第2話 歴史観点

「人の顔を覚えられない」

 という発想から、

「限りなくゼロに近い」

 という発想にまで、いかにして辿り着いたか?

 まるで、

「わらしべ長者」

 の発想のようではないか?

 神にも縋るという意識でお参りに来た男に、神が伝えたこととして、

「この寺から出る時に最初に掴んだもの。それが、神のお告げだと思って大切に持っていなさい」

 ということを言われたという。

 そこで、男は最初に掴んだ、

「わら」

 を大切に持っていると、ますは子供をあやすために、藁にハエを括りつけて、子供をあやすと、子供が泣き止み、それを欲しいという、しかし、男は神様からの申し出だからといって断ると、母親がミカンと交換と言われた、そして、同じように、ミカンが反物に変わり、反物が馬に変わり、そして、最期には屋敷に変わるというのが、わらしべ長者の話であった。

 だが、これには諸説あり、変わっていくものが違うことで、別の話も存在するという。

 基本的には、奈良県桜井市にある長谷寺に伝わる話であり、それが、伝わったものであるが、実際には、諸説あるようで、

「交換するものは微妙に違う」

 という話も伝わっているという。

 また、同じような話で、途中までは同じだが、途中で話が変わるパターンも存在するという。

 それは、口伝の時に、実施とは違う話が、それぞれで伝わったということなのか、それとも、話の内容が、流派か何かで、錯綜して伝わったのかであろうが、

「何かの違うものに変わる」

 という意味では、

「限りなくゼロに近いもの」

 というものとは似ているわけではないが、

 どうしようもない、一種のくだらないものが、何度かの節目の元に大きくなり、最期には無限に近づくという意味でいけば、前述の、薄い紙を重ねるという、

「限りなくゼロに近い」

 というものとの逆発想と同じではないだろうか?

 それを考えると、

「世の中の発想、逆から見ても、ほとんど同じことになるのに、発想としてまったく違っていても、結果として辻褄が合うようにできている」

 ということになるのではないかと思うのだった。

「わらしべ長者」

 というのをどう見るか?

 ということであるが、

 おとぎ話にあるような教訓と考えるなら、

「神の教えは絶対だ」

 ということであれば、信憑性はあるが、この話は、

「楽をしてでも、どんどん金持ちになることができる」

 という発想にもなりかねない。

 要するに、

「素直が一番」

 ということを言いたいのだろうが、それ以外に、教訓となるところはまったくないのではないだろうか?

 そんなわらしべ長者の話であったが、どこか捻くれたところがあった吾郎少年は、

「楽してても、そんなにお金持ちになれるんだ」

 とずっと思っていたようだ。

 それが高校生くらいになってから思ったこととして、

「金持ちにはなれるが、偉くなれるわけではないんだな」

 と感じたが、考えてみれば、日本のおとぎ話の、サクセスストーリーに近いものは、そのほとんどが、

「金持ちにはなれるが、偉くなれるわけではない」

 ということを感じた。

 日本の昔というと、封建制度の時代でもあり、出世の簡単にできる時代でもなかった。さらに、そもそも、出世という発想はなかったに違いない。時代としては、

「士農工商」

 という身分制度が確立していたわけではないが、武士の子は武士、同じ武士でも、領主と家臣の差が縮まることもなく、それこそ、戦国時代のような下克上でもなければ、成り上がるなどということはなく、そんな発想が生まれるはずもない。

 さらに、今残っているおとぎ話は、明治時代に教育というものを念頭に置いた時、今日教科書に載せたり、教育の一環として編纂されたものが多い。そんな時代に、庶民が偉くなるなどと言ったことを、子供に教えるというのもおかしな話だ。

 となると、せめて、

「金持ちになる」

 というくらいで話を治めるのが平和だったと言えるのではないだろうか?

 それ以外にも理由はあるのだろうが、ピンとくるのは、これくらいの発想であった。

 明治時代は、元々の封建制度を覆し、明治政府という、中央集権国家を形成していたので、それまでの江戸時代とは、かなり違った発想がある。

 江戸時代の政治体制は、

「幕藩制度」

 といって、今でいう都道府県のようなところには、藩主がいて、それらが大名として、君臨することで、各地を治めていたのだ。

 日本という国というよりも、それぞれの藩を藩主が治め、藩主が幕府に忠誠を誓うことで、自分たち藩が生き残っていた。

 そもそも、封建制度ができた時、つまり鎌倉幕府成立時には、各地に、守護、地頭を置いて、それぞれの地方を統治させたものだ。

 何かがあった時、いちいち鎌倉から軍を組織して出向いていくのでは、手間も時間もかかるからである。下手に鎌倉を留守にして、留守を他の地方から攻められれば、ひとたまりもないことになるかも知れない。

 室町幕府もそれを継承し、そのうちに、幕府の力が弱まると、各地の守護が強くなったり、守護に成り代わって、家老が主人を討ち取り、守護になったりして、いよいよ、

「群雄割拠の戦国時代」

 がやってくるわけである。

 そして、守護大名がそのまま戦国大名となったり、下克上によって成り上がったものが、戦国大名として君臨したものだった。約百年以上続く戦国時代、表に内に、敵がいて、まったく油断のできない時代だった。

 そういう意味でいけば、

「下克上などという自由なことができるのは、時代が不安定なだけで、天下が統一されれば、まず最初に、国家の体制づくりが大切だ」

 ということになるだろう。

 だから、君主になると、

「まずは、自分の体制が壊れないようにすること」

 が一番で、その次には、部下や家臣が、下克上のようなことができないような体制にしておくというのが大切だ。

 だから、天下統一の後、江戸幕府が成立し、初代の家康の時代から、二代目秀忠、三代目家光までの間に、どれだけんお大名が改易となったか。それを考えれば分かるというものだ。

 最初は、元々、豊臣に忠誠を誓っていたが、関ヶ原で自分の側についた大名を次々に改易としていった。

 考えてみれば、これも理不尽なもので、

 関ヶ原の戦いにおいて、石田三成憎しという大名が、家康についただけのことだった、

家康についた諸大名とすれば、本来であれば、

「俺が味方してやったから、戦に勝てたんだ」

 という自負を持ってよさそうなのに、いつの間にか、恩のある豊臣家を裏切らされて、豊臣家を窮地に陥らせたのが、自分たちではないかという後ろめたさもあったかも知れない。

 しかも、そんな気持ちを感じさせる前に、いわゆる元は豊臣家臣だった大名が外様大名として、遠隔に追いやられ、さらに、因縁を吹っかけられ、改易させられていったのを目の当たりにすると、諸大名で、幕府に逆らうものはいなくなってきた。

 加藤清正など、毒殺されたというウワサもあるくらいだ。

 しかも、当時の幕府、特に、二代目秀忠の時代になると、改易はひどくなり、家康の側近であった、本多正信の息子の、正純までも、改易させられたということで、一気に諸大名はビビッてしまった。

 さらに三代将軍家光は、弟の忠長を改易させて、最期には切腹させている。

 ただ、忠長に関しては、いろいろな悪いうわさもあり、しばらくは、兄として様子を見ていたというところもあったが、最終的には切腹させている。

 そして、家光の時代に、完全に幕府の体制は出来上がったといってもいい。

 そういう意味では、室町幕府の足利義満といい、三代目で、大体幕府の体制ができあがったといってもいいかも知れない。

 ただ、そこから急速に勢いが落ちてくるのも無理もないことなのかも知れない。室町幕府は、八代将軍までも実にひどかったが、八代将軍義政の時代に一気に破滅することになる。

 それまで、

「将軍をくじ引きで決める」

 などというとんでもない時代ではあったが、義政の時代になり、将軍継承問題に、母親の日野富子が口を挟んできたことで勃発した応仁の乱で、一気に京都は廃墟と化したではないか。

 それが直接的な影響ではなかったが、戦国時代の幕を開けたといっても、過言ではないだろう。

 戦国時代というと、応仁の乱のあたりからあったことであるが、

 守護大名が京都の戦争に巻き込まれたことで、所領を留守にしている間、大名の根拠地で反乱がおこったりして、京都で戦っているなどという場合ではなくなり、大名の多くが、自国に帰っていくということが起こり、結局戦争を継続できなくなったことで、応仁の乱は、決着がつかないまま、終結することになる、

 ただ、応仁の乱のきっかけになった、畠山家のお家騒動はまだ続いていて、その戦の後始末などもあり、一気に幕府の力は地に落ちた。

 一応、足利幕府というのは存続はしていたが、その力はまったくないに等しいというもので、各地にできた戦国大名を抑えることはできなかった、

 中には暗殺された将軍もいるくらいで、実に乱れた時代だった。

 鎌倉時代の初期もひどいもので、一種のバトルロイヤルであったが、あの時は、まだ封建制度が確立していない中での問題だったということで、しょうがないところもあったが、戦国時代に関しては、幕府の力の衰えと、

「今なら、謀反を起こして領主を倒せば、自分が大名になれる」

 ということで、次々に下克上が起こってきた。

 最初こそ、どの大名も、

「天下を統一」

 などと考えてはいなかっただろう。

 自国を守るということだけで精一杯。そのために、まわりの国と同盟を結んだり、政略結婚や、人質などを送るといった、

「戦国時代ならでは」

 というやり方が持たれたのだ。

 いつどこから攻められるか分からないということで、砦や城の建設ラッシュが起こった。

 城といっても、最初は山城が多く、

「天然の要害」

 と呼ばれるところい城を作ってそこで政務を見たりするというやり方が主流になってきた。

 だから最初の頃の城には、天守閣なるものもなく、濠もなければ、城下町なるものもなかったのである。

 そのうちに、城というものが、ただの軍事要塞だけではなく、君主の権力の象徴と言われるようになり、山城が次第に、平地に平城として作られるようになると、濠であったり、武家屋敷、さらには、城下町などというものが形成され、軍事都市が、商業都市を兼ねるようになった。

 それが、信長が提唱した、

「楽市楽座」

 というものであったのだ。

 信長の安土城、そして、秀吉の大阪城と、どちらも、軍事都市としても、要塞としても、交通の要衝としてもいいところに建てたといってもいいだろう、

 安土城は、琵琶湖のほとりということもあり、琵琶湖を横切れば、すぐに京都もいける、大阪城は、京都まで、淀川を上っていけばいけるというところであり、さらに、大阪城は、信長を苦しめた、石山本願寺跡に建設されたということで、かつての、信長に包囲されても、兵糧を運び込めたというところでの地の利も生きてのことではないだろうか?

 戦国時代というのは、一歩間違えれば、あっという間に命を落とす時代である。主君といえども、まわりの国は敵だらけ、さらに、部下からはいつ、下克上されるか分かったものではない。うちにも外にも敵だらけなのだ。

 それを思うと、自分だけでは生きていけないというのも戦国時代、いかに、軍師であったり、家臣団をうまく形成するかが生き残る道であった。信長が最強の家臣団を作り出し、戦国大名の名だたる人物には、必ず、

「軍師」

 と呼ばれる人がいたのである。

 そんな中で、

「秀吉には、竹中半兵衛、黒田官兵衛」。武田家に、山本勘助。上杉に直江兼続、伊達家に、片倉景綱」

 などと、そうそうたるメンバーがいたではないか。

 彼らが、主君を支え、参謀として君臨したから、戦国大名として、天下統一を狙えるほどの大名となれたといっても過言ではないだろう。

 そんな大名を押しのけて、もっとも、明智光秀の謀反というのも味方したといってもいいが、秀吉が天下を統一することに成功したのだ。

 秀吉は、いわゆる、

「人たらしだ」

 と言われている。

 天下を取ってからというもの、その力をいかんなく発揮し、政治においても、政治体制もキチンと整えて、豊臣政権を盤石にしている。

 そこは、やはり秀吉の人間性にも表れているのだろう。

 中には、非情なこともやってはいるが、それでも、家族を大事にし、自分の部下を大事にするやり方は、正直、現代の会社の社長の手本といってもいいのではないか、

 サラリーマンのアンケートなどで、

「理想の上司」

 というと、トップで家康の名前が挙がるが、これはひとえに、秀吉の晩年が悪政だったことからではないだろうか? 秀次事件、千利休切腹事件、さらには、朝鮮出兵など、まさに、

「常軌を逸した」

 ともいえることをしたからだ。

 だが、それまでの政治は、家康がマネをするくらいにキチンとできたものであって、それこそ、最期に待っていたことで転がり込んできたような天下取りとは、違うということだ。

 家康のすごいところは、天下を取った後に、源氏、秀吉など、3代と持っていないことを苦慮し、自分が生きている間に、徳川政権を盤石にしておくということと、

「元和堰武」

 という言葉が示すように、

「応仁の乱から続く、戦国の世を終わらせる」

 という大事業を行ったということでの、宣言である。

 一度は秀吉が行ったが、秀吉の不幸は、

「自分にとって大切な人がことごとく自分を残して他界していった」

 ということにあるだろう。

 秀吉の晩年の乱行も、一代で滅んでしまったということも、そのあたりに理由があったのだろう。

 しかし、少なくとも、秀吉の、

「人たらし」

 と言われる武器で、天下統一をなした天下人だということに変わりはないのだ。

 それだけ、秀吉は、きっと人間の第一印象を大切に感じたのではないだろうか?

 伊達政宗の一件もそうかも知れない。

 伊達政宗は、仙台の戦国大名で、

「生まれるのが、二十年早ければ、天下が取れたのに」

 という話も聞かれるくらいであるが、すでに、活躍をし始めた頃には、秀吉が天下を統一していたのだ。

 そして、

「惣無事令」

 と言われる、秀吉が定めた、

「大名間ので勝手な戦や、隣国に攻め入ったりしてはならあい」

 というお触れを破って、後北条氏が真田氏の領地沼田を占領したりしたことで、秀吉が、

「北条征伐」

 に乗り出した。

 すでに、四国、九州と平定していて、倒壊から西はすべてが統一されているところに、後北条氏が、いくら、難攻不落の小田原城に籠城したとしても、腰を据えて、包囲すれば、いくら小田原城といえども、いずれは兵糧が尽きるというもの、

 当然、北条方では、いろいろ会議が催されたが、意見が決まるわけもなく、毎日のように、

「小田原評定」

 と言われる、何も決まらない意味のない会議が繰り広げられていた。

 そうなると、裏切る人間が出てくるのも当たり前で、秀吉はそれを狙った。

 さらに、陣の横の山に、城を気づいてしまうと、さすがに、北条氏も、

「これまで」

 と観念し、降伏するに至った。

 その戦において、伊達政宗は、参陣に遅れたのだ。

 当時の東北は、治安が安定していなかったこともあって、いくら秀吉から参戦命令があったとしても、自分の領地が危ないのに、ノコノコ出ていくわけにもいかなかった。

 それでも何とかして、参陣に遅れてでも、小田原にやってきて、そこで秀吉との会見に臨むことになった。

 政宗は、その時、真っ白い着物を着て、会見に臨んだ。いわゆる、

「死に装束」

 である。

 秀吉は、その政宗の覚悟を見て、扇子を政宗の首にあてながら、

「あと一か月参陣が遅れたら、お前の首はなかったかも知れんな」

 といって、許されたという。

 秀吉は、そういう覚悟を持って参陣してきた人間が、基本的には好きなのだろう。

 それに、この会見において、政宗の軍師である、片倉景綱が、下準備をしていたかも知れない。

 秀吉という男は、自分がほしいと思った人間に対し、

「わしの配下になれば、いくらでも都合をつけてやる」

 といって、いろいろな軍師に声をかけている。

 例えば、

「上杉家の直江兼続」

「伊達家の片倉景綱」

 などがいい例であるが、ほとんどの家臣は、

「自分の主君は今の主君」

 といって断ったという。

 きっと秀吉は、

「自分の誘いを断るくらいだから、自分がほれ込んだんだ」

 と思ったことだろう。

 それだけに、

「ますますほしい」

 と感じたのも事実ではないかと感じるのだ。

 そんな景綱が、裏で手をまわしたことで、白装束の衣装が、うまくいったのだろう。そんな部下から慕われる政宗こそ、

「天下無双」

 というイメージを秀吉に見せつけたのかも知れない。

「戦国の伊達男」

 面目躍如というところであろう。

 そんな伊達政宗が秀吉に謁見し、許されたのは、確かに演出をうまくまとめた景綱の功績もあるだろうが、それ以上に、秀吉が実際に会った中で、

「この男なら」

 と感じさせるものがあったからに違いない。

 そのあたりは、人を見る目があるとでもいうのか、逆に、

「それだけの人間でなければ、天下取りなどできない」

 ともいえるだろう。

 そんな秀吉から認められた政宗も、十分に男気があったということだろう。実際伊達政宗というのは、主君として秀吉にも、その後は家康にも忠実に仕えている。

 先見の明があったというのも事実で、その後も伊達家を存続させたのだから、その功績は素晴らしいものだといってもいいだろう。

 そんな伊達政宗は、それだけ、

「人から信頼される人物だった」

 といってもいい。

 しかも、一瞬にして、相手にそのことを分からせたのだから、すごい人物だったのだろう。

 秀吉に謁見した際、下手をすれば、そこで手打ちにあっていたかも知れない。

 確かに、いきなり切り殺されるということはないかも知れないが、ちょっとした作法にミスでもあれば、それを理由に何があるか分からない。それを切り抜けたのは、演出と、その演出に勝るとも劣らない男気を相手見見せることができたからであろう。

 そんな危機を乗り越えたのは、それだけ政宗の第一印象が秀吉の心を打ったのではないだろうか?

 一番考えられるのは、その理由であり、この理由が信憑性という意味でも、一番大きいのではないかと思うのだった。

「人間は第一印象が大切だから」

 ということで、やたらと、初対面の人に対して、無礼のないようにということで、やれ身だしなみであったり、格好よく振る舞うことを強制する親がいたりするのが、今の世の中で、特に昭和の頃は、そんな親ばかりではなかっただろうか?

 いわゆる、

「親バカ」

 と言われる人たちで、自分の子供を、自分のステータスであるかのように利用しようと思っている親がどれほどいたか。

 ある意味、無理もない時代だったのかも知れない。

 戦前くらいまでは、許嫁などというものがあったりして、親が決めた結婚相手と結婚するのが当たり前の時代だったりした。

 さらに戦争中ともなると、出征するために、とりあえず結婚しておくというような、

「駆け込み結婚」

 とでもいえばいいのか、そんなものも目立ったであろう。

「オンナを知らずに、出征をするのは可愛そうだ」

 ということである。

 当時は、軍に入れば、基本的に、生きて帰ることを望んではいけないような風潮だった。

 特攻隊員の遺書の中には、

「立派な死に場所を得た」

 などと書かれた文章があったりする。

「立派な死に場所とは何なのか?」

 今の人間だったら、そう感じるに違いない。

 少なくとも、あの時代は、親よりも天皇陛下、家族よりも、国家という時代だったのだろう。

 大日本帝国という国家自体が、そういう国家だったのだ。

 敗戦後、急速な民主化によって、それまでとまったく違う考え方が、連合軍から強制的に教育された、民主国家になってからもしばらくは、いろいろな地下組織が、

「軍事国家復活」

 などと唱えて、日本の再軍備を真剣に進めようとしていた団体もあったという。

 しかし、当時の日本の混乱は、それどころではなかった。ハイパーインフレで、お金があったとしても、ものがない。お金が紙切れ同然の時代だった。

 街のほとんどは、空襲で焼け野原になっていて、住む家もなければ、その日の食べ物もないという状態の人が街に溢れていたという。

 大人は闇市をやったり、子供はかっぱらいでもしないと、生きていけない時代だったという。想像を絶する時代だったのだ。

 そこから、朝鮮戦争による、

「軍事特需」

 と呼ばれるものによって、次第に食料の供給も安定してきて、いわゆる戦後復興も軌道に乗ってくるようになると。時代は、好景気へと向かっていく。

 完全に独立を果たした日本は、戦後30年くらいの頃は、先進国の仲間入りするくらいにまでなっていた。貧富の激しさという、

「民主主義の膿」

 といってもいい状況ではあったが、大日本帝国のような自由のない国ではなく、本当の自由というものを、民主国家として、国民は手に入れたといってもいいだろう。

 恋愛も自由、結婚も自由。憲法で、定められた、

「基本的人権の保障」

 さらには、

「法の下の平等」

 というものが、大いに叫ばれていたのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る