夜を待つ―『思念』

燕子花様

夜を待つ―『思念』

  夜を待つ――『思念』


 作:燕子花様

 原:璃志葉孤槍 様


 まえがき


 初めまして。燕子花様と申します。

この度は璃志葉孤槍様の短編小説『夜を待つ』のアフターストーリーの執筆をさせていただきました。原作のほうを未読の方は、必ずそちらからご覧ください。また原作設定を忠実に守ったつもりですが、あくまで原作者と私は別人であることを念頭に入れて読んでいただければ幸いです。なおこちらの小説における誹謗中傷等は絶対に原作者様の目につくところではしないでいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。



 *



 拝啓


 親愛なる滝沢加奈様へ。


 お元気ですか、お姉ちゃん。

私は既に体には何の痛みも走らず、まるで空の上の雲に乗ってでもいるかのような、たいへん晴れやかな気分です。お姉ちゃんはどうですか。元気に生活していることを心から願っています。

 さて、このたび私は、お姉ちゃんにとあるご報告があって、このお手紙を書くことに決めました。


 私、滝沢紗江は、これより自殺いたします。


 こうしてお手紙に筆を走らせている今も、縊りで死のうか、服毒で死のうか、はたまた投身や入水なんかもいいなと考えております。ですから、お姉ちゃんの元にこのお手紙が届いたとき、あるいはお手紙の封蝋を千切ったときには、既に私は死体となって、あわよくば土の中で眠っていることでしょう。私、その瞬間が楽しみで楽しみで、今にでも握っているペンを放り投げてしまいそうです。

 なぜこんなことをするのか、はなはだ疑義を呈してらっしゃることでしょうから、聊かにではありますが、その理由を書き綴らせていただきます。


 すべては私の愛したとある一人の男の人のためなのです。そのお相手がお姉ちゃんでないことは、たいへん申し訳なく思っております。されど私の衷心は、彼一人の色にむらなく染まっておるのです。


 だから死ぬのです。私がこの世に居座っては、あまりに彼の人が可哀想でならないのです。生きてしまっては、私の愛した彼は死に、私の愛せない彼が生まれてしまうのです。


 ここで私、彼の名前を書くのをうっかり忘れていたことに気が付きました。直そうともボールペンで書いてしまって修正もかないませんゆえ、今ここに書きます。



 彼の名は、真咲様と云います。



 お姉ちゃんは彼のことを耳にしたことがないでしょうから、名を出すのもこれを伝えるのもただの私の最期のワガママでしかないのですが、それでも彼の名をここに記したくて堪らないのです。


 話がずれてしまいました。

兎にも角にも、私は彼のためにこれまでを生き、彼のためにこれからを死にます。ただそれだけなのです。でも、お姉ちゃんはこんな端くれごときの説明で妹である私の死を受け入れてくれるはずがないでしょう。ゆえに私はこのお手紙を書くのです。


 このお手紙で、私はお姉ちゃんに私が真咲様のために死ぬ所以を書きます。きっとたいへんな長さになると存じますが、どうぞ私の墓か仏壇の傍らに備えて遣ってください。




 私が心臓病を患っていたことは、お義母様からお姉ちゃんにも伝わっていたことでしょう。終ぞ見舞いに来てくれなかったのは些か寂しかったですが、私はそれ以上に、死の訪れが怖かったのです。毎日イヤな薬品の香りと点滴台に囲まれて、ベッドに寝転ぶのが苦痛だったのでは、全然ありません。一昨年の初夏にお医者様に告げられた寿命が刻一刻と迫る、その秒針の音が、悪魔の囁きのように聞こえてしまったのです。我慢ならなかった私は、夜直鳴り続ける時計がまことに厄介に感じまして、思わず叩き落としてしまったこともありました。

 お義母様はほぼ毎日懸命に見舞いに来てくれました。彼女も会社でお忙しいと聞きましたのに、それはもう毎日のことでして、私、一度わけを聞いてみたのです。どうしてそこまで私を気にかけてくれるのか、そう聞きますと、たいそう驚いたような顔をして、家族だから、と一言返すのです。病室に閉じこもっていた二年の間で、四、五回程聞きましたが、いずれも同じように、家族だから、と云うばかりでした。


 入院を初めてから二度目の夏が訪れまして、そのときくらいからヘンな感じがしたのです。乳房の間の辺りでしょうか、丁度心臓が全身に血管を張れるような場所が、時折猛烈に痛み出したのです。短刀で一突きされたような冷たさが走りまして、どうしようもなくて、病室を駆けずり回ったのを覚えています。なんとも滑稽な姿でしたが、当時の私は痛みにもがくのに必死だったのです。


 かの病状はお医者様までも頭を抱えさせました。なんでもこの世で誰も見たことがないような奇病のようで、どんな大きな病院でも治療の目途すら立てられなさそうだと云うのです。お義母様も私の隣でそのお話を聞いていたことですから、まるで鳩が豆鉄砲を食ったように吃驚されておりました。でも私、そのときはなんだか嬉しかったのです。なぜって、誰も見たことがないものに、私が成れたのですから。世界中のお医者様たちが揃いも揃って口をあんぐりとさせ、私の奇病を解明しようと奮起しているということを感じるだけで、私、スターになれたみたいな気分でした。


 そんなスター気取りな私でしたけれども、幾許か月の経った晩秋の明くる日、俄然としてその痛みがなくなったではありませんか。どうしよう、私、元気になっちゃった。羽目を外してはしゃぎながらお医者様にそう云うと、なぜだか彼はとても暗い表情をしておられるのです。どうしましたの、と聞くと、滝沢さんの心臓から生えた神経が途切れて、もう痛みを感じなくなったんだよ、と云われました。私はその場で思いきり仰天してしまいまして、先生、先生、私は大丈夫なの、そう問い質しました。ここにきていきなり私自身の病を理解したのです。漸次ぬくぬくと育っていた「死にたくない」という感情の温度が、一気に高まっていきました。顔をひっかくみたいに覆い、泣き咽いでしまいましたが、不思議と顔にひっかいた痛みは感じませんでした。気付けば手を握ったり肘をぶつけたりしても、そのことにさえ気付かないようになってしまいました。無理に体を動かして知らない間に大怪我でもしたら大変だからと、お医者様もお義母様もそう云っておられましたので、私は終日寝たきりになりまして、病室生活はなおのこと退屈なものになりました。

 その頃からでしょうか。私は私の命の無価値さに思い耽るようになりました。ただでさえ頭も悪く思い遣りを欠いた私なんぞが生きていても、ただの医療費泥棒となって緩やかに死んでいくだけではないのか。そう思うようになったのです。強ち間違いではないでしょう。ですから私、どうせなら寿命の前に死んで遣ろう、そうまで思っておりました。


 希死念慮じみたものを抱えて、結局ナイフの一つさえ握れず、のうのうと生きておりますと、いつの間にか冬を見送って、空蝉はまたも夏になろうとしておりました。


 そんなときでした。確かそれは、月のか弱い光だけが一筋になってベッドを照らす、黒洞々たる夜のことだったと思います。私の病室に、お義母様でもお医者様でもない来客があったのです。何度も言いますが、頭の悪い私には友人の一人もおらず、お義母様を除いて誰かが見舞いに来たのはそれが初めてのことでした。彼は病室の扉を開けるなり、無様な私の横たわるベッドの端に手をかけ、こう挨拶されました。

「初めまして、僕はマサキ。君は……確か、サエちゃんと云ったね」

彼の見てくれはあまりに普通で、本当に、ただ少し背の低い、大人の人だと感じました。でも話し方や語調がたいへん丁寧なものでしたから、私は息を呑んで頬を赤くしました。彼は言葉を続けるのかと思いきや、私の目をじっと見ておりました。きっと私にも自己紹介をしてほしいのだろうと思い、云いました。

「はい……私は紗江です。マサキさん……? どのようなご用件で……?」

今思えば、初対面の見舞い先方に真っ先に用件を聞き出すのは失礼かとも思います。ですが彼は嫌な顔一つせずこう言ったのです。

「いきなりでごめんね。僕は君にあることをお願いしたくて来たんだ」

「お願いとは……?」

またもフランクリに聞いてしまったことを今も後悔しています。彼はそんな私の態度を気に掛けず、もったいぶるように咳払い一つ挟んだ後にこう云いました。


「キミの願いを叶えてあげたいんだ」

 びっくりとしました。こんな人間に、天使のような囁きを投げかける人がいたのかと。気を緩めれば一言一句違わずそう言ってしまいそうなほどでした。その言葉をぐっと堪えた私は代わりに湧き上がる疑問を彼に尋ねました。

「どうして私なぞに? そもそも貴方はどなたですの。なぜ突然他人の私に、そんなことを言いだしますの」

焦り焦る感情に任せてお声を上げた直後、私ははっとして口元を押さえてしまいました。ただでさえ見舞いに来て下さるような親切なお方、その上私のあれども無きが如き願いなぞを慮ってくださっているというのに、私はどんな無礼を働いたのだろう。そう思わざるを得なかったのです。

 でも、彼は目をてりと見開くだけで、私を叱りつけはしませんでした。それが他人行儀の最低限なる作法なのか、常識の足らぬ私には図り知れませんでしたが、その温度に満ち満ちた表情の何と友誼的だったことか。胸を打たれたような思いでした。

 彼は「驚かしてしまってごめんね」と前置き、続けざまに云いました。

「君の病気について、お医者さんから話を聞いたよ。心臓の病気なんだってね。今まで頑張ってきたことだろう」

私の無礼はまるでなかったように、彼の口から飛び出たのは労いの言葉でした。これほどまでに簡単な語彙の羅列だと云うのに、そこにはそこはかとなく、筆舌に尽くしがたい何かが孕まれていたように感じました。またも彼は云います。

「余計なお世話かもしれない、それは僕もよく分かっている。でもね、僕はそれでもキミの願いを叶えたい。それはキミにとって迷惑かい?」

淡々と告げた彼の口元は、こころもち口角が上がっておりまして、なんとも言えない丸さがありました。そこで私、きっと彼に勘違いをさせてはならないと思ったのでしょう。咄嗟に口を衝いて言葉が出ておりました。

「そんなことは。滅相もございません」

それを聞くな否や、彼はさらに表情を柔らかくしました。その柔和さとなれば、まるで世界平和を齎す光の筋のように見えまして。知らず知らずのうちに、私は釣られて笑顔になっておりました。

「それはよかった。じゃあ、紗江ちゃん」

ひとたびそう云うと、彼は少しばかり深刻そうな面持ちになって仕切りなおしたかのように云いました。


「キミの願いは何かな」


「私は……」

あのとき、正直な本音を云えていれば、どれほどよかったでしょうか。ここで包み隠さず打ち明けられていれば、どれほど心が軽くなったことでしょうか。今となっては風前の灯火のように儚い理想ですが、私が今過去の私の体に憑けるなら、本当のことを云っていたでしょう。ですが私には、全くもって勇気がなかったのです。何と残念で悔恨に溢れたことでしょう。当の私は、あのとき、こう云ったのです。


「……まだ、決めておりません。マサキ様と共に決めさせてほしいのです」

 実に阿呆のような解答でしょう。実に、私は内心で(あなたに殺してほしい)などと思っておったのですから。死を望んでいる愚かしい人間だということを、優しさで横溢した彼にだけは悟られなくなかったのです。嗤われて当然でしょう。もしかしたら、彼も既にあのとき気付いていたかもしれない。けれど彼は、まさしく驚き、そして、にこり笑いました。

「そうかい。分かった。明日もここへ来てもいいかな」

彼の問いかけに私は間髪入れず返しました。

「もちろんですわ」

 ベッドの柵にかけた手に乗せていた重心を彼の体に移動させると、彼はまたも微笑んで、「では」という一言と共に鉄扉から去って行かれました。一人取り残された私は、まだ胸のざわつきが収まらないでおりました。とりわけ容姿の目立つお方ではないのにも関わらず、私はどこか彼の顔の操り方に心まで動かされてしまっていたのです。そんな自分に、びっくりとしました。


 それから夏色が茶に色づくまで、彼は週に三、四回ほどの間隔で、私の眠る病室に来られました。丁度お義母様が流行り病で体調を崩されて、話し相手が彼の他に誰もおりませんでしたもので、彼とは沢山のお話を交わしました。

 私が赤貧洗うが如き家に産み落とされた話をすれば、姿勢を低くして頷きながら同情をくださいましたし、私が隣家に盗みを働いたときの話をすれば、笑い飛ばしながら耳を立ててくださいました。思わず話過ぎてしまったことを謝ると、お気になさらず、とだけ云って、今度は彼の話をしてくださるのです。

 彼のお話は、またそれはたいそう不思議なものでございました。なんでも夜になると魔法が使えるとか、私の命が心配で未来から来てしまったとか。ええ、とてもおかしいですね。今はまだ一九五五年ですのに、彼はなんと二〇二三年から来たなんて云い出すのです。未来の日本は相変わらぬ不景気に見舞われているなど、それはまた現実味のあることばかり仰ります。変わった人だと思うでしょう。でも、私はなぜかそのことがストンと心に入ってきました。なぜって、彼が来てから私の周りががらりと変わったからです。見たこともないくらい瀟洒な花瓶にお花が一つ添えられていたり、窓の隙間からびゅうびゅう吹き抜ける秋風が途端に止んだと思ったら、窓の硝子が隙間なく埋められていたり。何より摩訶不思議でしたのは、私の病状の急な改善でございます。彼が私の手に触れたとき、久しぶりに温度を感じたのです。なんとまあ、長く忘れていた感覚だったでしょうか。一人で歩けるようになるまで健康状態がよろしくなった私の姿を見て、お医者様はもちろん、彼はもっとお喜びでした。でもそれが、彼による人智を超えた所業であると、またそれすべての出来事が夜であったことに気付くのに、今までのたいへんな時間を要しました。

 彼は本当の魔法使いだったのでしょうか。いずれにせよ、私にとっては彼がどんな凡才人であろうと、彼は魔法使いなのですが。


 さて、そろそろ寒くなってきた頃でしょうか。彼は一昨日と同じように、私のベッドに手を掛けました。今日は彼からどんな法螺話が飛び出すのでしょう、そう思っていると、唐突に彼から新たな話が切り出されたのです。


「……そろそろ決まったかい、キミの願いは」

あのときと同じ、深刻そうな表情で仰ったことを、鮮明に覚えております。私はもじもじとしながら答えました。


「私は。私は真咲様と共に生きてゆきたいです」

 それは大きな決断でありました。元来彼がここを訪れるまで、私はゆるゆると露に消えることしか考えておりませんでした。ほんの出来心による告白だったのです。希死念慮を抱いていた私は彼との出会いを経て、まるで神の手の介入でもあったのかと言わんばかりの不自然なさまで、彼と共に生きてゆきたいという願望を芽生えさせてしまったのです。

 案の定、彼はどきりと困ったような顔で私を見つめました。そうなるだろうと覚悟はなしておりましたが、どうしてもその顔が辛くて、私は目を背けてしまいました。

 どのようにして、流れた沈黙の責任を取ろうか、そう考える隙を与えず、真咲様は云いました。


「そうだなあ。少し昔話をしようか。キミにとっては未来の話になるんだろうけれど」

 彼は腕を組んで語り出しました。

「僕は昔から平凡で何の特技もない、ただの中途半端の成れの果てだった。だけどね、あるとき、一人の同級生に出会ったんだ。僕と同じで何の変哲もない少女、そう思っていた。そう、違ったのさ。彼女は魔法使いだったんだ。夜になったときだけに魔法が使える、たったの数時間だけの魔法使い。そんな彼女に、僕は惹かれていった。だけどそんなある日、僕は死にそうになった。雪が目いっぱい降る、今日みたいな日だったかな。車に轢かれそうになって、嘘偽りのない死を覚悟したんだ。そうしていつの間にか瞑っていた目を開けると、僕は生きていて、代わりに彼女が車の下敷きになっていた。僕は必死で叫んださ。でも無駄だった。そのときは白昼の中だったんだ。僕を庇って、もう助からないと分かっていた彼女はね、今際の際でこう言ったんだ。『自分の命と引き換えに誰かの命を助けることが、魔法使いの使命だ』と。そうして僕は彼女の遺志を継がざるを得なくなり、今に至る。分かるかい? 次は、キミの番なんだよ」


 私は、何と返すのが正解なのか、いくら考えても分かりませんでした。ただ一つ理解できたことは、それが得も言われぬ哀しい話だということだけでした。私には関係のない話のように思えるそれは、いつの間にやら私の頬に涙を伝わせておりました。


「紗江ちゃん。いいかい。僕が持っているのは、所詮彼女に貰った命で、所詮キミのために果たされるべき命だ。僕が生きている限り、キミは大人にはなれない。僕の命で、キミは大人になれる」


 私はあまりの理不尽さに小鼻をつまんで首を振りました。

「おかしいです。なんでも、それは」

 真下を見下ろせば、そこには私の瞳から落ちた暗涙の汁がシーツに染みを作っているとこでありました。彼の言っていることは何の合理性もありはしません。誰とも知らぬ少女から借りた命だからと云って、それを誰のために使うかなど彼の自由なのです。それをさもさも責務のように語る彼に一抹の疑念と物哀しさを感じてしまいました。

「私、まだ何も知りませんの。真咲様が何者でありますのか、なぜ私のために命を削ろうとされるのか。いくら聞いても貴方様は答えてくれませんでした。どうしてですの。真咲様」

 声を枯らしてそう叫びましたが、私の言葉は彼の耳には微塵も入っていないようでした。すんすんと啜り泣いたことも、きっとこの数年で幾度となくあったと思いますが、そんな私の姿を見て宥めすかさないことなど唯の一度もありませんでした。それがあの日、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるばかりで、私の言い分を聞こうとはなさらなかったのです。


「紗江ちゃん。きっと僕にはキミに謝らないといけないことがある。僕はずっとキミの願いを聞くためだけに、ここに通っていたんだ。ごめん。キミのためじゃない。僕が僕に魔法をくれた人から言いつけられた使命を果たしたい、ただそれだけのエゴを満たすためだったんだ」


 彼の謝辞の何と優秀に沈んでいたことか。私は彼の云うことを聞いて、どれほど大きな泣き声を上げたのでしょう。人の心を愚弄されたような気分でした。お医者様から大きな感情の起伏は病状の悪化に直結するからと、大笑いしたり大泣きしたりは控えるよう云われていたこともすっかりと忘れて、私の衷心はぐちゃぐちゃに掻き乱されました。


 それより何分経ったでしょうか。ゆっくりと涙が枯れてしまったくらいで、真咲様はこう云いました。


「本当に申し訳ない。許してくれとは言わない。けれどね」

言葉の切っ先を途切れさせ、彼はそっと私の頬に触れました。痛いくらいに温かかったです。

「キミには泣いてほしくないんだ。紗江ちゃん。いいかい、キミの命はもう長くない。僕はそれをよく知っている。僕に命をくれた彼女も、キミと同じ心臓の病を患っていたからね。それでも彼女は懸命に、大人になることを望んでいた。そして彼女も今のキミと同じように、魔法使いの男性から願いを叶えると言われたらしい。それを今に至るまで繰り返し、最終的にこの魔法の力は回り回って僕まで行き着いた。この輪廻を、僕の一存で止めるわけにはいかない。紗江ちゃん。次はキミの番だ、というのは、そういう意味なんだよ。そのために僕は過去にまで戻ってきたんだから」


私は堪えきれず、とうとう口から言葉が出てしまいました。

「じゃあ、私が大人になることを願えば、真咲様はどうなってしまうのです」

その返答が彼には痛いくらい解っていたのだとすると、私は猛省すべきかもしれません。ですが私は、彼から真実を聞きたくて我慢などできなかったのです。彼は云いました。

「……きっと、死んでしまうだろうね」

「なぜ。なぜそれでも私なぞの願いを」

「なぜって、それは簡単なことだよ。彼女は人から貰った命を、大人になりたいと言って受け取った。僕は大人に何て興味なかったのに、そんな僕ですら彼女から命を受け取ってしまった。おかげで彼女は大人になることもなく死んでしまった。世の中にはもっと大人になれなかった人がいたというのに」

「それは私ただ一人を生かす理由にはなりません」

「分かっているとも。でも僕はキミを生かしたい」

「身勝手ではございませんか」

「何と言われても仕方ないのも知っている。けれどキミは、僕と共に生きたいと言っていたじゃないか。自分のことなんてどうでも良いと思っていた頃のキミではなくなったじゃないか」


 私は血気盛んに押し寄せる波の如く話しておりましたが、ついに返す言葉を失ってしまいました。彼は本当に、ただ純粋に、私に生きてほしいと思っていた、それだけだと分かったからです。とは云えど、かのときの私の心の景色はあたかも荒れ果てた荒野のようでございましたから、気持ちの整理などとんと付いておりませんでした。ですから私、こう云ったのです。

「真咲様の仰ることはよく分かりました。真咲様と共に大人になるという選択肢は、もうないのですね」

彼はびっくりするくらい穏やかに頷きました。私は一息吐きまして、云いました。

「では、明後日まで待ってくださいまし。それまでで、私は生きるということだけを願い、真咲様との別れへ心を備えます。どうか身勝手な私をお許しください」

嗄れ、震え、強張った声でそう云いますと、彼の張り詰めたような表情は全然なくなりまして、気付けば安堵に浸かったような顔でおられました。

「許しを乞うのは僕のほうだよ。紗江ちゃん。ありがとう」

ただそう云いまして、彼は最期に白い鉄扉から病室を出ていかれました。




 一連に述べました会話を彼としたのは、つい昨日のことでございます。

彼は今もご自宅にて、明日の私の言葉を待っておられることでしょう。真咲様と共に生きることを諦め、私一人で生きていくことを英断する、その契りを待っておられることでしょう。


 ですので、私は自殺いたします。


彼は私のことを本気で想い、愛し、命を慮っておられるのが、まざまざと伝わってきました。尋常なるそれでは到底願えぬ生への固執、かつ己の命への無関心さが、彼の衷心にへばりついておられました。

 けれど私は、彼と同等に、いえ、彼以上に、彼への生を固執しておりますし、私の命への関心はございません。私が生きて彼が亡くなるのは、世界で、地球で、宇宙で、最も意味のないことでしょう。でも彼はそれを望んでしまっている。何と阿呆らしい。彼が生き永らえ、魔法で救う人の命の方が、よっぽど大切でしょうに。でも彼にそう云っても聞く耳は持ってくれません。ですから、今、この場で、私の命を絶ってしまうのです。


 おおよそ九千字ほど前、私は自殺の瞬間を妄想すると楽しみでいそいそとしてしまうと申し上げました。それは、私のような屑が消え去り、彼のような優しい太陽のような人間が生きてくれると考え、喜びに満ちてしまったからでございます。私の命を差し出すことで、最愛の真咲様の命が救われると想像しただけで、私のはらわたは十六夜に舞う祭り騒ぎになり、思わずふふふと笑ってしまいます。


 便箋が残り一頁になってしまいましたので、そろそろお手紙もここまでにして、間もなくしっかり命を終わらそうと思います。大好きな彼に生きていただくため、私の命は儚く散るのです。最期にお姉ちゃんともお会いできればよかったのですが、彼との約束を果たした期限に依りまして、それはまた死後ということになりそうです。長々と死人の遺言を読んでくださりありがとうございました。もしいつしかの未来で、真咲様にお顔を合わせることがございましたら、妹が貴方のことを心底から愛しておりましたよ、とお伝えくださいまし。


 それでは、さようなら。




  敬具

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夜を待つ―『思念』 燕子花様 @kakitsubatasama

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