第55話 FAHRENHEIT 451

「最初に言っとくけど、今からやる方法は、ちゃんとしたやり方じゃないからね」


 そう前置きしてからバイリィは続けた。


「しっかり符を読んで、作品全体の想像図を構築するのが正規のやり方。その想像図を神様に伝える感じで、題名を読み上げて、文字をお焚き上げするの。そうすると、神様たちに内容が伝わる。で、魔術が発動って流れ」


「ふむ」


「でも、あたしはこの符を読めないから、簡易的な方法を使う。イナバ。この作品って、どんな話?」


「それは、この作品の概要を伝えればいいのか?」


「それでもいいけど、イナバが読んで思ったことのほうがいいかな」


 そう言われると、言葉に詰まった。


 なんせ、読んだのは随分前のことであったし、そもそも私は作品を読んで感想をうまくアウトプットできるタイプの人間ではない。


「なんでもいいよ。とにかく、この作品を読んで思い浮かんだことをいくつか教えて」


「……文学の反逆。瞬間的な享楽。未来への示唆。娯楽に対するアンチテーゼ」


 言ってから、これは駄目だと自分でも思った。


 現世の人間など誰も居ないというのに、当たり障りのない、取ってつけたような感想を述べていたのだ。


 バイリィは苦い顔をしていた。


「むずかしい。いまいちわかんないな。もうちょっと……具体的な画はない?」


 今度は素直に、一番脳裏に焼き付いたものを吐き出すことにした。


「永久運動たる炎の美しさ」


 それが、『華氏451度』が私に与えたイメージだった。


 現代に対する警句だとか、瞬間的な享楽が与える刹那の人間性だとか、そういったいかにも文学的な感想は、後で社会性が取ってつけたものだ。


 本当のところ、私はこの作品に炎の美しさしか教わっていない。


 まずは本を焼き尽くす恐ろしい業火。そして、反逆者たちが囲む暖かな焚き火。炎は常に主人公と同じ立場を歩んでいた。


 『物語』を終わらせる炎が、最後には『物語』を生む焚き火へと立場を移す。そこに私はなんともいえぬ美しさを感じたのである。


「それ、いいね」


 バイリィが得心がいったように笑った。


「じゃあその画でいこう。この符の題名はなに?」


 日本語だと格好がつかないような気がしたので、私は『華氏451度』の表紙裏を見て、原題を確認した。


「『FAHRENHEIT 451』」


「当たり前なんだけど、全然言葉が違うね」


 聞き慣れない横文字だったためか、バイリィは口の中でもにょもにょと復唱し、舌に言葉を覚えさせようとしていた。


 彼女は反復練習を繰り返しながら、少し離れたアスファルトに小石を並べて、小さな円陣を作る。魔術の発生ポイントの目印なんだろうと思った。


「うん。覚えた」


 バイリィが顔を上げたのと、円陣が完成したのはほぼ同時だった。


「じゃあ、いよいよ魔術を使うね」


「よしきた」


「魔術は一回こっきりだからね! 見逃しちゃあ駄目だよ!」


 さてさて、いよいよ現世の書物を使った魔術の実験開始だ。


 鬼が出るか蛇が出るか。業火が起こるか風前の灯火か。


 私は内心どきどきしながらバイリィの魔術行使を見守った。


 彼女は『華氏451度』の表紙に手をかざし、題名を指でなぞる。呼吸を止める。円陣に焦点を合わせる。


 そして、叫んだ。


「『FAHRENHEIT 451』!」


 瞬間。


 橙の爆炎が空に向かって屹立した。


 円陣を火元として巻き上がったそれは、例えるなら炎の塔であった。


 内炎が踊るように上空へ伸びていき、外炎はそれを覆うように、時折枝毛のように先別れしながら螺旋を描く。炎と空気の境目には、薄いオレンジ色の靄がかかった。


 不純物を一切取り込んでいないせいか、その炎は純粋な暖色の色を輝かせていた。周囲の酸素を燃やしながら、空へ空へと舞い上がる。『監獄』の背丈をゆうに越す


 ちりちりと、肌が焼けるような熱を感じた。


「きれい」


「そうだな」


 炎の塔はしばらく、空気を求めて拡散しながら踊っていた。だが、突然、冷や水を浴びせかけられたかのように——いや、違う、自ずから終わりを望むかのように収縮し始め、みるみるうちに小さくなった。


 最後には、手を近づけなければその熱を感じ取ることができなくなるくらいに、縮んでしまった。炎の塔は、身近な焚き火へと姿を変えた。


 そして、それすらも、わずかな時間めらめら燃えただけだった。


 炎は跡形もなく消えてしまい、わずかに熱を帯びた空気だけが残った。円陣の石が、業火の証拠として黒く焦げていた。


「これで、終わりか?」


 あまりに呆気ない終末に、思わず私はそう尋ねた。


「そうね」


 バイリィは手元に残った『華氏451度』の中身を見てから答えた。


「これで終わりみたい」


 かくして、記念すべき初回の実験は終わった。

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