第23話 許されぬと知りつつ
フェニール教の使徒が描かれた天井画の下、赤い制服に身を包んだバルコは、軍靴の音を王宮の廊下に響かせていた。向かう先は王妃の間である。これから、キーシャより直々にダンスレッスンを受ける事になっている。期待に胸踊るというよりは、緊張と不安が勝っていた。
何故このような要求をしたのか、我ながら謎だった。王妃侍従武官たる者、貴族の嗜みを身に付けねばという思いは確かにあるが、他方で、自分を誤魔化しているようにも感じられた。
あの宮廷舞踏会を思い返す時、胸に生ずるのは慙愧の念ばかりではない。練絹のような肌に直に触れた瞬間の浮遊感は、些かも色褪せず甘やかな陶酔を齎す。然して分を弁えぬ劣情が、今一度、今一度と、内側から声高に叫ぶのである。バルコの不安の種はそこにあった。
静まれ。求めるな。好いてはならん
頭では分かっていながら、踊りを教えてくれなどと、かかる要求をした自分がいる。謎など無い、触れたいという低俗な欲に突き動かされただけではないか。その上、体裁まで繕っているのだから尚悪い。宜しくてよと、善意で受けるキーシャの笑顔が蘇り、様々な感情が混然として渦を巻いた。
俺は……。
俯き加減に歩いていると、正面から歩いてくる人の姿が視界に入って、バルコは慌てて顔を上げた。立ち止まる。相手も立ち止まっていた。自身と同じ赤い官服を着た長身の男だ。近衛師団を束ねる将軍の証たる獅子の徽章が、胸元で輝いている。
「レガ師団長……」
気まずい。本音を言って、最も顔を合わせたくない相手だった。それは向こうも同じようで、三歳年上の金髪の上官は、露骨に眉をしかめてみせた。
立ち止まったのも束の間、すぐにレガは歩き始めた。立場上道を譲ったバルコは、壁を背にして敬礼した。窓枠の格子模様を映す床に視線を落としながら、早く立ち去ってくれと念じる。通過するかと思いきや、目の前で立ち止まった。
「貴様、とことん俺とやりたいらしいな?」
横目に睨んでくる。何の事です、と惚けるつもりはなかった。ハナリの霊術教師の件だろう。
「陛下のご采配故、ご容赦いただきたい」
「ふん、あの女が口を出したに決まっている」
それまで視線を合わせようとしなかったバルコも、思わず鋭い目で睨んだ。
あの女だと。それはまさか、王妃殿下の事か。
「主人も主人なら、臣下も臣下よ。人から地位を奪わんでは気が済まん質らしい」
「口が過ぎますぞ、師団長!」
「俺は名指しなどしていないが?」
挑発に乗って墓穴を掘ったこちらを嘲笑うかのように、レガは片頬に皺を浮かべた。
「それとも何か、思い当たる奴でもいたか?」
ぎり、と奥歯を噛む。本当に、神経を逆撫でするのが上手い男である。決闘を挑んでやろうかと本気で考えている間に、「ふん」と鼻を鳴らしたレガは、垂れてきた前髪をかき上げながら立ち去って行った。
無礼者めが。
遠退いていく背中を睨みながら、胸中で毒づく。
「失礼仕ります」
王妃の間に入ると、腰掛けるキーシャの前に立つがっしりした背中が見えた。先客がいたようだ。
「やぁ、デュッフェル衛士」
「オーゴッホ卿。お久しぶりです」
「ククルーン以来か」
何度か目にしているとは言え、こうして言葉を交わすのは実に一年ぶりだ。あの時着ていたのは厳めしい軍服だったが、今日のドミニク・オーゴッホは、ウェストコートに洒落たネッククロスを巻いて、議員然としている。
「では王妃殿下、私はこれにて」
「ご足労感謝します、オーゴッホ卿。参考になりました」
「それは重畳。あなた様のお役に立つ事こそ我が幸福です」
「まぁ」と可笑しそうに笑うキーシャは冗談ととったようだが、見つめるオーゴッホの横顔は真剣だった。
「オーゴッホ卿とは何を?」
いなくなった後でキーシャに尋ねると、庶民院での審議内容の報告を受けていたとの事だった。
「一カ月後の軍事演習ですけど、彼も出るそうです」
「軍に復帰されると?」
「私人として参加するつもりとは言っていたけど、兵を預かる以上、一時的にでも戻るんじゃないかしら」
「と言うと、部隊を率いられるのでしょうか」
「ええ。多分、黒衣隊でしょう」
元帥を退いて尚オーゴッホの影響力は健在で、彼を信奉する派閥が軍内に存在していた。オーゴッホ派と呼ばれる彼らの中でも、とりわけ熱心な将兵は、トレードマークである黒マントを羽織って、オーゴッホに私的な忠誠を誓っていた。これを人々は黒衣隊と呼んだ。さして大規模ではないものの、正式に認めれらた部隊ではなく、オーゴッホの私兵団と批判する向きもあった。
「一大攻勢を仕掛ける準備かもって、オーゴッホ卿は見ています」
なるほど、ポロンとの戦争も長期化している。前線から離れている以上詳しい事情は分からないが、こうもずるずる長引いては士気も下がるし、厭戦気分が漂っている筈だ。ここで一気呵成に攻めて、戦争を早期に終わらせるというのは、有力な選択肢の一つだろう。ともすれば、近衛師団からも兵を出すつもりかもしれない。レガをはじめとして、近衛師団には強力な霊術軍人が多い。
無論、それは首都防衛を手薄にする事と表裏であって、そうまでして戦争目的が達成されるのかは分からない。有害思想集団の誅鋤というが、そもそも思想の根絶など出来るのだろうか? どこまでやればこの戦争は終わったと言えるのか、疑問を抱かないではなかった。
「あなたが再び前線に赴く事もあるのかしら?」
「いえ、自分は侍従武官ですから、流石にそれはないと思います」
侍従武官は要人警護の要である。職を解かれない限り、王宮を離れる事はないだろう。
「あなた様に捨てられぬ限り、ですが」
冗談めかして付け加えると、キーシャは至って真面目な表情で頭を振った。
「捨てるだなんて。あなたには、傍にいて貰わねば困ります」
数秒、間が空く。発言の意図を探ろうとして、無意識にじっと見つめる。視線の追及を拒むように目を逸らしたキーシャは、「さて」と手を合わせて立ち上がった。
「時間が勿体ないわ。レッスンを始めましょうか」
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