第81話 二人きりの星空

 扉を開けると、母がいた。柔らかな陽光の射し込む窓際に座り、本を読んでいる。

「母上……」

 走り寄ったハナリは、抱き付いた。すずらんの花香が鼻腔に広がる。母がいつも、好んでつけている香水だ。


「どうしたの、ハナリ」

「怖い夢を見ました。戦争が起きて、母上も皆殺されてしまって……」

「ええ、怖かったわね」


 慰めるような優しい手つきで髪を撫でられ、ハナリは安堵した。全ては夢だったのだ。あんな悪夢はもう御免だ。


「大丈夫よ、ハナリ」


 こうして直に触れられる。温もりを感じる事が出来る。それがかけがえのない幸せと感じられ、ハナリは、思い切り甘えたくなった。出来る事なら今晩は、同じベッドで眠りたい。


「私はいつだってあなたの傍にいる。素直な心を持てば、感じられる筈よ」


 何の前触れもなく、視界が一変する。暗闇だった。枝葉を伸ばした木々が夜空を遮り、草の上で仰向けに寝ているのだと気付く。胸にのしかかるのは、母の本やら紙幣やら諸々が入った鞄だ。背嚢を枕代わりにして、身体には毛布代わりの服を掛けている。男性用のジャケットだ。そうだったと、現実に引き戻されたハナリは嘆息した。 


 夢か……。


 くしゃみが出た。九月の頭とは言え、山の上は涼しい。肌寒いくらいだ。

 一度目が覚めると、なかなか寝付けなかった。寝返りを打つ。林立する木々の向こう、片膝を立てて座るバルコの後ろ姿が見えた。背中を丸め、夜空を眺めている。眠らないのだろうか。起き上がったハナリは、彼に歩み寄った。


「眠れませんか?」

 気配に気付いて振り返ったバルコが、尋ねてきた。

「なんか、目ぇ覚めちゃって」

「足元、気を付けて下さい。崖になっていますから」


 本当だ。前方、地面が途中で無くなっているのが夜目にも分かる。昼間であれば、ふもとの景色を一望出来る事だろう。気を付けながら、ハナリはバルコの隣に腰降ろした。


「先生は……は、はくしゅんっ」

 眠らないんですか、と訊こうとしてくしゃみが出た。

「寒いですか?」


 頷きたいところだが、「いいえ」とハナリは頭を振った。これ以上、彼から上着を奪う訳にはいかない。鼻水をすすると、またくしゃみが出た。一度出ると止まらない。


「やっぱり寒いんでしょう」

 立ち上がったバルコは、こちらの背後に座って両手を伸ばしてきた。彼の逞しい両腕に捕えられ、体温が急上昇する。


「ご容赦下さい、殿下」

 緊張のあまり喉がからからになって、まともな返事が出来ない。激しい心臓の拍動が、布越しに触れ合う彼に伝わっていないか不安だった。


 い、い、いきなり大胆過ぎです、先生っ。


 いや、大胆も何もない。バルコにとって、自分は十歳の少女なのだ。寒そうにしているから温めてやろうと、ただそれだけだ。


「風邪をひかれてはいけない」

「は、はい」

「あなたこそ全てです」


 赤くなった耳のすぐ近くで、囁くように言われる。ときめきを胸に覚えながら、自分が期待しているようなロマンチックな意味でない事は分かった。

 王女たる自分一人を救う為に、彼は全てを捨てた。家も家族も、愛する女性さえも。そうせざるを得なかった。そういう家に、バルコ・デュッフェルは生まれた。


「ごめんなさい、先生。酷い事を言って」

「いいえ、謝るのは僕の方です。王妃殿下をお救い出来なかった」


 それきり、バルコは黙った。静寂に包まれる。鳥や虫の夜鳴きも聞こえない。誰もいない世界に、二人ぼっち取り残されたような気分だった。

 何の気なく空を仰ぐ。視界を遮るものはなく、広がるのは満天の星だった。宝石をちりばめたかの夜空の中央に、神秘的な光の帯が流れている。贅を尽くした宮廷内の人工美とは違う、神がデザインした自然の美だ。


「先生」と、視線はそのままに背後のバルコに話し掛けた。

「神様は皮肉屋なんでしょうか」

「どうして?」

「だって、こんなに綺麗です。勘違いするじゃないですか、世界は素敵な所なんだって。こんなにも残酷な所なのに」


 バルコは、すぐには答えなかった。


「一見すると、この世界は時間軸上の三次元空間です。しかし実際は、目には見えない高次元が隠れている」

 いきなり霊術の授業のような話が始まって、些か戸惑いながら相槌を打つ。

「人の身体もまた然り。それが何か、お分かりになりますか?」

 頭を振ると、「心です」とバルコは答えた。


「仮に僕らが純粋な三次元存在、ただの物質だとしたら、泣いたり笑ったりする事もない。心がないからです」

「心は三次元にはないのですか?」

「ええ、もっと高い次元にあるものです。故に心の営みは、物質世界の法則に縛られない。結ばれた者同士なら、どれだけ離れていても、何ら物理的繋がりが無くても、心を通わせる事が出来る」

「運命の糸のような?」

「そう、糸です。霊術の本質とは、高次の糸をいかに扱うかです」


 バルコが度々口にする、霊糸というのがそれだろう。難しい話だが、感覚的に理解出来た。


「神や心といった高次の存在、現象を総じて、我々は霊と呼びます。肉体が滅びれば、人は心そのものになって世界に溶ける。心霊です。目には見えなくなるものの、消滅する訳ではありません」


 話が見えた。母は消えた訳ではない、傍にいると、そう言いたいのだろう。励まそうとしてくれているのだ。気持ちは嬉しいが、本当だろうか。優しい嘘ではないのかと、疑義の念も同時に生じた。


「気休めに聞こえるかもしれません。しかし、真剣に聞いていただきたい。真実を疑れば神を感じられなくなる」

 心中を見透かされたようで、ハナリは慌てた。弁解しようと振り返ると、やつれた顔のバルコは穏やかに笑んで、前を向くよう目で促した。


「ハナリ様、この景色を美しいと感じますか」

「ええ、とても」


 満天の星に視線を戻し、正直に答える。


「であれば、あなたは今、世界の善意を受け取っている。正確には、世界に溶けて尚あなたを思う霊の善意を。大切な人が落ち込んでいれば、励まそうとするのが人です。優しい言葉をかけたり、抱き締めたり……しかし、そういう直接的な働きかけは、肉体を持った生者であればこそ。故に心霊は、間接的に働きかけるのです。夢の世界や、あるいはこのような明媚めいびとして現れ、優しさを届けんとする」


 ――――私はいつだってあなたの傍にいる。素直な心を持てば、感じられる筈よ。


 母の声が耳朶じだに蘇る。いつ、どこで言われたのかは思い出せないが、確かに母にかけられた言葉だ。どこからともなくすずらんの花香がして、ハナリは、バルコの腕に抱かれながら母の温もりを感じた。


「皮肉などではありませんよ。感じる筈です、キーシャ様を」

 知らぬ間に、涙が零れていた。夜空を仰いだまま、ハナリは静かに泣いた。


「先生……。私、もっと知りたいです。霊術の事」

「お教えしますとも。あなたは優れた術師になる。それと、王女殿下」

 改まった口調で、バルコは言った。

「向後はバルコとお呼び下さい。この身は、あなた様に仕える騎士です」

「分かりました。バルコ」


 師を呼び捨てにするのは、恐れ多いような、照れくさいような、とにかく慣れない感覚だった。しかし、二人の関係は師弟というだけではない。バルコの言う通り、主従の関係でもある。一言では形容出来ない多様な関係性が、これから、二人の間に築かれていくのだろう。いずれは男と女としてと、期待する気持ちは依然ある。


 でも、今はまず。


 空から地上へと視線を転じる。国境たるプレジー山脈の頂きから、ハナリは、隣国を覆う闇をじっと見つめた。

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ニュークラント物語 Ⅰ さとう @satou9602

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