第3話 第一印象

 人の顔を覚えるのが苦手な、新藤吾郎だったが、そのせいなのか、それとも、人の顔を覚えられなくなったのが、こちらの性格が影響しているのか、世の中というものが、

「必ず、何かが影響している」

 と考えさせるに十分なものであるということを考えさせられるものだった。

 吾郎が、

「自分が第一印象で人を判断する人間なんだ」

 ということに気づいた最初はいつだったのだろう?

「いつからそんな性格になったのか?」

 などということは、そう簡単に分かるものではない。

 まずは、自覚した時を自分で理解し、少なくとも最初に感じたのは、自覚するよりも前だったはずなので、そういう、

「段階を追った」

 というような考え方にならなければいけないと思うようになっていた。

 ただ、人を第一印象で判断するということは、いきなり相手を見切るということでもあり、本当であれば、何度か会って話をしているうちに感じることを一瞬にして判断しようというのだから、本当だったら、絶対に仲良くなれそうだとまわりが思うような人同士であっても、こっちから一方的に、第一印象で、

「無理だ」

 と判断すると、それ以上を判断することなどできっこないのだった。

 本当は相手は、

「仲良くなりたい」

 と思っていたとしても、いきなり、合わないと判断されたなどと思ってもいないだろうから、相手の性格も分かっていないこちら側とすれば、どう対処していいものか分からない。

 こっちも意地になって、

「そっちがその気なら、こっちだって」

 と思う人も結構いるだろう。

 それだけ、第一印象で、

「この人は無理だ」

 と思われた人からすれば、失礼でしかないからだ。

「こんな失礼なやつに対して、俺が合わせてやる義理なんてないんだ」

 と思う。

 男性同士であれば、少しは分かり合えることもあるが、これが異性が相手だったりすると、どうしようもない場合がある。

 一度、離れてしまうと、近づくことがないほどに、下手をすれば、一度嫌いになってしまうと、修復は不可能だと考えるのも、異性が相手の方が、かなりいるのではないだろうか?

 それは、第一印象に限らずである。第一印象はお互いによかったはずなのに、どんどん距離が出てきた。相手が分からなくなっていき、別れるしかないようになってしまった。

 ということも往々にしてあるのだろうが、しかし、逆も考えられる。

「別れることになるのであれば、最初の第一印象から、何らかの違和感はあったはずで、それを曖昧にして付き合ってきたから、修復できないままに別れることになってしまうのだ」

 といえるのかも知れない。

 要するに第一印象から、違和感があったものだということを気づいているからこそ、違和感を持ったまま、

「どこかおかしい」

 と考えながら、無理なものを押し通してきたと言えるのではないだろうか?

 世の中には、第一印象を大前提として考える人と、第一印象は、ただのきっかけに過ぎないと考える人の二通りがいるだろう。

 そんな二人であってもうまくいくのかどうか、そこは難しいかも知れないが、人には、

「相手に合わせる」

 あるいは、

「自己犠牲」

 というような考え方を持つことで、何とか、バランスを保とうと考える人が多いことだろう。

 比較的日本人にそんな人が多いと感じるのは、

「大日本帝国がそんな時代だった」

 ということから、ある意味、日本人には合っている考え方なのかも知れない。

 ただ、今の日本は、そんな大日本帝国時代の悪しき伝統のようなものを、

「悪」

 だと捉える考え方もある。

 それがいい悪いは別にして、占領軍が日本人に植え付けた、

「民主主義」

 という考え方で、その基本は。

「自由」

 というものであった。

 民主主義における自由というのは、

「自由競争」

 という概念であり、ただ自由というだけでは、いくら民主主義といえど、まるで無法地帯と化してしまう可能性があるのだ。

 誰もが、好き勝手なことをしていると、どうなるかということは、普通に考えれば分かることだ。

 社会のルールと呼ばれるものが機能しなくなるとどうなるか?

 きっと、力の強い者が弱い者を支配するという、弱肉強食の時代に入っていく。

 一般的な弱肉強食というのは、

「自然界の生態系」

 のバランスを取るためのものとして必要なものとして考えられる。

 そして今の世の中の弱肉強食というのは、決して悪いことではない。なぜなら、

「法律やルールにのっとった中での自由競争」

 というものが、弱肉教職だからである。

 だから、民主国家における自由という言葉は、基本的に、

「自由競争」

 を前提として言われることなのだ。

 自由競争のためには、スタートラインをハッキリさせる必要がある。無法地帯の中で、自由競争などということはありえないからだ。

 自由に競争するためには、それだけの土台が必要であり。無法地帯にて、自由競争をしようものなら、やはり結果的に。弱肉強食になってしまい、

「弱ければ、食われる」

 という当たり前のことを、いまさらながら思い知ることになるのだ。

 そういう意味で、自由競争に興じている人間で、その競争に勝ち続けている人間は、きっと弱肉強食という概念が、他の人とは違うかも知れない。一度も食われるということを実感に感じたことがなければ、それは、本当に感じているとは言えないのだろうからである。

 今の30代。40代くらいの人は、ギリギリ受験戦争を知っているくらいであろうか?

 そんな中にも、

「受験戦争くらい、若い人だって知ってるさ」

 というのだろうが、たぶん、昔の受験戦争と今の受験戦争とでは、違うところもあるのだろう。

 試験問題の傾向や、試験のやり方も昔とは違っていたりして、それも、学校側、教育側の都合だったりもする。

 マークシート方式など、最初からあったわけではない。

 OCRという光学式の用紙ができて、それを読み取る機械ができたことで、可能になったものである。

 それまでは、ほとんどが、記述式、選択方式、あるいは、〇×問題というような、クイズに近い試験だった。

 マークシートができてから、大学受験も、共通一次から、センター試験へと変革していったわけである。

 しかも、昔は、中学に入学する時から、受験をする人が結構いた。今もいるのだろうがやはりここも、

「何かが違う」

 といえるのかも知れない。

 ただ、受験勉強というと、

「詰込み」

 であったり、

「暗記もの」

 というものも結構多く、理論で解釈するというものは受験勉強では少なかったという印象だ。

 マークシートになると、さらにそれが信憑性を帯びてきて、下手をすると、

「出題を考える方が、受験生のように、回答を導き出すというよりも、難しいのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 そんな時代を超えてきて、今社会人として、油の乗った仕事をしている人が多いのだろう。

 ただ、

「受験勉強が社会に出てから、役立つということは、ほとんどないけどな」

 というのが、ほとんどの人の考えであろう。

 つまり、学生時代から社会人になると、一度頭の中がリセットされるようだ。

 小学生から中学生、中学生から高校生へと、ステップアップする場合は、そこでリセットされることはない。

 小学生から中学生になる時に、

「算数というのが数学に変わる」

 というのがあっただろう。

 同じ回答をするにも、算数と数学ではやり方が違う。算数では、ある程度自由に考えられたが、数学では、いかに知っている公式の中から答えることができるかというところが試される学問だといってもいいのではないだろうか?

 そんな受験勉強がある意味、

「自由競争」

 をいずれしていく時のための、プロローグのようなものだったといってもいいかも知れない。

 何といっても、

「受験戦争」

 などという物騒な言葉を平気で口にするからだ、

 本当なら、実際の戦争を知っている人からすれば、

「本当の戦争は、そんなものじゃない」

 と言いたいのかも知れない。

 何と言っても、受験で失敗しても、殺されることはないからだ。

 確かに、まわりのプレッシャーもすごくて、受験に失敗したことで、気が弱い人は、自分で自分を葬ってしまう人も少なからずいただろう。

 そういう意味で、受験戦争というのも、社会現象から、社会問題に発展した時期もあっただろうし、今でもそれが解決されず、継続していることなのかも知れないと感じるのだ。

 そんな時代であり、世の中では、第一印象というのは、どこか、

「博打」

 のようなものに思える人も多いのではないだろうか?

 受験勉強のマークシートを、あまり勉強が得意ではない人は、

「一種の博打」

 と考え、昔であれば、鉛筆を転がして、出た数字が、選択式の番号だったりする。

 それと、第一印象という考えを結びつけるのは、かなりの無理があるのだろうが、自分という人間が、

「第一印象で相手を判断するのが、くせのようになっている」

 と思っている人は、結構、無意識に判断するのが、一番いいと考えているのではないかと思えたのだ。

 それこそ、鉛筆の出た目というのは、無意識の答えであり、第一印象と、そんなところで結びついてくるとは思ってもいなかったであろう。

 吾郎が、

「自分は、第一印象で人を判断する性格だったんだ」

 と自覚するようになったのは、大学生になってからだった。

「じゃあ、それまでは、どうだったんだ?」

 と言われると、

「そういえば、誰かを好きになったりなんかしたことなかったかも知れないな」

 というと、

「いやいや、それは異性に対しての感情だろう? 友達とかでも、受け付けられないやつとかいるだろう? そういう人をどうやって見分けていたんだってことなんだよ」

 と友達に言われ、思わず苦笑いをしてしまった吾郎だったが、その時、本当にただの勘違いだったのか、自分でも疑問だった。

 確かに、高校生の途中位までは、異性を気にしたことはなかった。だが、一度気にし始めると、気になって仕方が亡くなる。

「何で、俺は高校生の途中位まで、女性を意識しなかったんだろう?」

 という思いと、

「他の連中は、皆中学の頃から彼女がいたりしても、俺は別に羨ましいなんって思わなかったのに、今頃になって羨ましいと思うようになったんだ。どうせだったら、このまま羨ましいなんて気持ちにならなければいいのに」

 と感じていた。

 晩生だったといってしまえばそれまでだったが、一度気にしてしまうと、

「何で、今まで思わなかったんだろう?」

 と感じるのだが、中学時代というと、高校生になってから思い出すと、かなり古い頃のことに思えて、

「この前まで、まるで昨日のことのようだって思っていたのが、ウソのようではないか?」

 と感じたのだった。

 何か新しいことや、それまで感じたことのなかったようなことを思うと、その時のことが時系列的に、

「果たして、感覚が狂っているんじゃないか?」

 と思わせるようになる。

 前述のように、前は昨日のことに思っていたのに、何かがあると、遠い昔のように感じたり、逆に、昔のことだと思っていたことが、まるで昨日のことだったように感じる時もある。

 それぞれの時系列に何か関係があるのかと思ったが、自分ではよく分からない。

「楽しいことと、苦しいことの変化?」

 あるいは、

「思春期を挟んで同じことを考えているのに、感覚が違うと思っていることで、過去にさかのぼった時の感覚になるのか?」

 という思いであった。

 そして、

「第一印象で決めてるんだ」

 と気づいたのが、大学に入ってからのことだった。

 それは、異性を意識するようになった時期とも違う、気になっている女の子が現れたからというわけでもない。

 もちろん、誰かに指摘されたからでもない。

「人に指摘されたからといって意識するような人間ではない」

 と実は、ちょうど、

「第一印象で決めている」

 ということに気づいたのと同じ頃に、

「いや、そうではないんだ」

 と思うようになった。

「俺って意外と、人から指摘されたことを意識してきたんだよな」

 と思う。

 いや、実際に、

「自分がこんな人間だったんだったっけ?」

 と、自分に対して疑心暗鬼になった時期というのが、ちょうど大学二年生になったこの頃だったのだ。

 大学生になってから、自分の生活も、性格までもがまったく変わってしまったと思っていた。

 高校生の頃までは、まったくの無口で。

「どうせ大学に入っても、自分から人に話しかけたりなんかすることはないんだろうからな」

 と考えていたはずだったのだ。

 しかし、大学生になって、急に人と話すようになったのも事実で、

「話しかけられたら、こっちも答えないと失礼だよな」

 という考えになる。

 大学時代において、高校時代までの暗黒の時代、あるいは、

「黒歴史」

 といってもいい時期を、消すことはできないので、

「これから歩んでいく歴史の中で、上書きしていくしかない」

 と考えるようになった。

 大学時代というのは、そういう時代であり、高校までのように、

「大学入学のための三年間」

 という後ろ向きの発想があるわけでもない。

 中学時代は、高校受験のため、高校時代は大学受験のため、という三年間ずつは、本当にあっという間だった。

 ただ、同じあっという間だった中学時代と高校時代という同じ三年間は、

「本当に同じ長さだったのか?」

 と言われると、そうでもなかったような気がする。

 しかし、

「中学時代が長かったのか?」

 と聞かれると頭を傾げ、

「じゃあ、高校時代か?」

 と言われると、迷ってしまっているのが、まるわかりの状態になっているのだった。

 ただ、高校時代を思い浮かべて、中学時代を顧みると、かなり遠いと思う。しかし、遠いはずの中学時代を今度は思い返そうとすると、まるで昨日のことのように思えてくるから、そのあたりが不思議なのだ。

 中学時代を思い浮かべて高校時代をそこから見ようとすると、本来なら、時代をさかのぼるのではなく、逆行しているのだから、感覚がおかしくなっても不思議ではない。

「長いか短いか?」

 という発想で考えると、分からないが、時系列が狂っているだけだと思うと、中学時代から高校時代を見ると、すでに中学時代に、自分の高校時代が見えていたようなおかしな感覚になるのだった。

 他の人のほとんどは、思春期を迎えるのは、中学時代であろう。それも、一年生から二年生の間、顔にニキビや吹き出物などができていて、同じ男でも、見ていて気持ち悪く感じるほどだった。

 しかし、晩生と最初から思っている吾郎は、高校一年生くらいまでは、そんな兆候などまったくなく、ただ気になっていたのは、

「クラスの男が、他の学校の女の子を連れているのを見て、初めて、羨ましいと感じた時だった」

 つまり、逆にいえば、同じ学校のカップルだったら、それほど羨ましいと思うことはないということで、それだけ、

「同じ学校の女の子にも興味がない。だから、異性に自分が興味はない」

 と思ったのだろう。

 だが、それは中学までのことで、今度は高校生になると、今までのように義務教育ではなく、

「小学校からの持ち上がり」

 ということもなく、試験で合格した、

「頭が同じレベルの生徒の集まり」

 なのである、

 言い方は露骨だが、正直、それ以上でもそれ以下でもない。そう思って入学してきたが、一年生の一学期で、すでに、ランク分けはされているような感じだった。

 吾郎が自分で感じたレベルとしては、

「中の下」

 と言ったところだろうか?

 なるほど、中学から受験する時、

「まあ、合格ラインの中でも、かなり上のレベルの高校になるね。一種の冒険かな?」

 と担任の先生に言われたのを思い出した。

 案の定、入学して見れば、何回が授業を受けただけで、大体、クラスのレベルがどれくらいか分かった気がした。

 頭のいい連中は、必死にノートを取っていて、自分よりも、成績の悪そうな連中は、半分授業を聞いていないという雰囲気にも見えたのだ。

 授業を聞いていない連中に悪びれた感覚はないようで、見ているだけで、

「本当に試験に合格してきた連中なのだろうか?」

 と感じるほどだった。

 ということは、

「試験にパスせず、入学できなかった人たちもいるわけだ」

 と思うと、

「自分を含めて、成績の悪い人間は、せめて、授業についていくくらいの心構えを持たなければいけないのではないか?」

 と思うくらいだった。

 だが、それを自分だけが思ったところで仕方がない。ただ、

「他人は他人、自分は自分だ」

 ということに間違いはないのだ。

 いくら自分が、不合格の連中のことを思ったとしても、繰り上がって合格できるわけではない。

「今頃どうしているのか?」

 とは思うが、思えば思う程、どうしていいのか分からない自分を顧みることになるだけなので、考えないのが、一番いいのかも知れない。

 高校一年生で、大体、自分のレベルが分かってくると、

「落ちこぼれ予備軍くらいになるのかな?」

 と思わないでもいられなかった。

 本当は、がんばって、大学受験をしたいのも山々で、先生に相談すると、

「そんなに上ばかりを見ているから、きついんだぞ、まずは、自分のレベルを図ってみて、そして、行ける大学をこれから探していけば、そこから先は、合格目指して、勉強すればいいだけだ。お前のように、そうやって相談してくれるとこっちもアドバイスできるんだが、ほとんどは、自分で勝手に限界を決めてしまうので、困るんだよな」

 というのだった。

 その先生がいたから、ひょっとすると、大学へも入学できたのかも知れない。

 そして、自分が、高校時代、異性に興味を持ち始めたのが、ちょうどその頃だった。

 その頃は、先生に相談したことで、気分的に楽になった気がした。そういう思いからか、

「思春期というのは、誰か気が楽になれる道を作ってくれる人が現れた時に、感じるものなのだろうな」

 と、自分なりに感じたのだった、

 そういう気持ちというのは、他の人も感じたのだろうか?

 人が、自分の思春期について話をしているのを聞いたこともない。聞く人もいないのか、完全に、

「聞いてはいけない、タブー」

 になっているのだろう。

 それを思うと、

「考えてみれば、俺も思春期のことを相談した相手もいないし、一人で悶々と考えるのが、関の山だったような気がするな」

 と感じた。

 ただ、中学時代に、悶々としているのに、誰にも話を聞けず、一人で悩んでいるかのように見えるやつがいたのを覚えている。

 まるで、おしっこを我慢しているかのようで、見ていて、こっちまでムズムズしてくるくらいだった。

「そういえば、おしっこって、一度我慢すると、次にトイレに行きたくなる感覚がほとんどないようになるんだよな」

 ということを思い出した。

 それまで、50分間の学校の授業を、授業開始前にトイレに行っておけば、事なきを得るというのに、一度我慢してしまうと、次は、10分もしないうちに我慢できなくなる。

 あまり我慢しすぎて、膀胱炎になってもいけないので、さすがに我慢できないと、先生に、

「すみません、トイレ」

 といって、トイレに行く。

 まわりは、その様子を見ながら、あまりいい目では見ない、下手をすると、汚いものでも見ているかのように見られるのだった、

 その目を今まであまり浴びた記憶がない。

 そんな目を見たくないという思いから、そういう目をされそうな時は、完全に避けているのだった。

 だから、まわりに対して、気を遣わなければいけない状態になりそうだったら、自分から避けるようにしている。

 中学時代などその典型で、人が近くに寄っただけで、反射的に避けているようなところがあった、

「だから余計に、思春期になりにくかったのかも知れないな」

 と思う。

 そういう環境に自分を置かなかったという証拠だろう。

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