スタンス・ドットに慕情を突き刺して

よなが

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 一年半前に失恋した相手とふたりきりでボウリングをしている。


 有名な総合アミューズメント施設の中ではなく、とうにブームが過ぎて衰退の一途を辿っている寂れたボウリング場だ。土曜の昼下がりにしては活気がないが、厳しい残暑をやり過ごすにはもってこいの涼しげな空間。


 離れたレーンで私たちと同年代と思しき、高校生ぐらいの男女数名が楽しげにプレイしている。残りのレーンには、大学生同士のカップル、父母子の三人家族、五十過ぎの男性一人。いずれも知った顔ではないから全部、推定。彼ら各々に今日ここにたどり着いたドラマがあったりなかったりするのだろう。


 久美が投げる――――。


 デニムのショートパンツを履いた彼女が惜しげもなく晒している、すらりとした両脚。それが私の記憶に沈みかかっていたものよりも、しなやかに美しく動くものだから、思わず目が釘付けになった。

 オレンジ色の11ポンド球が、レーンに残った哀れなピンへと進む軌跡を眺めるより見応えがある。


 快音。

 久美は「よし」と呟き、拳をぎゅっと握った。そしてこちらを振り向く。思い出の中のポニーテールはそこになく、ほどほどに短く切り揃えられていた。


「ほら、理花の番。って、これじゃろくに話せないね」


 1フレーム目同様に、2フレーム目も危なげなくスペアをとった久美がそう言う。

 着ているケーブルニットの半袖セーターは薄いグレーで、彼女にしては暗めで地味な気がする。私はと言えば、きれいめなブラウスにスキニージーンズで大人っぽさを演出したかったのに小柄なのがかえって際立っている気もする。


 久美はいっしょにいるのが私でなかったら別の服を選んでいただろうか。


「まじまじと見過ぎ」

「……ごめん」

「さっさと投げちゃって。もうガターはしないようにね。白けるから」


 先のフレーム、私の1投目は投げた瞬間それだとわかるガターで、2投目では六本しか倒せなかった。


 赤い10ポンド球を手に取り、逆三角の頂点を成す三つの穴に指を入れる。まだその感覚に慣れない。きちんとこの指が穴から離れて、ボールがピンを倒しに向かうのをうまく信じられないでいるのだった。

 

 ボウリングそのものが小学校高学年の頃に数回ほど家族としたきりだ。

 見よう見まね、久美のフォームを頭で描き、それを自分の身体でなぞるようにして投げた。いい具合にボールが進んでいく。ストライクもあり得るのでは、そんな期待を嘲笑うかのように左右に一本ずつ残った。

 スプリット。いかにも難しそうな。


「欲張って両方狙いにいかないほうがいいよ。真ん中通すなんて論外」

「プレッシャーかけないで」

「アドバイスだよ」


 プシュっと。言うだけ言って、座っている久美は透明な炭酸飲料が入ったペットボトルの蓋を開いた。

 

 機械からごろりと戻ってきたボールを私は抱えてレーンに臨む。右手でリリースするのだからと、無理のない位置からアプローチして、まっすぐに右のピンを狙う。

 ボールが床を滑り出してすぐに「うわ」と私は声を漏らした。果たしてボールはピンへと辿り着くより先に溝にはまり、闇へと消える。


「恋しているんだよね、私。女の先輩に」


 私のガターをなじることなく、久美は潤った喉と湿った舌でまるで独り言みたいにそう打ち明けてきた。私は彼女がペットボトルの蓋を閉めるのを見届けてから「つまり」と口を開いた。


「そのことで相談するために、今日は私をボウリングに誘ったんだ?」


 一昨日の夕方にいきなり連絡が来たときは驚いた。


「まぁ、そういうこと。他に、同性に恋しているって告白できそうな友達って思いつかなくて。……帰りたくなった?」


 私はこくりと肯く。

 久美が求めているのは私個人ではない。同性愛に理解がありそうな人物、言ってしまえば当事者だからという理由のみで私を選んだのだった。


「でも1ゲームだけ付き合ってあげる」


 裏返らないように、上擦らないようにと、平静を装って私は言う。

 動揺は十二分にしていた。話を聞いて欲しがっている面持ちをしている彼女は、あの日中学三年生だった私の想いに「そっちの気はないから、ごめん」と返してきた張本人なのだから。


「ありがとうね。理花なら、そう言ってくれるって信じていた」


 安堵する彼女に悪気はない。私は自分の中に未練や執着といったものを見つけ、今度はもっと深くに沈めるか、完全に消し去ってしまいたくなる。


「相手は弓道部の先輩で二年生なんだ。ザ・大和撫子って感じの風貌なのに、中身はそこらへんの男より男前で、ちょっと天然入っている。カッコよくて可愛い人なの」


 3フレーム目をストライクで決めた久美がそれを喜ぶ素ぶりなしに、穏やかにに言葉を紡ぐ。照れもせず恥じらいもなく、純粋な想いを込めた口調。


「へぇ、弓道部に入ったんだ」


 そんなことから訊く私。

 知らないのだからしかたがない。中学生時代の久美は吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。対して、十人に満たないバドミントン部に所属していた私は、彼女の演奏を独り占めしたことはついぞなかった。最後の文化祭で彼女が吹く姿は今も頭に思い浮かべられるのにそこに音はない。


 私は3フレーム目を一本残しの九本倒しで終える。

 

 久美曰く、弓道場の矢道と比べるとレーンの長さは10メートルほど短くて、これぐらいの距離だったら矢を的にもっと当てられるのにな、ということだった。


「最初は興味本位での見学だったの。うちの高校って弓道部があるんだ、じゃあ見ておこうってね。けど、先輩が的を射る姿を目にした時に、これだ!って感極まっちゃってその場で入部を決めてた」

「一目惚れだったの?」

「……ううん、そうじゃない。たぶん」


 どこか自嘲気味に久美が笑って、4フレーム目をこなしにいく。それまでと違って雑な投げ方だ。だというのに、1投目で七本も倒れて、残った左側の三本も2投目で悠々と倒す。私のスコアに数字が、久美のスコアには三角が残っていく。


「わかっちゃったんだよ。憧れが恋心に変わるのって、時に残酷なんだって」


 恋愛ソングの歌詞めいたことを真剣な表情で口にする久美。


 私は言葉に詰まる。憧れ。それは私があの頃の久美に、出会ったばかりの時期に感じていたものだった。


 久美とは中学三年生になって初めて同じクラスになった。

 その背丈と美人ぶりをして私が憧憬を抱いたのはごく自然だと思える。私と違って、170センチ近くある彼女はいつも姿勢正しくしていたことも合わさり、クラスの中で存在感のある女の子だった。切れ長の目がクールで知的な印象を与える一方で、友達との会話ではよく笑い、委員長タイプではなかったが授業や先生に対して不良な態度をとることはなかった。自分も彼女みたいになれたら、そう羨んだ。


 みんなの一番の人気者であったかどうかで言えばノーだが、誰も久美を敵視していなかっただろうし、好意を寄せていた男子が複数人いたとしても何らおかしくない。


 そんな彼女への憧れは恋へと変わり、それを確信した以降も、私は彼女と親密な関係を築けなかった。結局は友達の友達どまり。二人きりで話すことはないクラスメイト。

 そのままの関係性であったにもかかわらず、卒業間際に私は彼女に想いを伝えたのだった。進学先が違うとわかっていた。それぐらいは事前にそれとなく人づてに聞き及んでいたから。

 

 避けられない離別が私の小さな背中を、トンッと押した。久美からもたらされる答えは告白前から明らかだった。拒まれる覚悟はできていた。それでも傷つかなかったといえば嘘になる。大嘘に。


 なぜ彼女に恋をしたのか。人気のある男の子ではなく彼女でないといけなかったのか。それらの問いに対する明瞭な答えは持ち合わせていない。これまでもこれからも。


「先輩のことをさ、そういう目で見始めるようになってから痛感したの」


 お互いに6フレーム目が終わって勝敗が見えてきたときに、久美はまた透明な液体をその汗一つ掻いていない身体に流し込むと、憂い顔で言った。


「知らないことばかりだって。本当に胸が痛かった。先輩のこと、なんでこんなに知らないんだって自分を責めもした。他の人を責めるわけにはいかないでしょ?」

「でもきっと、知ろうとした、ううん、今もしているんだよね」


 久美は微笑み、しかしそれは長く続かず崩れてしまう。代わりに眉根を寄せてそこに浮かび上がったのは不安。


「ねぇ、理花。怒らないで聞いてくれる?」


 勝手に傷つくことを許してくれるなら。

 そんな言葉は胸の内にしまい込み、肩を竦めて「うん」と返した。


「私に告白したとき、私が……理花の好きに同じ好きを返してくれるって信じていた?」

「まさか。脈ありだと一瞬でも思ったことないよ」

「それでも?」

「うん、それでも伝えたくて。おかしな話だけれど、もしも『じゃあ付き合おう』って提案されていたら、尻込みしただろうね。ようするにエゴでしかなかったんだよ。好きってぶつけて、その先は考えていなかった」


 そこまで言ってからふと思い至る。


 もし仮に私が久美に告白していなかったら。 彼女が同性からの愛の告白を経験せずにいたら、弓道部の先輩に対して今抱えている気持ちを確かに恋だと認めることができたのだろうか。


 きっと、できた。


 導かれた帰結は彼女を信じたゆえのものだ。久美なら彼女自身の想いにきちんと向き合えるはずだって。でも、幻想でもある。なぜなら私は久美の内面を深く理解していないのだから。信じたいから信じている、それだけ。


「今の私じゃ告白なんてできそうにない」


 久美はぽつりと呟くと、7フレーム目へ向かう。


  私は後ろから彼女の一挙一動を見つめた。たぶん今日だけなんだと察していた。今日を過ぎればまた私たちはそれぞれの日常へ戻り、次に点が交差するのは一年や二年よりも長い間が空いた、ずっと先な気がした。

 

 そのときを迎えたら、もう私は彼女をどうも思っていなくて、お互いの隣に大切な人がいればそれでいいのだ。……いいはず。


 初めて久美のスコアに数字が並ぶ。

 私は赤いボールを持ち上げ、それから少し迷った末に下ろした。久美に、彼女が使っているオレンジの12ポンド球を私も使っていいか訊く。

 わかっている。同じポンド数で別のボールなら歩いてすぐのところにあるってのは。

 

 久美は「いいよ」と応じる。ボウリングボール一つに何も感じていないって顔だ。私は問いかけたくなる。もし今と同じことを例の先輩から提案されたらどう感じたのって。

 

 私の指はボールの穴に違和感なく入る。不思議と、さっきまで投げていたものよりもすぐに馴染んだ。大して重くない。1ポンドの違いはあの頃の私と今の私の違いと似たようなものだった。


 ややサイズに余裕がある貸しシューズで床を踏みしめ、整然と直立しているピンへと向き合う。

 倒されては立たされるをひたすらに繰り返す十本のけなげな者たちへと私は思い切りボールを放った。


 ストライク。

 戻ると久美が手を掲げている。

 ぱんっとハイタッチ。友達同士のありふれたコミュニケーション。あの頃にもっと彼女と普通にできていたら、同じ時間を重ねられていたら、そんなことを今更思う自分が情けない。


「その先輩ってフリーなの?」

「え? うん、そのはず。隠れて誰かと付き合っていることは……ないといいな」

「徐々にその気にさせるしかないね。それとなく、女の子同士でもありだって思わせなきゃだよ。そっち方面に偏見や嫌悪がありそうな人?」

「どうだろう」

「その手の漫画でも貸してみて反応見てみるとかどうかな。なんだったらSNSにあがっている女の子同士のキス動画見せたり」

「露骨すぎない?」

「思い切って月曜からは、挨拶代わりに頰にキスしてみたら?」

「ええっ!? それは無理!」

 

  私は「冗談だよ」って笑う。それから彼女の髪にそっと触れる。一瞬だけ。あのポニーテールには触れずじまいだったな、と思いながら。びくっとした彼女に「ごめん」と謝ってから、熱くなった目頭を指で抑えた。


 8フレーム目は二人ともスペア。ゲームは終わりが近づいている。


「気持ちが通じ合ったその後ってイメージしている?」

「付き合えたらってこと?」

「そう」

「先輩と恋人になれたら――」

「普通は恋人同士でしかしないことを、二人でする?」

「そっ……そ、そうなのかな」


 照れた表情の久美は可憐で、私は胸の奥がチクチクとした。高校に入ってからの彼女の恋愛歴をわざわざ訊かないけれど、ここまで初心なリアクションをされるのは予想外だった。


「たとえば、先輩とキスしたい?」

「理花はどうだった?」


 私の追撃はそんなカウンターをもらって、気まずい空気が流れる結果となる。

 よく考えずに口からついて出たみたいな彼女の言葉が意味するのは、私がかつて久美にキスを望んだか否かだ。


「今、大事なのは久美の気持ちでしょ」


そんなふうに私は逃げる。彼女を名前で呼び捨てにしたのはひょっとすると初めてかもしれなかった。


「それもそうだね。私は先輩と……そういう雰囲気になれたらいいなとは思うよ。偶然でも無理やりでも遊びでもなくてさ。好きって言い合ってキスできる仲になりたい」


 ああ、本当に恋をしているんだ。

 彼女の横顔に見惚れる。目を逸らすのは難しい。


  ボウリング中でよかった。私は立ち上がってボールを投げにいく。湧き上がり続けるもやもやはそこにぶつけるのだ。


 力み過ぎて1投目はガターとなる。黙って2投目をこなす。見覚えのあるスプリット。左右のどちらも狙えず、並び直されるのを見守るしかできない。


「応援、するから」


 さらりと言ってしまいたかったのに、その台詞はぎこちなく出てきた。「ありがとう」と言う久美に私は戻ってきたボールを渡す。


 最後のフレーム。

 久美はスペアをとった後で、3投目は二本を残して終了。


「これだと理花がパンチアウトしても、私の勝ちかな」


 久美がディスプレイに表示されているスコアを見ながらそう言った。


「パンチアウトって?」

「10フレーム目で、3連続でストライクきめること」

「もしできたら私の勝ちでいい?」


 きょとんとした久美だったが、ふふっと笑って「いいよ、それで。うん、それがいい」と言ってくれる。


 叩きのめパンチアウトしたいのは私自身だ。

 散った恋にいつまでも後ろ髪を引かれるのはうんざりだ。

 

 でも私がストライクを三本連続で出せたなら? そんなことが万一できたなら私は彼女に言うのだ。


 あのね、久美――――先輩との恋がうまくいかなかったときは私に連絡して。そのチャンスを逃したくないから。

 

 ビンタされるだろうか。睨まれ、軽蔑され、呆れられるかな。


 それでいい。

 それぐらいがちょうどいい。


 息を深く吸ってゆっくりと吐く。

 俯いたその視線の先、床に並んだ黒い水玉に意識が初めて行く。

 これは私の立ち位置を決めるものだと直感した。自分の気持ちに嘘をつかない、エゴイスティックなスタンス。そんな恋をして何が悪い。投げてみなくちゃわからない。諦めるのはその後でだって間に合うんだ。


 曲がることなく突き進んでいくボール、倒れていくピン、そして出来上がった光景に私の心臓は早鐘を打ち鳴らすのだった。 

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