2
村の墓場を抜け、沼地の脇を通り過ぎたところに、その屋敷はある。
いや、屋敷と呼んでいいのか。塀は朽ち果て門は開いたまま、屋根は瓦がいくつも落ち、壁も風雨にさらされて白漆喰の面影もない。いつ建てられたのかは分からないが、屋敷だった、というほうが正確なのだろう。
手で羽虫をはらい、額に浮き出ていた汗を拭う。豊作を祝う祭りの翌日、もう暑さはゆるんでいるというのに、背に絶えず汗が流れて着物が貼りつく。
汗は暑さのせいではないのだと、俺は分かっていた。
門をくぐるときに、着物の裾に沼の泥がついていることに気付いた。この一日の「お役目」のためだけに、かつて村の名主だった金持ちから渡された新しいものだ。丈が合っている着物を着るのはいつぶりか。着物を渡されたときに、言われたことがまだ耳に残っている。
――親を亡くしたお前の面倒を私たちがみた恩、返すのは今だ。
分かっている、とつぶやき、門から続く扉へと足を進める。
玄関を抜け、短い廊下を渡る。その先にはかつて障子があったらしいが、今は朽ちた屋敷には不似合いなほど頑丈な扉があり、大きな南京錠が取り付けられていた。
懐から鍵を取り出す。重く、鉄くさい。鍵を差しこんで回すと、がちり、という音が耳に嫌な残響を残した。
扉の先は、語り部のじいさんが言っていた通りだった。急な階段が地下へと続き、暗闇で底が見えない。カンテラに火をともす。この灯りだけが、地下での唯一の頼りだ。
きしむ階段をそろそろと降りた先には、長い廊下が続いている。なるべく遠くまで見渡せるようにカンテラを掲げ、一歩、また一歩と進む。背中の汗が冷えて、寒気がする。
廊下の先から、羽音のようなものが聞こえてきた。
カンテラの光が、古びた木の格子をとらえる。足の震えをおさえながら、さらに歩く。
想像していたものより、はるかに広い座敷牢が、カンテラに照らされて浮かび上がった。
俺の住む小屋よりも、あの金持ちの座敷よりも広そうだ。カンテラではとても奥までは照らせない。
それでも、気配がある。
何かが、いる。
「昨日から――」暗闇の奥から、若い男の声がした。「少し若返ったか?」
相手の意味するところが、一瞬分からなかった。
「俺は語り部のじいさんじゃない」声が震えるのを隠しきれない。
「じいさんは死んだ。俺が家に行くと、倒れていた。……血まみれで」
部屋がひとつきりの粗末な家、板敷きの床に倒れていた語り部の老人。その身体を覆い尽くすどころか、床や壁、天井にまで飛び散った血。錆びた鉄に似たひどい臭いを思い出して、胸が気持ち悪くなる。
しばらくの沈黙のあと、相手は俺に向かって言うでもなく、
「そうか。そうか」
とだけつぶやいた。同情も、憐憫も、おもしろがる様子さえない。
また、羽音がした。頼りない光が、宙に舞う何かを一瞬捉える。蝶のように見えたが、蛾かもしれない。見慣れない形をしていた。
「では、お前が次の語り部か」
わずかな笑いを含ませて、声が問うてきた。
「いや。明日から新しい語り部が……俺は、俺ははただの」
「ただのつなぎか」
先回りして答えた、その声の主が、座敷の奥でずり、と音をたてた。
ずり。ずり。
座ったまま、手と膝で近づいてきているのだと、しばらくしてようやく気付いた。
光の輪の中に、それ――語り部のじいさんは「蝶の者」と呼んでいた――が姿を現わした。男の声だったはずだが、赤い女物の着物を纏い、白い髪が床まで垂れて、蜘蛛の糸のように広がっている。目元は髪に隠されて見えない。ただ、口の異様に大きなことが、髪の分かれた隙間からうかがえた。
思わず一歩退いた俺を見て、蝶の者は口をがぱりと開けて笑った。血を塗ったような赤黒い舌が覗く。
「待て、待て。そう退いてもらっちゃあ、お前の声が聞こえない。寄れ」
それでもカンテラを持ったまま突っ立っている俺に向かい、蝶の者はぐいと首を下げ、こちらを見上げるようにして、ただ一言、
「寄れ」
と繰り返した。
一瞬視界がかすんだかと思うと、いつの間にか座敷牢のすぐ前に正座していた。カンテラの光が俺の脇で揺れている。これは何なのか。妖術の類いなのか、俺の恐怖心が身体を動かしたのか。
その問いに答えを出す間もなく、土気色の細い手がぬっと格子の隙間から突き出され、俺の首を絞めた。ひどく冷たい。ひゅっという息が、喉で止まる。
「いいか。いいか少年。たとえつなぎであろうとも、語り部として来た以上、お前は話さなければならないんだよ。おもしろい噺をな。愉快な噺をな。語り部の噺だけが、俺の楽しみなんだから。そのくらいのものはないと、退屈で、なぁ退屈でな、戯れにここから出てみて、村人全員の目を抉って手足をちぎってみようかなと、そんなことを考えるんだよ。だからな、少年、話をしろ」
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