第28話 静かに夜を思う
「Yí Shì Dì Shàng Shuāng」
バイリィが次に紡いだ詠唱は、辺り一面に霜を降らせた。
冬の朝に吐く息のような、白い空気が、彼女を中心に湧き出す。
「……これは、」
ただならぬ光景に、ケンネの足が止まった。彼女は後ろを振り返り、拘束状態にあるバイリィを見た。
糸目が、驚愕によって見開かれていた。
「Jǔ Tóu Wàng Yuè Guāng」
第三節は、一帯を夜にした。
恐らく、世界全土に影響を及ぼしたワケではないだろう。その規模はさすがに、一個人の魔術でどうこうできるとは思えない。
ただし、私の視界に移る範囲の景色は、昼から夜へと変わっていた。
空が蓋で閉じられたかのように、世界に影が落ちていた。
『監獄』の頭上で輝いていた天球が、ぎらぎらとした熱のような光ではなく、ひんやりとした冷気のような光に替わっていた。
壺の底から眺めた、注ぎ口のような天球だった。
あれが、この世界における、月のようなものなのだろう。
バイリィは、顎を上げ、その天球を眺めていた。
「バイリィさま。あなたは、至ったのですね。その領域に」
天球の涼やかな光を受けて、ケンネの顔が見えた。その表情は、間違いなく、歓喜に染まっていた。
「Dī Tóu Sī Gù Xiāng」
締めくくりの一文を唱えると、バイリィは静かに下を向いた。
あの悪ガキのような粗暴な仕草は、どこにも感じることができない。
その瞬間、彼女は自然を詠む詩人になっていた。
主の成長を感じたのか、ケンネの目が嬉しそうに細まった。
「さすがです、バイリィさま。ですが、これはKué Lì。私とて、手を抜くワケには参りません。全力は尽くします」
ケンネはバイリィに背を向け、身をかがめ、勝利条件たる角帽へと手を伸ばす。
バイリィの魔術は、素人目に見ても規格外だ。
限られたエリア内とはいえ、景色そのものを変えてしまうなど、個人の領域に収まってよい力とは思えない。
だが、しかし。
それだけなのか? 攻撃、拘束、防御、操作、妨害といった付随効果はないのか?
ただ、辺り一面を風情ある光景に変えるだけというならば、残念ながら、この決闘は——、
「Jìng Yè Sī」
それは、不思議な光景だった。
瞬間移動とも、高速移動とも、また違った。
題目らしき言葉を唱えたバイリィは、ゆっくりと、動き出した。
ケンネの拘束から逃れるためか、この世界の礼儀らしきものに則って、動いた。
両の手をすり合わせ、拝むようなポーズを取り、右足から踏み出した。
数歩ごとに立ち止まり、その度に異なるハンドジェスチャーを行った。
ケンネの布帽の前まで来ると、そこで振り返り、彼女に向かってうやうやしく手を向けた。
そしてまた向き直り、布帽を手に取った。向きを確認し、ふんわりと頭に載せた。
私はその光景を見ていた。バイリィの動きはとても静かであった。私はそれを目で追えた。
だがしかし、それらは、ほんの一瞬の間の出来事だったのだ。
ケンネの勝利が目前に迫った中での、一瞬だった。
時間が薄く引き伸ばされ、そこにバイリィだけが踏み込むことができたような。
とにかく、不思議な光景だった。
「これで、あたしの、勝ち」
バイリィがそう宣言すると、いつの間にか、夜は再び昼へと変わっていた。
ケンネは、振り返り、誇らしげに布帽をかぶるバイリィを見て、やはり笑った。
「負けてしまいました」
決着が、ついた。
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