第36話 オーベヤ・オベヤ

 喫煙者が時間を潰すとなれば、煙草に火をつけて、煙をぼんやり眺めながら妄想に耽るものだ。


 だが、さすがにこの立派な庭園を、発がん性物質とタールで汚すのは憚られる。なけなしの良心に従った私は、結局、煙草を咥えて火はつけず、喫煙気分だけを味わいながら、庭をうろうろと歩いて暇を潰した。


 そうこうしているうちに、あばら家の玄関口が、ガタガタと音を立てて開いた。


 バイリィだった。


「ごめん。暇させた」


 彼女の服装はいつもと違った。とは言ってもマイナーチェンジくらいの差異である。


 いつもの浴衣のような黄色地の服に、蝶の羽のように薄い羽織を一枚肩にかけているだけだ。着こなしが雑なので、恐らくケンネが無理矢理着せたものであるという推測がつく。


「あれ、今日は、なんか、いつもと格好が違うね」


 彼女は、私を見るなりそう言った。


 お偉いさんの家に行くともなれば、ある程度の礼を携えていかねばなるまい。


 ということで、本日の私はスーツ姿であった。


 入学式やバイトの面接くらいでしか着たことがないので、首元は苦しいし、動きづらいしで良いことがない。だが、それなりにフォーマルな印象を与えることには成功したようである。


「私の世界の、ちゃんとした服だ」


「そんなの気にしないでいいのに。あたし、これよ?」


 ラフな格好という自覚はあるのか、彼女は袖をひらひらさせながら言った。


 背景のあばら家と合わせて彼女を見ると、とても立派な血を引く家の娘には思えない。農家の三女くらいのフレンドリーさである。


 だからこそ、話しやすくて助かっているのだが。


「まぁ、奥へ奥へ」


 バイリィが私の手を引いて、中へと勧めた。


「お邪魔します」


 靴を脱ぐスペースがないため、私は土足のまま中へと入る。


 外観通り、中はそこまで広くはなかった。入ってすぐに廊下があり、奥と左右に部屋があった。


 戸はないが、布で内部が見えないように隠されていた。


 左の部屋から、ケンネの、「ああ!」という嘆きの声と、ドタバタと騒がしい音が聞こえてくる。どうやら、彼女は今頃片付けに躍起になっているらしい。


 私は奥の部屋へと案内された。歩くたびに、廊下の床板からギシギシと音が鳴る。


「ここが、お客さんをもてなす部屋!」


 たどり着いたのは、大きな丸い机が、中央にでんと置かれた部屋だった。


 中華料理屋のテーブルを彷彿とさせる机の周りには、それぞれデザインも大きさもまったく違う椅子がいくつか並んでいる。


 これを一人で作り上げたということは、素直に称賛に値する。魔術の力があるにせよ、生半可な努力ではあるまい。幼少期の頃、近所の空き地に秘密基地づくりをしたことはあるからこそ、彼女の頑張りがより一層理解できた。


 だが、なのだが。


「バイリィ……」


 正直言って、きったねぇ。


 ケンネが手を焼く理由が、わかった気がした。


 机や椅子の上には、書き散らしと思しき符の数々が散らばっていて、尻を落ち着かせる場所がない。


 壁の端には棚もあるが、そこも符を詰め込まれてぐしゃぐしゃ。インクの黒い染みが家具や床のあちこちについていて、模様のようになっている。床は当然、雑貨とゴミで溢れていた。


 坂口安吾の汚部屋を彷彿とさせる混沌ぶりである。クリエイターらしいと言えば、そうなのだが。


「いや、この部屋、きれいなほうだから!」


 バイリィは焦り顔でそう弁明するが、客間でこの有様ということは、私室は一体、どんなことになっているのだろう。新種の生物でも生まれ落ちているのではなかろうか。


「まぁ、座ってよ」


 彼女はそう言って、椅子の上に積み重なった符を机の端に移動させ、なんとか人が座れるスペースを作った。私は、おずおずとそこに腰掛ける。


 机の前にも符は積み上げられていて、少しでも触れたら雪崩が起きそうであった。


 バイリィは言った。


「イナバは、そこで待ってて! 今、お茶とお菓子の準備してくるから!」


 彼女はそう言い残して、部屋を出た。


 またも、待ちぼうけである。


 しかし、少しでも身動きすれば二次被害が起きかねないこんな状況で待たされるくらいなら、外で待っていたほうが遥かにマシだったなと、私は思った。

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