第一印象と二重人格の末路
森本 晃次
第1話 限りなくゼロに近い
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年7月時点のものです。
なかなか人の顔を覚えられないという人は、世の中に結構いるのではないだろうか?
もちろん、火との顔が印象に残らずに覚えられない。あるいは、覚えていたのに、次に見た人の顔で記憶が上書きされてしまって、誰が誰だったのかと感じてしまうことで、覚えていないというよりも、意識が混乱することで覚えていないかのように感じる人も多いということである。
人の顔を覚えられない新藤吾郎は、自分がどうして覚えられないのかということを考えていたが、結局結論は出ず、もう、これ以上考えることをやめた。
ふと思い出して考えてしまうこともあるが、必要以上に思い悩んだりはしなかったのだった。
最初に自分が人の顔を覚えられないと感じたのは、小学四年生の頃だった。それまでは、
「これが普通なんだ」
ということで、意識もしなかった。
ただ、一つ気になっていることがあった。
それは、三年生の時、学校の遠足で、近くの公園で昼にお弁当を食べた時だった。
ちょうど、近所の小学校も同じように遠足に来ていて、ちょうど、その一クラスとバッティングした時のことだった。
一クラス分がバッティングしただけなので、
「ちょっと、多いかな?」
とは思ったが、それくらいのもので、必要以上に多いという意識はなかった。
ただ、それは子供の意識であって、先生はそんなことも言っていられないだろう。
絶えず、
「生徒に何かあったら大変だ」
という意識を持っているはずだ。
いくら教育の一環とはいえ、学校の外でだと、どうしても、目が行き届かなくなっても仕方がないことなので、監視する方も大変だ。
小学3年生くらいというと、一番騒がしいものだろう。実際に走り回っている子も多くいて、先生も気が気でないに違いない。
おかげで、吾郎少年は、じっとしているしかなかった。
まだその頃の自分がどういう性格なのかということを、自分でもよく分かっていなかった。賑やかな友達がそばにいると、自分も一緒になってはしゃいだりするが物静かな友達が近くにいると、やはり同じように静かになるのだった。
「自分にはまわりに合わせることしかできないのかな?」
と思っていたが、実際には、
「俺って目立ちたがり屋なのかも知れないな」
と感じることもあった、
この感覚は、
「ふとした時」
というものではなく、どちらかというと、定期的に感じる感覚であった。
ふとした時に感じる場合と、定期的に感じる場合、結果としては、同じくらいなのではないかと思うのだが、それは、
「自分の身体は一つなので、そう感じたことが真実でしかないのだ」
と思うしかなかった。
自分のことはあまりよく分からないくせに、状況分析は絶えずしているような気がした。どこか、ませたところがあるように思えた吾郎少年は、遠足の時は、まわりに賑やかな連中がいなかったことで、静かにしていたのだった。
お弁当を食べてから、少し時間があった。先生がそこで一時間という休憩時間を取ったので、食後は公園で遊んだり、ゆっくりする時間にあてられた。
別の学校の生徒も同じことのようで、皆それぞれにくつろいだり、遊びまわっていたのだった。
お弁当を食べた後、トイレに行ったのだが、そのトイレからの帰り、後姿が、友達に似ていたので、思わず声をかけてみようと思った。
遠足というと、集団行動なので、列を先生が決めて、その通り前を向いて歩くだけなので、親しい友達といえど、
「ずっと会わないまま」
ということが多いだろう。
その時もその友達とは、朝から一度も会っておらず、普通の学校の授業の時だったら、朝一番で毎日のように挨拶をしていたので、寂しさもあった。
ただ、遠足という、いわゆる校外授業では、そもそもの環境が違っているので、
「今日一日くらい、こんな日があっても、無理もないだろうな」
と思っていた。
しかし、昼の休憩時間というのは、自由時間も込みなので、その時間会おうと思えば会えたわけだ。
それを思うと、声をかけることも別に不自然ではない。見かけたのだから、むしろ声を掛けない方がおかしいのではないだろうか?
そんな風に考えて、そこまで考えると、そこから先は、思ったままの行動だった。
後ろを向いている友達の肩を、ポンポンと叩いた。
するとこちらを振り向いた顔が、まったく知らない人ではないか。クラスでは見たことのない顔であること。そもそも、こちらを向いている生徒の顔に見覚えがないことから、
「他の学校の生徒だ」
ということを分かっていて当たり前のことなのに、どこかで、その子が友達以外にない者でもないくらいに思えたに違いない。
それを思うと、
「どうして、声をかける前に、もう一度、冷静になれなかったんだ?」
と感じた。
しかし、冷静になれなかったのかと感じるということは、その時、自分は興奮していたということか? 実際に思い出すとそんなことはなかったはずだ。
「あ、あいつだ」
と思ったが早いか、すでに声をかけて、そいつが振り向いた時のリアクションも、頭の中に入っていたからだった。
だが、実際に声をかけてこちらを振り向いたその顔に、まったく見覚えがないということで、
「しまった」
と感じ、きっと表情は、にっちもさっちもいかない顔になったことだろう。
相手は、表情を変えない、もし、自分が相手の立場だったら、
「俺だったら、無表情だろうな」
となぜか、狼狽しているくせに、半分冷静になって、そんなことも感じることができるのだった。
そういう意味で、自分が感じたのと同じリアクションをした相手から救われた気がした。すぐに、
「ああ、ごめん、友達だと思って声をかけてしまった、本当にごめんなさい」
と、普通の対応ができたのだ。
普段の吾郎少年だったら、何も言えず、固まってしまっていたかも知れない。
それを分かっていて、何も言えなくなった今までと違い、
「少し大人になったかな?」
と思えたのだが、そのことを思うと、相手の顔を見た瞬間、明らかに狼狽し、歯ぎしりにも近い狼狽が襲ってきていたことを、忘れてしまうほどだった。
だが、その時の思いが、トラウマになっていたことを、気付いたのはいつだっただろう。
そんなことがあってから、人に声を掛けられなくなった。
これが一種のトラウマであり、声をかけることが実際にできなくなったのが、その時だったということを思い出したことで、
「何も言えない時の俺って、きっとこの時のトラウマなんだろうな」
とすべてのことを、この時の自分にだけ押し付けるというのは、自分でもおかしな気がした。
ただ、間違えたのは自分だし、ただ、それでも、一人に押し付けるというやり方は、その場しのぎという意味ではいいのかも知れないが、実際に、後から考えたりした時に、意識の中で辻褄が合っていないことで、
「これがトラウマということか?」
と、自分に納得させる感覚だったのだ。
もちろん、子供なので、トラウマなどという言葉を知らない。言葉は知っていたとしても、その意味は測りかねる。そう思うと、
「これも人の顔を覚えられない理由の一つなんだろうな」
と、あくまでも、理由の一つでしかないのだ。
そう思っていると、自分が人の顔を覚えられない理由が、一つではないことに気づく。
本当に覚えられないという場合である。
「すぐに忘れてしまう」
あるいは、
「次に見た人の意識と混乱し、頭の中で上書きされてしまう」
という考えに、さらに、
「あの時の意識がトラウマとなって、人の顔を覚えられないという感覚が残ってしまって、覚えられないと思い込んでしまっている」
という理由お3つが大きな理由だと思うのだった。
学校に行くと、いつものように知った顔が並んでいる。こういう時は、自分が人の顔を覚えられないなどとは思えないと感じるのだ、
しかし、それから時々見る夢で、普通に学校にいくところまでは、それが夢だとは思えないほどの自然なことなのに、いざ皆がこっちを見たその時の顔が、全員のっぺらぼうだったり、あるいは、誰か一人の顔だったりするのだ。
その時の、
「知らないその顔」
は、知らないわけではなく、すぐにそれが誰なのか分からないというだけで、冷静に考えると、それが誰だか分かる。
それだけに、分かった瞬間、恐怖に襲われる。その顔はなんと、自分の顔だったのではないだろうか?
「俺の顔?」
と思った瞬間に、恐ろしさで何も言えなくなる。
そのまま、呼吸困難に陥って、今にも意識を失いそうになったその時、目が覚めるのだった。
「ああ、夢だったんだ」
と思うと、最期の瞬間以外、思い出せなくなっていた。
それなのに、どうして、そこまでの意識が冷静に語れるのかが分からないが、
「意識として残っているわけではなく、記憶が消えていないだけではないのだろうか?」
と感じたのだ。
ただ、一つ気になるのが、
「記憶が消えているのか?」
それとも、
「記憶が飛んでいるのか?」
ということの違いではないかと思うところであった。
記憶が消えていりのであれば、再生不可能ということであり、思い出すことがないと言えるが、飛んでいるのであれば、戻ってくる可能性もあるということだ。
どうやら、吾郎少年の場合は、
「記憶が消えているのではなく、飛んでいるだけではないか?」
と思ったことで、そうなると、人の顔を覚えられないのは、前者の二つが直接の原因ではなく、トラウマの方が決定的な原因ではないかと感じるようになった。
声をかけるのが怖いことで、
「覚えていないんだ」
ということを、その理由にしようとしたことで、逆に、覚えているかも知れない記憶の中で、覚えていないと感じようとする意識があるので、覚えていないと言ってしまう。
しかし、そう思うからこそ、強く人の顔を忘れてしまうということがあるのではないだろうか?
「トラウマというのは、時として、意識を調節することで、記憶をも抹消してしまうような力があるのではないか?」
と考えるようになった。
記憶というものが、一体どのようなメカニズムになっているのか分からない。たぶんであるが、
「意識が過去形になったことで、記憶として格納されるのではないだろうか?」
と感じたのだが、その考えが間違っているとは思えなくなったのは、
「記憶が飛んだことを、消えたとまで思えるトラウマを感じたからではないだろうか?」
と、感じたからだろう。
そんなことを考えていると、人の顔を覚えられないことと、トラウマの関係を、もっと調べてみたいとも思うようになっていた。
「意識と記憶」
というものを考えた時、
「意識が先にあって、それが記憶になる」
というのが、当然の流れだと思っているが、
「ひょっとすると、逆もあるのでは?」
という変わった考えが頭に浮かんでくるような気がした。
「記憶が先にある」
ということだが、そこには、
「循環」
という感覚と結びついているように思えて、その循環こそが、生態系と呼ばれるものと結びついているような気がする。
「弱肉強食」
であったり、
「食べるものと食べられるものの、バランス」
もうまく行っていないと、どちらかが異常に残りすぎると、その動物だけではなく、他の動物にも影響してくる。
それこそ、一つの種が異常発生すると、食物になる生物に限りがあるわけなので、異常発生した方は、飢え死にということもありえる。食物になる方は、絶滅の危機もあるわけで、そうなると、生態系全体のバランスが崩れてくる。
要するに、全体的なバランスが問題とあるわけで、それは、循環するものすべてに言えることだ。
意識と記憶も循環と関係がある」
と考えると、意識と記憶のバランスは保たれなければいけないこととなる。
少なくとも隣り合わせにある関係なので、それは当然のことだ。
ただ、それは、一人の人間の中においてだけであろうが?
自分の意識と、他人の記憶がリンクしていないとも限らない。普段から一緒にいる人や、家族などの近親者だったりすると、当然そういうこともありえるはずである。
それを考えた時、
「夢」
というのを考えてしまう。
普通夢というと、
「自分の夢に他人が入り込んでくることはない」
と思われがちだが、本当にそうだろうか?
お互いに夢を見ていて、そこにその人が飛び込んでこないとも限らない。
それでは、なぜ人の夢だとは思わないのかというと、
「夢では必ず自分が主役だ」
と思うからである。4
つまり、夢を共有するということは、主役が一人だとすれば、入り込んできた人は、その夢をどういう意識で見ているというのだろう?
二人とも、それを夢だと思うには、どちらも、
「この夢では自分が主役だ」
と思う必要がある。
同じ夢を見ていて、どちらもが主役だと思っているということは、夢を見ている自分がいて、実際に主人公を演じている自分を見ている感覚になるしかないのではないだろうか。
そう思うと、
「待てよ。そういえば、夢の中で、夢を見ている自分と主人公の自分という意識を持ったことがあったような気がしたな」
というのを感じたことがあった。
そう思うと、
「夢の共有というのも、あながち無理な発想でもないというのか?」
と考えることができる。
夢というのは、
「目が覚める寸前の数秒で見るものだ」
というような話を聞いたことがあった。
目が覚めるにしたがって、ほとんどの夢が曖昧になっていき、その中で覚えている夢はあまりない。下手をすれば、夢自体が時系列がないものという意識があるので、実は、
「夢という記憶の中が、意識と結びつくことで、夢と現実が交錯し、結局、何が夢なのか、さっぱりわからなくなってしまうのではないだろうか?」
と考えさせられるのだ。
だから、逆に記憶が曖昧なのは、それだけ、
「夢の共有」
という意識が、現実味を帯びて感じられるようになっていると、言えるのではないだろうか?
夢の共有というと、どうしても、異次元のような感覚になったりする。
そして異次元ということを発想すると、
「パラレルワールド」
であったり、
「マルチバース理論」
であったり、タイムトラベルでよく言われる、
「タイムパラドックス」
などというものが浮かんでくるのである。
パラレルワールドというものを、実は昔勘違いしていたのではないかと思うようになっていた。
タイムマシンの発想と、パラレルワールドを一緒に考えてしまうことで、勘違いが起こるのかも知れないが、タイムマシンでよく言われることとして、
「次の瞬間には、無限の世界が広がっている」
という言葉であるが、実はこの言葉、
「可能性」
というのが抜けているのだ。
つまり、
「次の瞬間には、無限の可能性を持った世界が広がっている」
ということになる。
要するに、次の瞬間には、無限の可能性。さらに、その次の瞬間には、無限のまた無限の可能性が広がっていると言えるだろう。
では、一つ気になるのは、この場合の、
「瞬間」
というのは、どこを捉えても瞬間なのか? ということである。
つまり、次の瞬間が、十分の一秒なのか、それとも、一秒なのかというだけで広がり方も違ってくる。
「そもそも、瞬間という言葉の定義はどこにあるというのか?」
理論的に考えると、あくまでも数字はたとえであるが、
「100万の可能性が考えられる時を、一瞬だとする」
として、一瞬というものを瞬間の単位とすると、数字を当てはめた時点で、無限ではなくなる。
ということは、無限でなくならなければ、瞬間という定義がないのだとすれば、そもそもパラレルワールドだと思っていた世界の信憑性はなく、矛盾によってつくられたものだと言えるだろう。
そうなると、まず、無限というものを定義付けなければ説明できないということになり、問題は一切解決しないことになるだろう。
無限というのを、数学的にどう定義すればいいのだろう?
一つ考えられることとして、
「無限からは、何で割っても無限でしかない」
ということだ。
裏返しでいえば、
「無限には何を掛けても無限である」
ということだ。
ということは、元々の数の無限と、答えとして出てきた無限というのは、別物であり、無限というのは、その言葉通り、
「無限に存在しているものだ」
といえる。
それだけに、無限というものほど捉えどころのないものはない。
「ゼロに限りなく近い無限」
というのもあるだろう。
無限にランクをつければ、ゼロに一番近いものが、
「ゼロに限りなく近い無限だ」
といえるのだ、
しかし、
「ゼロに限りなく近い数字」
というのは、別の意味で存在する。
このゼロに限りなく近い数字という概念は、
「合わせ鏡」
あるいは、
「マトリョーシカ人形」
の発想と同じで、
「どんどん小さくなっていくものが、最期には絶対にゼロにはならず、どんなに小さくなっても、そこは、限りなくゼロに近いものだ」
という考えであった。
合わせ鏡というのは、
「自分が真ん中にいて、その左右、あるいは、前後に鏡を置いた時、どのように写るのか?」
というところが問題な場合である。
ここから先は理論的な考えで、実際に見えるかどうかということは、難しい発想になるのだが……。
左の鏡を見た時、自分の姿が、まず映し出されている。その後ろには右の鏡があって、その鏡にはまた、自分の姿が写っていて、その先には、左側の鏡が……。
というように、合わせ鏡は、どんどん小さくなる自分の姿を映し出していくもので、一見、無限に続いているように見える。
だが、ここで、
「じゃあ、どこまで続くのか?」
ということになると、一つの答えとして、
「見えるところまで」
ということになる。
しかし、これはあくまでも、一つの答えでしかなく、実際には、
「答えがない」
といってもいいかも知れない。
そうなると、結果として、答えは、
「無限」
という、曖昧な答えになりかねないのではないかと思うのだ。
そういう意味で、
「無限という言葉は、ある意味、いい加減であるが、都合のいい言葉だ」
といえるかも知れない。
発想としては、
「マトリョーシカ人形」
にも言えるのではないだろうか?
マトリョーシカ人形というと、ロシアの民芸品の一つで、
「人形が、前後に開く蓋になっていて、そこを開けると、中にまた違う顔をした人形が出てくる。さらに、その蓋を開けると、また別の種類の人形が出てくる」
というものである。
人形が、どんどん小さくなっていくという発想から、マトリョーシカ人形も、ある意味、
「無限だ」
といってもいいのではないだろうか?
これは、多きなものから、どんどん小さくなっていくものの発想であるが、今度は逆の発想で、
「限りなくゼロに近いものが増えてくると、どんどん大きさを感じるようになる」
というものである。
この発想で難しいのは、
「最初に限りなくゼロに近いものをいかに創造するか?」
ということであるが、幸いにも、身近なもので、そのたとえに合致するものがあるではないか。
それが、紙という発想である。
一枚の紙は、実に薄っぺらく、その厚さは、
「限りなくゼロに近い」
といっていいものだ。
つまり、一枚の紙は、まったく厚さを持っておらず、数枚を重ねたくらいでは、厚みらしきものを感じることがなくとも、これが100枚になったり、300枚くらいになると、一冊の本ができあがるくらいに厚くなるではないか。
最初の数枚では、少なくとも、
「厚さなど感じることはない」
と思うのだが、実際にどこかから、厚みを徐々に感じられ、1冊の本になるくらいの厚みを持つと、急にそこから、現実味を帯びるようになってくる。
つまり、逆である、
「合わせ鏡」
であったり、
「マトリョーシカ人形」
というのも、どこかある瞬間から、大きさを認識できなくなり、そこから先は無限の世界が広がることになる。
そもそも、終点がどこになるのかが分からないのだから、無限の定義などできるはずもない。
それだけ無限という発想は、
「その先にあるもの、実際のものと、時間軸とで成り立っているものであり、無限の終点などという概念は、最初から存在していないのではないだろうか?」
といえるのではないだろうか?
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