすこし横になっていたい。
「そんな年頃じゃないでしょ」
さっぱり断られた。
「だって……起き上がりたくない。起き上がるのも体力使うんだよ」
「もう、大きなこどもね」
ナツはそう言うと、私の両腕を引っ張った。私は促されるようにベッドから立ち上がる。ああ、起きてしまった。
立ち上がってもなおボーッとしている私にたいして、ナツは頭を撫でてくれた。
「よく起きれたね。偉い偉い。じゃあ下に降りよっか。みんな待ってるから」
……みんな?
ナツに引っ張られるように階段を降りると、カウンターではフユとミカが座って会話していた。
「みんなー、主役を連れてきたよ!」
ナツがそう言うと、カウンターの二人がこちらを向いた。
「あ……やっと起きた」
フユもメイド服姿だった。これがナツとフユの普段着なのかな。
「おはよう。よく眠れた?」
ミカが優しい笑顔で手招きする。
「いや、もっと寝ていたかったけど起こされた」
私はそう言ってミカとフユの間に座った。
「もう、クロは別に寝てなかったでしょ。目を開けてボーッとしてたじゃない」
ナツは私の前にいくつか皿を置いた。トーストに目玉焼き、ベーコン。さらにコーヒー。あれよあれよと用意されていく。
「もしかして朝ごはん?」
「もしかしなくても朝ごはんだよ。クロを起こしてる間にちょっと冷めちゃったかもしれないけどね」
なんかごめん。
「砂糖とミルクはどうする? いっぱい? それとも無し?」
コーヒーか。記憶の中にいる遠い過去の私は紅茶ばかり飲んでいた気がする。多分苦いのが苦手だったから。
「もう砂糖もミルクもたっぷり入れてくれると」
「あれ、もしかしてコーヒー苦手だった? 明日からは別の飲み物にするね。紅茶とかかな」
ナツはそう言いながらも手際よくカップの中の黒い液体に砂糖とミルクを流し込んだ。
「ありがとう」
私は甘くなったコーヒーに口をつけた。確かに甘いが、それでもコーヒーの苦さが裏から迫ってくる。しかし、その苦さをあまりしんどくは感じなかった。苦手だと思ったんだけどな。味覚かわったのかな。あ、ナツのコーヒーを入れる腕が良いとか?
「クロ……」
コーヒーだけ飲んでいると、隣からフユが声をかけてきた。
「何?」
「クロ……ご飯食べないの?」
隣でフユが朝ごはんの乗った皿を見ている。口の端から涎が垂れたように見えた。
「フユ、まさかクロの朝ごはんを狙ってるわけじゃないよね?」
カウンター越しにナツの視線がフユに刺さる。
「どうして……どうしてばれたの……」
ああ、狙ってたんだ。
「朝ごはんはさっき食べたでしょ。食べすぎると太っちゃうからダメ」
「わかってる……わかってるけど、もし残したら……ね?」
え、完食に罪悪感を感じさせる作戦……?
「あーもう、クロが食べにくいでしょ。フユはこっち。一緒にお皿洗って?」
「……はーい」
結局朝ごはんは、三人に「美味しい?」とか「よく噛んでね」とか言われながら完食した。注目されすぎて食べにくかった。今度から早く起きてみんなと一緒の時間に食べよう。
***
「やってまいりました本日のメインイベント!」
カウンターの向こうに居るナツが唐突に大声を出した。メインイベント?
「……よいしょー。いぇーい……」
ナツの隣に立って皿洗いをしていたフユが、盛り上がりに欠ける盛り上げをする横で、私の横に座っているミカはずっと笑顔でこちらを見ている。なんか怖い。
「メインイベントって?」
「そりゃもちろん。……マスター!」
ナツはミカを呼んだ。
「まかせて!」
ミカは目を輝かせて小走りにバックヤードに駆け込む。少し経つと、ミカは大きい紙袋を携えて戻ってきた。
「はい。これあげる!」
若干息の上がったミカから紙袋を受け取った。
「これの中身は今見ていいやつなの?」
「もちろん! というか今見てくれないと困る!」
ミカに食い気味に答えられ、あまりの圧に驚く。中に何が入っているんだ。
少しビビりながら中を覗くと、そこには、黒と白のひらひらがたくさんついた服が入っていた。これってもしかして……。
「メイド服?」
「ということで、いまからクロにはそれを着てもらいまーす!」
「え?」
ナツが高らかに宣言した所で、ミカに背中を押される。そのまま、小さな個室に移動させられた。ここは……更衣室じゃん。
「ミカ、もしかしてこれを着ないと……」
「もちろん着ないとダメだよ! 大丈夫! 着方が分からなかったら私が教えてあげるから! 開店時間までそんなに時間無いよ! 早く!」
逃げられないらしい。いや、昨日のミカはもっと落ち着いたお姉さんのイメージだったんだけど……。目がキマってるし、声大きいし怖いよ。更衣室の前で仁王立ちをして、絶対に逃がさないという意思を感じた。
大体私こういうヒラヒラした服は苦手なんだけど……。
***
「ねぇ、どうかな」
なんとか着替えることには成功した。更衣室の外に出ると、何故か三人とも更衣室の前でスタンバイしていた。
「おお、良いね。似合ってるよ。ありがとう」
ミカはそう言うと私の手を取って無理矢理握手してきた。テンションはバグったままだ。ありがとうってどういうこと。
「似合ってるよ……ほら、こんな感じ……」
フユが全身を写せる鏡を持ってきてくれた。
ミカに手を掴まれたまま、鏡の前で一通り動いてみる。
鏡に映る自分は……やっぱりどこか変な感じがした。明らかに服がミスマッチな感じがする。
ナツとフユが着ているものと同じデザインだろう。黒と白を基調としたメイド服。しかし、脚は膝上までしか覆われていない。いわゆるミニスカートみたいな状態だ。まあこれは動きやすいからいいや。ただ、背中の部分に大きな白いリボンが付いている。これがすごく気になる。
服に着せられているなこれ。少し動くだけで腰に付いた大きめのリボンがヒラヒラと動くのを見て、何故かむず痒い気持ちになった。
「うん。喫茶ミストの従業員って感じ」
ナツが言った。
メイド服姿がデフォルトの職場って……。
ただ、私が何か言ったところで三対一で負けることは確実。ここは素直に従うしかない……。
まだ手を握っていたミカが、一層手を強く握った。
「じゃあ今日からお仕事よろしくね」
「え?」
今日から? 仕事? 何も聞いてないけど。心の準備は? そもそも仕事って何するの。え、本当に今日から?
「大丈夫。難しい事は一つもないよ。楽な仕事だから。安心して。肩の力抜いて」
ミカはそう言って私の肩を揉んでいるけど、全くリラックス出来ない。そういう大事な話はもっと早く言ってよ。ここに来たの昨日だけど。
「難しい仕事は何一つ無いから!」
「ちょっ、押さないで」
ナツが私の背中を押してくる。抵抗も虚しく、私はそのままバックヤードから追い出された。
うーん。昨日の今日で突然仕事させられるのか。もう少しゆっくり出来ると思っていた。というかゆっくりしたい。
一回カウンターのイスにでも座ろう。
昨日、起きたらここに居て、ミカに出会った。その時にはもう記憶が無かったんだよね。それからナツとフユに出会って……あぁ、あの謎の飲み物を思い出した。あの味は思い出すだけでしんどくなる。……一回忘れよう。それからいつの間にか寝てて、起きたらこれか。うーん。ゆっくりしたいよね。スピード感が良すぎる。
「クロ、顔が暗いよ?」
「えっ」
ナツが隣に座って私の顔を覗き込む。
「ほら、笑顔だよ、笑顔! にーって!」
ナツはお手本のような笑顔を作る。周りにキラキラオーラが出そうな満面の笑みだ。
「ほら、やってみて!」
「に、にー……。こう?」
ナツに促されてやってみる。精一杯の笑顔なんて普段やらないからなー。
「うーん、ちょっと表情が固いかも」
そんな。これ以上無理だけど。
「そんなこと言われても……」
「そもそも目付きがねー」
酷くない? まだ二日目なのに目つき悪いって言われちゃったんだけど。
「まぁいいや」
まぁいいや? ナツ、それはどういう事?
「とりあえず口角を上げてみよう。変わるはずだから。ほら、こうやって」
ナツは自分の口の端を指で無理矢理上げた。
「こ、こう?」
私もナツの真似をしてみる。
「そうそう! いいじゃん! 可愛いよ!」
ナツが拍手しながら褒めてくれる。ちょっと褒められると嬉しいかも……。
「この調子でオープンしてからもよろしくね。もう少しで時間だから」
ああ、仕事の時間が始まるのか。
「頑張れ……」
フユも私の事を気にかけてくれる。
「うん、頑張るよ――って、ちょっと待てい!」
「どうしたの。そんなクセのすごいツッコミしちゃって」
ナツがキョトンとしている。
「いやいや、フユは笑顔作れるの?」
フユは静かに喋るし、あまり表情を変える印象は無い。
「いや……?」
フユ本人が否定しちゃった。おいおい、私には言うのにフユには言わないのかい。
「良いの。フユは頑張ってるから」
それ言うなら私も頑張るよ。気持ちだけね。
「あ、もしかして双子だから贔屓してるんじゃないの?」
私、気づいちゃった。
「……フユ、ナツはドアに掛かっている札をオープンに変えてくるね!」
「フユも一緒に行く」
あ、逃げた。仕方ない。頑張るしかないらしい。
店を開けようと入口に向かうメイド服姿の双子の背中見て、一つ疑問が浮かんだ。
「あれ、店開けるの? 私、笑顔以外何も伝えられてないけど。他の仕事は?」
ナツは振り返って「うーん」と唸った。
「それは営業時間中に教えるよ」
そんなので良いのか。
***
あれから何時間経ったのだろう。窓の外は夕陽に照らされている。
ああ、疲れた。長かったな。
店の入口のドアには鍵がかけられ、今日はもう営業終了だと告げていた。
「ふわぁ……」
「クロったらあくびなんかしちゃって、どうしたの?」
カウンターの椅子に座って口を大きく開けたところを、ちょうどバックヤードから出てきたナツに見られた。いや、こんな事言って良いのか分からないけど、こんなに疲れるのには理由がある。
「……聞いてないよ」
「え?」
「お客さんが一人も来ないなんて聞いてないよ!」
そう、誰も来なかった。
町のカフェならお客さんもある程度来ると思ってたんだけどな。
大体オープン前のあの笑顔のくだりはなんだったんじゃい。
「別にお客さんが必ず来るとは言ってない……」
ふざけんな。例え発言者がフユであっても許しがたい。私の隣でそんな無防備に本を読みながら座りやがって。私の恨みのこもったくすぐりの刑を執行するぞ。
いや、やっぱりいいや。もう体感時間が長すぎて疲れた。壁にかかったアナログ時計の秒針が一周するのを何回見届けたことだろう。
「まあクロには悪いことしたとは思ってる。でもこの店は基本的にお客さんが来ないのよ」
ナツは昨日初めて出会った場所と同じソファーに深く座って言った。お気に入りの席なのかな。
「宣伝とかしたの?」
「なにそれ」
客が来ない原因は絶対そこにあるでしょ。
「別に良いの。仕事が多すぎてしんどくなるよりはうんと良いでしょ?」
「やることが多いとしんどい……」
「このゆるゆる双子め」
私がどんな気持ちで今日一日を過ごしたと思っているんだ。いや、お客さんが一人も来ないまま昼を越えた辺りでおかしいとは感じてたけどさ。
「あ、みんなお疲れ様ー」
階段からミカが降りてきた。マスターの癖して、カフェの営業時間が始まった瞬間二階に上がった理由が今ならわかる。上で何してたかはわからないけど。
「クロ、お仕事はどうだった? 体調悪くなってない?」
「あーもう楽勝です」
「なら良かった!」
ミカは満面の笑みを浮かべると、ナツの向かいのソファーに座った。
「うん、何度みてもメイド姿のクロは良いね。似合ってる」
「え、ど、どうも」
私としては今すぐ着替えたいんだけど。
「メイド服はね。私の意向なの」
「え?」
どういうこと?
「マスターがフユたちにメイド服を着てほしいって……」
「ナツたちはマスターに逆らうことなんて無いからね。用意されたら着るよ」
「いやー、こうしてメイド三人に囲まれる日が来るなんてね。私は幸せだよ」
ミカはそう言ってソファーに寝転んだ。
やっぱりやばい人たちか。すぐに脱出したほうが良い? 入り口の鍵はかかってるけど。
メイド服は着ろって言われてそんな簡単に着るものなのか?
「かわいいは正義! 最高! 感謝!」
ミカがいきなり大声で叫んだ。怖い。
……あれ、静かになった。ってミカ寝てるじゃん。ソファーで寝転がったまますやすやと目を閉じている。感情とかテンション周りは一体どうなっているんだ。
「ねぇ二人とも」
いきなり静かになったのがなんとなく居心地が悪くなった気になって、思わず二人に話しかけた。
「なぁに?」
「どうしたの……?」
「私ってずっとこんな感じで暮らしていくの?」
「そのうち慣れる……」
「むしろこの生活も悪くないって思えるようになるよ」
「そっか」
本当かなぁ?
***
その晩、私はこの場所では初めて自分の意思でベッドに潜った。
まだ二日だ。ただ、この場所に慣れそうにない。私はこの場所で生きていけるのだろうか。
そもそも、この場所に慣れる他に、私の記憶だって取り戻さないといけない。
うーん、特に何も手がかりはない。これから見つけられれば良いんだけど。
そう言えば昨日見た夢は何だったんだろう。もう殆ど覚えていないけど、夢に出てきた男は何故か忘れていない。真っ黒な髪に、キリッとした黒い目、口元のホクロ。こんなに記憶に残るなら何かしら私に関係あるのかな。まあたまたまだろうけど。
とにかくこれからだ。喫茶ミストに慣れて、できれば私の記憶も取り戻す。
私の身に何があったか知りたいんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます