第50話 毒の味
特に何事も起きぬまま、夜闇の空の旅は終わり、私はあの汚い『監獄』へと帰還を果たした。
「わざわざ、ありがとうございました」
玄関の前にそっと足を下ろした私は、ケンネに向かってうやうやしく手を重ねた。
「いえいえ。バイリィさまの大事なお客様ですので。これくらいは当然のことです」
ケンネはにこやかにそう告げてくれたが、私は多少、彼女に申し訳なさを感じていた。
我々は、今日一日中物見遊山に耽って思う存分飲み食いを楽しんだというのに、彼女はずっとバイリィの汚部屋の掃除をし、夕食を作り、挙げ句送迎までしてくれたのだ。
せめてチップくらいは渡さねばなるまいと思った。
「ここまで送っていただいたお礼がしたいです。私の持ち物でよければ、何か、あなたに送りたいと思うのですが、欲しい物はありますか?」
私がそう提案すると、彼女は指を一本立ててから言った。
「では、ひとつ。イナバさまが朝に吸われていた……Tabako、でしたか? あれを一本、ください」
意外な提案だった。
「Tabakoですか? 既に言いましたが、あれは毒ですよ?」
「ええ、覚えております」
「美味しい味もしないし、匂いは酷いし、健康にも悪いですよ」
「それでもいいのです」
ケンネの目はいつもの糸目であったが、その態度には泰然自若みを感じた。テコでも動かなさそうな気配である。
パッケージに印刷された健康被害の警句をいくら読み上げても無駄だろうなと思い、私は、最終確認だけしようと思った。
「わかりました。一つだけ確認させてください。ケンネさん。あなた、大人ですよね?」
異世界とはいえ、未成年に煙草を吸わせるのは、いろいろとマズい。
「それは、精神の意味でしょうか。それとも、年齢の意味でしょうか?」
「どちらかといえば、年齢の意味です」
「では、大人ということになりますね」
なんとなく裏のありそうな言い方であったが、断言されては認めるしかない。
私は胸ポケットから煙草を取り出し、一本、ケンネに手渡した。
「ありがとうございます」
彼女は大仰にも両手でそれを受け取った。
さすがに手本がいるだろうなと思ったので、私も咥える。
「Tabakoは、吸う方向があります。色が違う部分がありますよね? Filterというんですが、そっちを咥えてください。唇でつまむように」
「こうですか?」
ケンネは私の口元を凝視しながら、真似をする。私も確認のためやむを得ず、彼女の紅の惹かれた薄い唇を見る。
なんだか妙な光景だなとは思った。
「それで大丈夫です。次に、火をつけますので、息を軽く吸っていてください」
手のひらが向けられたのを確認してから、私はライターに火を灯した。夜風はなく、炎は直立した。位置を微調整し、彼女が咥える一本の先に火をつける。
無事に着火し、煙が昇って灰が生まれた。
「あとは、それを吸うだけです。ゆっくり、吸ってくださいね。あと、最初は、身体の奥まで煙を吸い込まないほうがいいと思います」
彼女はおずおずと息を吸った。煙草の先の燃焼が強まり、赤い光を放つ。
そんな経験などもちろんないのだが、幼い子どもに初めてのおつかいを頼むような心持ちがした。
私が神妙な面持ちでケンネの喫煙を眺めていると、彼女は一度煙草を口から出し、袖口で口を覆った。
「こほっ」
何事かと思ったが、軽い咳をしただけだった。
「言った通り、毒でしょう?」
「そう、ですね。普通の煙とも違う感じがします。なんだか、粘っこいというか、淀んでいるというか」
「それがTabakoというものです」
こほこほと息を整えるケンネの目は、ごくわずかだが潤んでいた。
「嫌だと思ったら、自分の気持ちに従ってください。私は何も気にしません」
未知のアレルギーを引き起こしてぶっ倒れるなんてことはなさそうだったので、私も自分の一本に火をつけた。
「いえ、せっかくですので、最後まで、味わおうと思います」
ケンネも喫煙を再開した。
そうやって、我々は夜空の下で煙を吹かした。
お互いの吐いた煙が、頭上で交差し一つとなる。なにかのメタファーになりそうな、風情のある光景だなと思った。
また、元恋人に破局を告げられ、自暴自棄にならなければ生涯お目にかかれない光景だな、とも。
「なんだか、頭の中がぼんやりしますね」
「Tabakoの煙のせいですね」
「この、落ちそうな灰は、どうすれば?」
「軽く叩いて、落としてください」
喫煙者への風当たりが年々増している現世であればいざ知らず、異世界でまで現世のマナーを持ち込もうとは思わなかった。
私は煙草の背を指で軽く小突いて、灰を地面に落とす。ケンネも倣って、煙草の背を低くする。
吸って、吐いて、叩いて、落とす。
それを何度か繰り返したところで、両者の煙草は根本まで燃焼が伸びた。
「Tabakoはそこまで燃えたら、おしまいです」
私はアスファルトの地面に煙草をぐりぐりと押し付け、火を消した。携帯灰皿に吸い殻を入れる。
「貴重な体験をありがとうございました」
ケンネも同じように屈んで煙草の火を消し、私が口を広げた携帯灰皿に吸い殻を入れた。
吸口に口紅がついていた。
「毒の味は、どうでしたか?」
私が尋ねると、ケンネはまた小さく咳をしてから答えた。
「苦くて、痛くて、まとわりつくような感じでした」
それは私も全くの同意である。
「ですが……なんでしょうね。イナバさまが吸われる理由が、なんとなく、わかるような気もします」
彼女は遠い目をして言った。森の奥、城壁のある方向だった。
私には、彼女の言葉の真意が測りかねた。状況証拠が少ないと思った。
「Tabakoの煙には、思考を一時的に抑える効果があります。運転は、もう少し時間を置いてからのほうがいいでしょう」
私はせめてもの助言を彼女に送った。
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