第5話 出会い系などのやり方

 実際に、パンデミックは爆発的な流行を生み出し、冬が本格的な感染だというのに、ハロウィンで広げてしまったウイル氏を、そう簡単に抑えることができるわけがない。

 医療はひっ迫し、救急車を呼んでも、数時間来てくれない。あるいは、救急車が来ても、受け入れ病院が見つからず。そのまま救急車の中で死んでしまうという例や、

 病棟が十分に準備されているわけではない状態なので、ほとんどが、自宅待機となった。この病気の特徴として、

「それまでたいしたことのなかった人が急に苦しみだし、あっという間に絶命していたというのも珍しくないだろう」

 急変したことで、そのまま自宅にいて、助けを求めることもできず、それこそ、孤独死のようなことになるという、悲劇が、全国で頻繁に怒っていた。

 その人は死んでも死にきれないだろうし、その状況を目の当たりにした人は、恐怖におののいたことだろう。

「もし、あれが、自分だったら」

 とさすがに考えてしまう。

 そして、そう考える大半が、その少し前に、ハロウィンでバカ騒ぎをした連中だということは疑いようのないものであろう。

「7ハロウィンで、バカ騒ぎなんかしなければよかった」

 といっても後の祭りである。

 しかも、その時には、

「どうせ死ぬ時は死ぬんだ」

 と思っていたくせに、助けを求めることもできずに死んでいった人を考えると、怖くなるというのは、それこそ小心者の証ではないだろうか。

 要するに、

「我慢することはしないくせに、自分だけは助かりたい」

 と思うのだ。

 最初は人のことなど関係ないと思っていて、しかも、

「死ぬ時は死ぬ」

 とまるで他人事のように思っていたくせに、いざ、本当に死というものが目の前に迫ってくると、

「自分だけでも助かりたい」

 と思うことだろう。

 しかし、そんな連中に限って、ただ助かることだけしか考えないだろう。つまり、自分だけが助かっても、まわりが皆死んでしまうと、最終的に自分だけがその状況を我慢しなくてはいけなくなり、もう一度、死の恐怖を、今度は一人で味わわなければいけなくなり、結局、

「だた、一瞬だけ、他の人よりも生きた」

 ということだけにしかならないのだ。

 人よりも生きたといっても、その部分がすべて死への恐怖でしかないということは、少し考えれば分かりそうなことだ。

 皆死んでしまうことがある程度確定しているのであれば、こここで、生き地獄を見るしかないのであれば、

「一思いに」

 という考え方も一つだ。

 その逆を考えるのは、あくまでも、自分のことしか考えず、目の前のことしか見えないことで、せっかく手に入れた、実に短い延命も、地獄でしかないと分かっていれば、必死になって生き残りを考えるであろうか?

 どうせ、自殺をする勇気もないのだ。その時点で、

「何かにしがみつくしかない」

 と思えばそれこそ、そのままでしかないのだ。

 生き残るということが、本当に幸せなのかと思うと、大学時代に卒業する夢を見たことも、どこかで繋がっているかのように思うのだった。

 吾郎は、第一印象を大切にするということから、今までに、一目惚れした人以外を好きになったことはない。女性によっては、次第に吾郎のことを好きになってくれる人はいるのだが、吾郎自身が好きになったり、相手が第一印象で好きになったわけではないと思うと、その女性を信じることができないのであった。

 吾郎は思春期になるのが、高校の途中と、相当遅かったにも関わらず、一目惚れだけであれば、思春期に入る前にも何度かあった。

 異性を好きになったという意味では変わりはないのだが、思春期になるまでの感覚というのは、

「一目惚れして終わり」

 だったのである。

 つまり、まるで線香花火のように、燃え尽きるだけのような感じだった。

「ひょっとすると、そういう感情が思春期の前にあったから、なかなか思春期に入れあかったのかも知れない」

 と感じた。

 一目惚れから、女性を好きになるという段階的な気持ちの節目を、思春期前では乗り越えることができず。結果、

「俺には、結界を乗り越えることができないんだ」

 という思い込みから、思春期に入ることができなかったのかも知れないということではなかったのだろうか?

 思春期を乗り越えるということは、自分にとって、まずは、入ることが困難であった。

 他の人は無意識に入り込めるのだろうが、吾郎は、

「俺は、思春期に入れないかも知れないな」

 という思いがあったがために、無理に意識しなくてもいいのにしてしまったことで、

「思春期に入るタイミングを逸してしまったんだ」

 と考えるようになった。

 中学二年生になっても、入らない。

「まあ、まだこれからか?」

 と思い、三年生になると、今度は、

「受験と引っかかるので、できるなら、ない方がいいか?」

 と感じたのでその通りになったのか。

 しかし、高校に入ると今度は後悔した。

「高校に入学するために、思春期を犠牲にしたわりに、高校生活はそれほどいいものではない」

 と感じたからだ。

 何と言っても、自分が最低ラインと思っているクラス内のレベルを、完全に下回っていたからだ。

「こんな高校生活のために、俺は思春期を犠牲にしたというのか?」

 と、後悔の念に襲われていたのだった。

 高校一年生でも、自分の中に思春期というものは、芽生えてくることはなかった。

「もうしょうがないか。余計なことを考えるだけ時間のムダだ」

 と考え、あきらめの境地に至ろうとしたその時、まるで、忍び寄ってきたヘビが、するりと穴の中に忍び込んでくるような感じで、気持ち悪いものだった。

「これが思春期という感情か?」

 と思ったのが、すでに高校二年生も終わりに差し掛かっていた頃だった。

 だが、気が付いたのがその時だったということで、実際に入ったのがいつだったか、自覚はなかった。高校二年生になってすぐのことか。それとも、気付く寸前くらいだったというのか、きっと、気付いた時に忘れてしまったのだろう。まるで、夢で見たことを覚えていないかのようではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「思春期がいつから始まったのかということを、皆自覚があるんだろうか?」

 と思って、聞いたことがあった。

 数人に聞いてみたが、

「あったよ」

 という人と、

「いや、俺は分からなかったな」

 という人と、バラバラだったのだ。

 ということは、

「あまり気にしなくてもいいということか?」

 と自分の中で結論付けたが、どちらも人もいる以上、思春期に入るタイミングを知るということが、大切なことではないということであろう。

「分かっていようがいまいが、思春期を抜けた時は分かるもので、終わった後で、ああ、これが思春期だったんだと分かる仕掛けが、人間らしいといえば、人間らしい特徴なのかも知れない」

 だが、吾郎は、思春期に入る前に。女の子を意識していたことを後になって知るというのも、

「まるで思春期のようではないか?」

 と考えると、

「思春期というのは、一度だけではなく、小学生くらいの頃に、似たような感情が、数回くらい襲ってくるものなのかも知れない」

 と感じた。

 しかし、それはあくまでも、無意識に起こることのようで、共通点は、

「後になって分かる」

 ということであり、入った時のきっかけは、覚えている時と覚えていない時がある。

 逆に言えば、あっさりと忘れるか、粘着で忘れることができないのかということであろう。

 そんなことを考えていると、小学生の頃に好きになったと思われる女の子、それも最初の女の子が、そのまま自分の好みの女性になったようである。

「なったようである」

 というのは、高校の時に、思春期に入ったであろうその時、最初に気になった女の子は、小学生の時に好きだった女の子とはタイプが違っていたからだ。

 どうして違ったのかというのを考えれば、すぐに分かったのだが、小学生の頃に好きだった女の子は、どちらかというと大人しめな子だった。

 だが、高校二年生の時に好きになったのは、大人しめというよりも結構活発なタイプの女の子で、細身の子だった。

 身長もあって、どちらかというと、

「キレイ系の女の子」

 だったのだ。

 だが、それ以降でも、自分が好きになる女の子の中にはいないタイプで、その子は、おとなしそうに見えたのだが、活発だったこともあり、表情が豊かだったのだ。

「なぜ、その時この子が好きになったのだろう?」

 と思うと、その時の自分が、

「制服フェチだ」

 ということに気づいたことだった。

 逆にこの時気づいたおかげで、自分が制服フェチだという自覚もできるようになったのだし、基本的には、制服が似合いそうな女の子が好きだったのだが、その子がその時は一番似合って見えたことから、いつものタイプではないのに、好きになったのだった。

 だが、

「元々、こういうタイプも好きなのかも知れない」

 と思うと、

「俺は、女の子を見る時、制服が似合うか似合わないかで判断しているのではないだろうか?」

 と考えるようになった。

「たまたま、その時が、思春期の一発目だったということなのか、それとも、思春期の一発目にくるように、自分の中で無意識に操作したのか?」

 とも考えられた。

 だから、

「思春期が他の人に比べて遅かったのではないか?」

 といえるのではないかと考えるのだった。

「そっか、基本制服フェチなので、まずは、制服が似合うということが大前提にあって、そこから好みが決まってくるのかも知れないな。そう考えれば、制服の種類によって、似合う見合わないが決まると思うし、自分がどこまで想像できるかということが問題なのではないのだろうか?」

 と考えるのだった。

 そうやって考えると、

「制服が似合う」

 という音の子を基本に考えると、可愛いと思える子であれば、好みは結構広がってくる。

 逆に小学生の頃は制服の女の子というのは、お姉さんであり、憧れでしかなかった。特に近くに住んでいた、優しいお姉さんが今でも忘れられなかったりする。そのお姉さんが、高校生の時、

「思春期で最初に好きになったその子に似ている」

 と感じるまでに、少し時間が掛かったのだ。

 小学生の頃に見たお姉さんは、あくまでも、

「お姉さん」

 なのだ。

 付き合うとか、彼女とか、そんな感覚ではない。むしろそんなことを考えるのは、失礼に当たるというくらいで、それこそ、女神のような存在だった。

 だから、余計に、

「汚してはいけない」

 という意味で、

「自分なんかが好きになってはいけないんだ。あくまでも、観賞用として愛でる対象なのではないだろうか?」

 と考えるようになった。

 だから、自分の好みとして考えた時に違和感があった。そして、それから大学卒業くらいまでは、自分がどんな女性が好きなのか、暗中模索だったような気がする。

 だから、一時期、

「どんなタイプの女性であっても、必ず声をかけるようになった」

 といってもいいだろう。

 高校生の頃まではパッとしなかった吾郎だったが、大学生になると、急に垢ぬけてきて、女性からモテるという自負が、自他ともにあったと言えるだろう。

 それは、逆に高校生の頃までの学生服が却ってネックだったのかも知れない。

 ブレザーのような制服であれば、まだしも、当時はまだ詰襟の学生服が多く。ブレザーに憧れたりしたものだった。いわゆる詰襟の学生服を、一般的に、

「学ラン」

 などと称していた時代があった。

 時に、昭和50年代などには、校内暴力というものが流行り、先生もそれに対抗し、ジャージに竹刀といういでたちの先生が、ドラマに出てきたりもした。

 生徒の中には、そんな先生からの締め付けがひどいことに反発し、学校を退学させられたり、自らした生徒が、

「お礼参り」

 と称して、学校への破壊工作に及んだりしたものだった。

 その時に変形学生服が使われ、いわゆる、

「不良ルック」

 とでもいうような着こなしが、象徴的だった。

 さすがにそんな時代は知らないが、いずれ、不登校、苛めの時代に入り、制服も変化していった。

 普通のセーラー服ではなく、ブレザー系には、前述のような紺のハイソックスと言った服や、一時期爆発的に人気であったが、すぐに消えていった、

「ルーズソックス」

 などというものもブームだったりした。

 その頃の女子高生は、 テレクラなどという風俗が流行ったおかげで、

「おじさんが簡単に女の子と出会って、ホテルにしけこんで、お小遣いをもらう」

 などという文化があったりしたものだ。

 今の出会い系の元祖のようなものだといってもいいだろう。

 今では、ネットのSNSや、出会い系のサイトなどで、簡単に知り合えるが、昔は、

「テレクラ」

 いわゆる、

「テレフォンクラブ」

 という店舗があって、そこで、女の子からの電話を待つというシステムになっていた。

 店舗のよっていろいろな種類があるようで、よくドラマなどで出てくるのは、

「先着型」

 とでもいえばいいのか、かかってきた電話を、最初に取った人に権利があるというものだ。

 そんなことをしていると、なかなか順番が回ってこない人もいるということで、

「順番型」

 という制度のお店も出てきた。

 どっちが最初だったのか分からないが、順番型の方が後のような気がした。

 というのは、順番型というのが、あくまでも、

「先着型の欠点を補った形ではないか?」

 と思えるからである。

 吾郎も、学生の頃は行ったことがあったが、ほぼ、テレクラが衰退する少し前だったこともあって、入った店で、

「先着型」

 だったということはなかったのだ。

 順番型というのは、部屋の番号が決まっていて、若い順から掛かってくる。そして、その人が話をして、交渉がまとまれば、待ち合わせということになるのだろうが、まとまらなければ、男が電話を切ると、そのまま、今度は、次の部屋に掛かるというわけだ。

 交渉がうまくいかなかったのには、いろいろな理由が考えられる。

「時間が合わない」

 あるいは、

「好みが合わない」

 これには、年齢であったり、容姿や話していての雰囲気も含めてのことになるのだが、たまたまその人が合わなかったというだけで、次の人とパッチリ相性が合うかも知れない。そういう意味で、女の方も男の方も、

「合わなければ次」

 ということになるだろう。

 もし、そこで交渉が成立し、待ち合わせ場所を決めて、

「会おう」

 ということになっても、お互いに相手が出てくるかどうか難しいところだ。

 交渉がうまくいったといっても、あくまでも、電話で話をしただけで、男性側の好みとまったく違う女がそこにいるかも知れないし、男にしても、電話で話したことが、女の子のイメージに合わなければ、交渉決裂。待ち合わせ場所に行ったとしても、相手が、

「これは違う」

 と思うと、その場から、そそくさと帰ることだろう。何しろ、お互いに顔も知らない。

「初めまして」

 だからである。

 店の方もそのことは重々承知で、男性が外出する時は、時間内であれば、戻ってきてもいいことになっている。

 つまり、男性が表に出る時は。受付に、

「ちょっと外出してきます」

 というのだ。

 だから、店は最初から料金は前払い。そのまま戻ってこなければ、

「うまく会えたんだ」

 ということで、店は、時間がくれば、片付けて、空室にしてしまう。

 そういう意味で、その部屋の時間分は貰っているので、部屋が空いたとしても、店側の損にはならないということだ。

 客も、ずっとそこで、電話を待っているだけということもない。三時間という時間を取っていたとしても、時間帯によって、あるいは、曜日によってなのかも知れないが、女の子から電話がかかってこないということも、平気であるのだ。

 それでも、女の子用のダイアルは、フリーダイアルにしてあるので、女の子がいくらかけても、電話代の心配はない。その分は、男性の部屋の使用料で、賄うのだろう。

 部屋の中では。マンガを見たり、あるいは、その頃に流行り出した。ケイタイ電話のツールを使って、

「伝言ダイヤル」

 などというツールであったり、

「出会い系のチャット」

 というものもあるので、店にそのカードが置いてあり、カードを使って、利用するので、その時に客がカードを買うことになる。

 電話を待っている間に、チャットは伝言ダイアルでも、食指を伸ばしていると、どこから引っかかるか分からないというものだ。

 基本的にテレクラというのは、女性から掛かってこなければ、何もできない。それをケイタイが埋めてくれるのだった。

 あとは、マンガなどが置いてあってマンガを見たり、パソコンが置いてあったりすれば、そこで、AVを見たりして時間を潰しているのだろう。それこそ、

「ネットカフェのようではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 そんなテレクラが流行った頃のことを、覚えている人も少ないかも知れないが、考えてみれば、テレクラが店舗としてあった時期というのは、結構長かったような気がする。

「10年以上は普通にあったよな」

 といえる。

 今は昔のテレクラというのはないようだが、その代わり出会い系のようなものはいまだに残っているという。

 そういえば、ネットの出会い系というものも、今から15年くらい前が一番最盛期だっただろうか?

 どこの雑誌にも、いかにもというような書き方で、

「出会える」

 と書いてあったような気がする。

「出会い系」

 と言われるだけあって、出会うということが最大の魅力なのだ。

 テレクラだって同じではないか。あまりテレクラや出会い系を利用しない人から見れば、

「何が楽しいんだ?」

 と思うだろう。

「だって、オンナを抱きたいと思ったら、ソープにいけば、法律で守られた店舗なのだから、安心ではないか? 下手に自分立ちで交渉すれば、騙されたりしても、文句が言えないだったり、下手をすれば、美人局が現れて、有り金むしり取られることになりかねないのではないか?」

 と思うのだ。

 普通に考えれば、テレクラや出会い系は本当に怖い気がする。それでも会いたいというのは、

「素人を自分がナンパしたかのように感じるからなのだろうか?」

 と、吾郎は、テレクラにたまに言っていたくせに、理解していなかったのだ。

 そもそも、交渉をすれば、普通なら、2万円とか、3万円とかで、ホテルにということになるのだろうが、ソープであれば、もうその頃は、大衆店などがあり、60分であれば、3万もいらないところが多いのではないだろうか? 

 ソープであれば、危険なことはない。美人局や、追加料金などはありえないからだ。そんなことをすれば、風営法違反で、営業ができなくなるし、営業ができても、変な評判をネットなどに流されでもしたら、もうアウトである。

 それに、店であれば、女の子は定期的に性病検査も行っているだろう。

 しかし、素人の出会い系のオンナが、自分で性病検査を行っているとは思えない。そういう意味で、病気を貰うという意味でも、出会い系や、テレクラの方がよほど怖い気がする。

 実は、吾郎も一度だけ、テレクラで知り合った女と、ホテルに行ったことがあった。確か2万だったが、サービスなどまったくない。相手は完全にマグロであり、表情もまったく変わらない。

 それを思うと、

「まるで、金をどぶに捨てたおうな気分だ。あんな女、金貰っても二度と抱くもんか」

 と思ったものだった。

 それから、テレクラにも、出会系にも手を出すことはなかったが、出会い系のチャットのようなものは、実にうまくできている。

 一回の書き込みに、課金されるのだ。

 値段は憶えていないが、一回の書き込みいくら、電話番号を教える時はいくら、あるいは、待ち合わせの約束をする時はいくら、というように、それぞれで値段が違ったような気がする。

 しかも、オンナは完全にサクラであり、舞い上がっている男は気づかないが、少しずつ近づいているというようなそぶりを見せながら、どんどん、書き込みを相手にさせるのだった。

 相手の会社に振り込みをすれば会話が続けられるというもので、興奮してくると、

「どうせもうすぐ会えるのだから、この一回の課金で終わりだ」

 と思って課金して、会話を続ける。そして実際に待ち合わせとなって、その場所にいくと、最初は、

「あなたが分からない」

 といって少しでも書き込みさせておいて、最期には、

「ごめんなさい。急用ができて、帰らなければいけなくなったの。ごめんなさい」

 で終わりだった。

 その時初めて相手がサクラで、その場にいるわけではなく、

「ネカマが話を合わせているだけだ」

 ということに気づかされて、愕然とする。

 しかし、そもそもこんな陳腐なことに引っかかったのも自分が悪いのだ。我に返ると、

「こんなことは、誰にも言えないよな」

 と思う。

 だから、出会い系の連中にとっても、悪いウワサを流されないで済むので、いくらでも手を広げることができるということだろう。

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