3
俺が「かは」とも「が」ともつかない声を絞り出しているのに気付いて、蝶の者は手を離した。床に崩れ落ち、埃まみれの空気を必死で吸い込んでいる俺に向かい、
「ちょっと握っただけじゃないか」と不思議そうにつぶやく。
床に肘をついてどうにか座り直し、蝶の者と相対する。深く息を吸ったつもりなのに、呼吸が肺まで届かない。
蝶の者はあぐらをかき、肩肘を膝にのせて頬杖をついた姿勢のまま、じっと動きもしない。話せ、早く話せ、と、全身の気配が言っている。
語り部の代わりをしろという命令を受けてから、語り部のじいさんから聞いた話をいくつも思い返していたはずだった。一言一句違わず、とはいわないが、覚えている話を必死で頭の中で繰り返したはずだった。なのに、いざこうして暗い廊下に座り、座敷牢の中のモノと向かい合ってみると、頭が真っ白になる。どんな話をしようとしていたのか。滑稽話か。歌物語か。恋物語か。
「どうした」
蝶の者の声が低くなっている。羽音が座敷牢の中から聞こえる。
「話せないのなら、その喉は何のためにある。要らないのか。要らないんだな」
土気色の腕がまた格子の隙間からぬっと出、首を掴まれそうになったとき、ふいに話の断片が頭の中で弾けた。何を考える暇もなく、口から言葉が出る。
「昔、何百年も昔のこと」
腕が止まり、長い爪が俺の首をかすって引っ込んでいく。やっと深く息を吸う。
「ある……村に、化け物が現われた。化け物は作物を荒らし、村人を襲い、耳を、腕を、足をちぎった」
蝶の者がまた、大きな口を開いた。
「話が下手だな。震えた声で怪談を話すやつがあるか」
せせら笑うが、こちらはそれどころではない。話しているうちに、きっと調子が出る。あの語り部のじいさんのように、聞く者を引き込む話ができる。そう信じるしかなかった。
「数日のうちに村は荒れ、かろうじて生き延びた村人たちも隠れるばかり。その村人も死を待つのみ、どうせ手足をちぎられ、玩具のように殺されるならと皆で自刃をはかろうとしたとき、仏の助けか、旅の僧が現われた」
座敷牢の中で、蝶の者が口をわずかに開けたまま座っている。
笑っているのか。
「……旅の僧は村人の話を聞き、単身、化け物を退治しに行った。僧と化け物は三日三晩競り合ったが、退治することは叶わず、僧は……」
――僧は、確か。
背筋からうなじから、ぞわりと寒気が走った。
どうした、と蝶の者がうながす。
やはり、笑っている。
「僧は、化け物を、」
俺は今。
「かつて名主が住んでいた屋敷の地下牢に、」
知っている噺の中で。
「化け物を封じ込めた」
いちばん語ってはならない噺をしている。
がぱり。
蝶の者がさらに口を開けた。
「続けよ」
ひとこと。それだけ言って、蝶の者は頬杖をついたまま、首をわずかに傾けた。
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