第80話 護国卿の思惑
蝉の鳴き止まぬ、蒸し暑い日だった。汗で濡れた寝衣の上から、べとついた男の手が身体を這いずる。やがてそれは服の内側に侵入してきて、胸の膨らみを確かめるように執拗にいじってくる。
「やめて!」
二人きりの室内に、自身の涙声が虚しく響く。必死に抵抗したところで、成人男性の力に敵う筈もなく、強引に押さえ付けられる。荒い息が耳にかかり、鼻先から滴った汗が首筋に落ちて、嫌悪と恐怖でどうにかなりそうだった。
皮を剥ぐように服を脱がされ、強引に股を開かされる。でっぷりとした腹の下、股間に反り立つ肉の棒を視認して、悲鳴を上げた。
「決めた人がいるの! ねぇ、だからお願い、それだけはやめてっ。やめてよぉ」
「宇宙の本質が理性なら、真実は可逆性を有する筈だ。観測によって裏打ち出来るように。これを何世代も繰り返すんだよ、カトリーヌ。そこに神がいる」
会話が成り立たない。狂気的な欲望の光を双眸にぎらつかせながら、男は意味不明な言葉を垂れ流している。初潮を迎えて日の浅い局部に、血管の浮き出た一物を近付け、先端でつついてくる。
嫌だ、こんなの嫌だ。汗と涙と鼻水とで顔をびしょびしょにしながら、男の中に残った理性と良心に届けとばかりに、必死に叫んだ。
「お父さん、お父さんっ!」
はっ、と目を覚ます。クリーム色の天井が見える。悪夢にうなされていたのだと理解するのに、数秒かかった。
「最悪……」
濡れた枕に頭を沈めたまま、ルピナ・メ・リルルは溜息とともに零した。もう何年も前の事なのに、未だに夢に見てしまう。起き上がる気力が起こらず、右手の甲を額に乗せてぼんやり考える。
ここ、どこだっけ?
仰向けのまま見慣れない部屋を見回しているうち、頭の中の
そうよ、襲われたんじゃない。馬車でミラナに向かっていたところに、変な黒い奴らがやって来て、陛下も護衛の人達も皆殺されちゃって、それで……。
頭痛がして、ルピナはこめかみを押さえた。以降の記憶が曖昧だった。変な薬を飲まされたのかも分からないが、とにかく、気付いたらここにいた。昨日の夕食はこの部屋で摂った。ペペロンチーノと、サラダと……後は何だったか。それなりの料理だった覚えはある。ルピナは首を傾げた。
――――女は殺すなよ。
襲撃グループの筆頭格が、確かそんなような事を言っていた。自分だけが生かされたのは他でもない、若い女であるからだ。換金するもよし、性奴隷にするもよし、兵士にすれば戦利品も同然だ。そのように扱われると思い込んだからこそ、絶望したのだが……どうもこの状況は想定と違う。
幽閉されている格好だが、存外に扱いが丁重なのだ。夕食の件もそうだが、調度品や絵画等が飾られた室内は客間のようで、ベッドの寝心地がこれまた良い。この奇妙な好待遇は何なのか。誰がどういう意図で、自分をここに連れてきたのか。
まさか、この私に惚れて……?
あり得ない、とは思わない。むしろその理屈こそ、すとんと腑に落ちる。何となれば、自分は求められる側の女だ。ああそうか、難しく考える必要はないのだ。王をも虜にした宮廷一の美女を我が物にしたい、ありふれた単純な雄の欲望じゃないか。好都合である。そういう事なら、自分にも立ち回り方がある。
でも、一体誰なのかしら。
ドアがノックされた。朝食を運んできたという。柱時計を見ると、八時を過ぎたところだった。パンにソーセージ、サラダに豆のスープと彩り豊かで、やはり朝食も悪くない。着席すると、テーブルに皿を並べ終えた使用人らしき女が言った。
「本日、護国卿がお見えになるそうです」
「護国卿?」
「オーゴッホ殿下です。そちらの書棚に新政府の機関紙がございますから、後でご一読を」
「オーゴッホ様が……。分かりました」
「正午前とおっしゃっていました」
女はそれとなく部屋の奥を見た。そこには一人掛けの椅子と机があり、三面鏡が置かれている。どう見ても化粧台だ。やはり、そういう事なのだ。委細承知という顔で、ルピナは頷いた。
朝食を済ませたルピナは、クローゼットからドレスを取り出して着替え、退室した使用人の言う通りにした。
機関紙というのは小冊子で、ついこの間の騒乱、及び王統断絶の経緯について詳しく書かれていた。全てはデュッフェル家の陰謀で、協力したニック・ボンソール大法官は逮捕、処刑されるらしい。閣僚と元老院議員のほとんどが国外逃亡し、権力の空白を埋めるべく、オーゴッホら〝義軍〟の面々が新政府として向後の国家運営に当たるという。
プロパガンダである。額面通りには受け取れないにせよ、オーゴッホが事実上の国家元首となるのは間違いなさそうだ。そういう男に、またしても目を掛けられた。やはり自分は特別なのだと、自惚れながらに確信する。
しかし、そこに
誰より幸せになる権利があるのは、この私なんだから。
ぱたんと冊子を閉じて、壁際の化粧台に腰掛ける。引き出しを開けると、予想通り化粧道具が入っていた。三面鏡に映る自分に微笑みかけ、自信を深める。これこそ自分の武器だ。猫撫で声で甘えてみせれば、拒める男などいないのだ。
――――無礼も大概になされよ。
バルコ・デュッフェルの一言が、出し抜けに蘇った。嫌悪の目で見下しながら、こちらの手を払いのけたあの瞬間を思い出すと、腹の底が熱くなる。別にいいじゃないと、ルピナは自分に言い聞かせた。
あんな男、ただの負け犬じゃない。濡れ衣着せられて、ざまあ見ろってんだわ。
パフで白粉をはたきながら、ルピナは、今考えるべき事に意識を向けた。即ち、ドミニク・オーゴッホについてである。宮廷で何度か見掛けた程度で直接話した事はなく、それ故か、掴み所がないというのが個人的な印象だった。
個性が薄い質ではない、むしろその強さで人を惹き付ける人望家である。キーシャとの昵懇も噂されたが、それはニックら王党派の作り話だ。オーゴッホの胸のうちについては無関心であったが、向こうからは関心を持たれていたらしい。意外だった。嬉しい誤算ではあるものの、どう振舞うべきか迷った。
シャオップ四世という男は、その点分かり易かった。従順で健気で初々しい、男が求める女の典型を演じておれば良かった。オーゴッホはどうなのか。そう振舞って嫌がられる事はないと思うが、鼻の下を伸ばす彼を想像出来なかった。
手を止めて、何の気なしに壁掛けの絵画を見る。不思議な絵だった。空飛ぶ何人もの天使が、手にした弓矢を地上に向け発射している。もしや、古代ミラナ神話を描いているのか。人が生まれる遥か昔の神代、天を支配していた荒神の軍勢により、地上は絶えず攻撃されていたという。後に登場する女神コノハザクによって、この軍勢は退けられたとされているが……オーゴッホの趣味なのだろうか。聖職者が見たら、いい顔はしないだろう。というのも、彼らが説くフェニール教の教理と古代ミラナ神話は矛盾するからである。一昔前なら、このような絵は持っていただけで異端認定だ。
「どうだっていいじゃない、宗教なんて」
嫌な記憶がちらと過って、ルピナは吐き捨てるように独言した。
オーゴッホがやって来たのは、十一時半過ぎだった。シャツにクラヴァットを巻いて、議員の格好である。両手でスカートの裾を持ち上げ、ルピナは挨拶した。
「不自由を強いてすまないね、ルピナ嬢」
友人に話し掛ける気軽さで、オーゴッホは微笑みかけてきた。こうして面と向かって話すのは初めてだが、気負っている風も無ければ、わざとらしい余裕を演じるでもない。然るに自然体というには何故だか漠と違和感があり、やはりミステリアスな中年である。
「滅相もございません。格別のご配慮に感謝致します。お会いしたかったですわ、オーゴッホ殿下」
努めて穏やかな微笑で応じると、オーゴッホは腰掛けるよう促した。対面に座る。何を語るのかと思えば、質問攻めだった。出自や経緯、人生観について訊かれ、差し障りない返答をしつつ、違和感が募る一方だった。
どうにもおかしい。自分とこんな話をして、一体何を得たいのか。恋愛対象に知的な会話を求める手合いもいるが、そうではない。眉骨の影の落ちる暗い双眸には、どうでも滲み出る筈の下心が微塵も存在しない。あるいは達観した聖職者であれば、こんな目をするのだろうか。
いや、違う、この男とて無欲ではないのだ。ただそれは、性欲だとか物欲だとか、ありふれた俗欲ではない。女の勘でそれだけ察して、ルピナは自信過剰を認めた。
この男は、私を女として見ていない。
「嘘をついたね」
不意を突かれ、ルピナは硬直した。
「大法官の執務室から、君に関する報告書が見付かった。ニック・ボンソールは、君を次期王妃にするつもりだったようだからね。君か、あるいは父君に爵位を与えるぐらい考えていたかもしれない。そこで彼は、君の嘘に気付いた。アリアルタの
微笑を崩さぬまま、平らな口調でオーゴッホは言う。そこまで調べていたのかと、ルピナは追い詰められた気分だった。この期に及んで白を切る自信はなく、返事に窮して目が泳ぐ。
「そ、それは……」
「そう身構えんでくれ、責めるつもりはないんだ。教会がかつて働いた、君の父君とそのお考えに対するに無礼を思えば、出自を隠すのも無理はない。しかし、安心してくれたまえ。ブライアン・ライロは、私の友達だった」
この世で最も軽蔑する男の名を出され、ルピナは今度こそ言葉を失った。ぞわっと鳥肌が立つ。眼光炯炯として口元だけが笑っている眼前の男と、思い出す事さえ汚らわしい実父の面影が重なる。常人には理解し難い歪な欲望が垣間見えた。
「カトリーヌ・ライロ、あえてこの名で呼ぼう。我が共和国政府は国教を改革する。怠惰で強欲な俗僧共が築いた旧態依然の価値観を、偉大なる君の父君の考えに則り刷新する。カトリーヌ、君にはこれの広告塔になって欲しいのだ」
宗教改革の広告塔ですって? この私が?
予想だにしない提案に、ただただ唖然とする。自らの処女を奪った、あの日の父を彷彿とさせる双眸に見つめられ、断る勇気は湧かなかった。
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