第51話 家族として、従者として、大人として
「イナバさま。バイリィさまに付き合っていただき、ありがとうございます」
ニコチンの効果切れを待っていると、ケンネが唐突にそんなことを言った。
最初はバイリィの従者としての社交辞令的な言葉なのかと思ったが、その割には礼儀作法に則っていなかった。
ぽつりと、心に浮かんだ言葉をそのまま発したかのようである。
いつも細かなハンドジェスチャーを用いている彼女にしては珍しいなと思ったので、私はその先に踏み込んでみることにした。
「お礼を言われることではありません。私もバイリィには助けてもらっていますので。ただ、お礼を言われるとは思っていなかった。意外です」
「意外、とは?」
「いえ、あなたの立場からすると、私とバイリィの関係は、快くないのでは? 私のような存在に影響されて、バイリィがますます、街の外へ出たがるかもしれない」
その返答を聞くと、ケンネはくすくすと笑い出した。
いつもの凛とした美術品のような微笑みではなく、同年代の少女らしい素朴な笑みだった。
「まぁ、ひどい。それだとまるで、私がバイリィさまをこの街に縛り付けているような言い方じゃありませんか」
からかうように、ケンネは言った。
「正直なところ、私にはそう見えます」
初対面の『監獄』襲撃にしたって、あれはバイリィに勤めを果たさせるために起こした出来事のはずだ。
勝負に勝ったからバイリィは束の間の自由を享受しているが、期限が来れば、ケンネはまた、バイリィを拘束しようとするのではないか。
他人のお家事情に口を挟む気はないし、ケンネの立場にも正当性がある。街の治水という一大事業の継承者を教育するのは必要なことだ。厳しくするのもむべなるかな。
そう思っていたのだが、ケンネは、私の予想とは全く異なる一言を口にした。
「私は、バイリィさまに夢を追いかけてほしいと思っていますよ」
思わず目を見開くくらいには驚いた。
ケンネはもちろん、バイリィの夢を知っているはずだ。知らぬはずがない。
家の勤めから解放され、街の外へ出て、作品を書きながら世界を旅するという、彼女の夢。
従者の立場からすれば、応援なんてとんでもない話ではないのか。
「その割には、あなたの行動は、バイリィを街に引き止めようとしているように感じます」
「それは、私が大人としての役割を演じているからに過ぎませんよ。本心とは、違います」
「では、もっと素直に、彼女を応援してやればいいのでは? たぶん、バイリィはあなたを誤解してますよ」
「それはできません。ケンネ・チュアンムという、代々シューホッカ家に仕える従者としての役目を裏切ることになりますし、第一、それは、バイリィさまのためにもなりません」
「気になる意見ですね。バイリィのため、とは?」
ケンネはそこで、また城壁のほうを向いた。
「バイリィさまは、まだ子どもです。こちらは、Tabakoとは違って、精神の意味ですね。純心で、想像力が豊かで、しがらみを嫌う」
「それが彼女の良さでもあります」
「そうですね。でも、夢を追いかけ、家を出るというのならば、子どものままではいけません。私などの力を借りず、お一人でご決断なさってほしいのです。この街で大人にならなくてもいいです。でも、街の外へ出る時には、大人であってほしい」
ケンネは私を見た。笑みを浮かべた。まだ成熟していない少女の顔を、化粧によって大人にしていると思った。
「世界を旅するのであれば、私程度の障害は、越えてもらわねば困ります」
「なるほど」
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、似たようなものか。そこまで深い谷底ではないにしろ、バイリィを大人にさせるため、多少は試練を与えている、と。
私は安堵した。
ケンネがバイリィに対して抱いている感情が、厳しく見えつつも、きちんと愛の形を保っているとわかったからだ。
「ケンネさん。私はあなたを誤解していたようだ。あなたは、バイリィの良き理解者ですね」
彼女は口を塞ぐジェスチャーをして答えた。
「ありがとうございます。でも、バイリィさまには、このこと、内緒にしていてくださいね」
「もちろんです」
「それでは、頭もしっかりしてきた頃合いですので、私はこれで帰ろうかと思います」
「心配無用だとは思いますが、暗いですので、お気をつけて」
「ありがとうございます。それでは、イナバさま。良い眠りを」
「良い眠りを」
新たに得た慣用句を早速口にして、私はケンネと別れた。
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