第17話 大法官の思惑

「法案は否決されました」


 ナイフを動かしていたシャオップ四世の右手が止まった。皿の上の仔牛のソテーから、はす向かいの席へと視線を転じる。そこに腰掛けるニック・ボンソール大法官は、咎めるような王の視線には気付かぬ素振りで、葡萄酒の入ったグラスを口元に運んだ。


「またか。庶民院め、拒否する以外能が無いのか」

「ええ、誠に」

「継戦は可能か?」

「財政的には厳しいです」

「実際どうなのだ、ニック。この戦争、まだ続けるべきか?」

「反王制主義者を根絶やしにせぬ限り、王国に安寧はありませぬぞ」


 我ながら紋切り型の表現と思う。現に王も、その言い分は聞き飽きたとばかりに眉をしかめた。


「ポロンにまで追討軍を出す必要があるのか? 国内ならまだしも、国外の不届き者など放っておけば良いではないか。我が国に入って来るなら、駆逐すれば良い」

「恐れながら陛下、かのガーヴィ十一世も同様に考えておりました」


 二年前の革命で殺されたポロン王国最後の王の名を出したニックは、ずり落ちてきた眼鏡を低い鼻の付け根に戻して続けた。


「反王制主義者達は、自分達が狙われていると知っています。故に王国内では身を隠す事に専心し、連中が言う所の啓蒙けいもうや勧誘といった目立つ活動は国外で行うのです。余所の事だからとポロン国王政府は放置しましたが、連中はポロンを放っておく気はなかった。徐々に勢力を拡大し、息のかかった者を次々に送り込んで、機を見て一気に国を奪い取った」


「そうなる前に、大本を叩いておくべきだと?」


「左様でございます。幸いにも我がニュークラントは、少なくとも小生が把握している限りでは、反王制主義の毒におかされていない。叩くべきです、叩ける時に。ここで軍を退けば、財政難という喫緊きっきんの課題は解決されるでしょうが、十年後、我が国の国体はまるで変わっているでしょう」


 太い鼻息がシャオップの鼻腔から吐き出され、口周りの髭を微かに揺らす。仔牛のソテーを口に運ぶと、難しい顔のままもぐもぐ咀嚼した。


「とにかく、戦費をどう賄うかだ。金が無くば、戦を続けたくても続けられん。あるいは庶民院の要求を呑んで、貴族にも戦時税を課すか」

「いえ、それでは恐らく元老院を通りません」

「余が説得する。場合によっては国王大権を行使しても良いのだ」

「教会が反対するかと」


 ちっと舌を打つ音が、二人きりの絢爛なダイニングルームに響いた。


「俗僧共が」


 憎らしげに毒を吐く。〈聖なる秩序の三角形〉というフェニール教の国家観において、神を頂角として、左右の低角を占めるのは王と教会である。即ち、神の下に両者は対等なのだ。

 

 ニュークラント含め、フェニール教を国教とする諸国の教会を束ねるのは、神聖ミラナ帝国内にあるミラナ教皇庁だ。自らの支配権の外側にいる組織であるからして、一国の王とて、教会を軽んじる事は出来ない。閣僚級に高位聖職者を据える慣例も、教会の意向を国政に反映する為で、歴代の王がいかに聖職者達に配慮してきたかの表れであった。


「神の名を利用して懐を肥やすような連中が、いざ財政難となれば負担を拒むか。神の道が聞いて呆れるわ」


 好き放題言って、勢い良くグラスを呷る。葡萄酒を含んでやや膨らんだ頬は、ほんのり朱色を帯びていた。


「いっそ教会を向こうに回すか」

「おやめになった方が宜しいかと。ヴィオニウスの二の舞になりかねません」


 シャオップのように、教会に反感を抱く君主は過去にもいた。その代表格と言えるのが、神聖ミラナ帝国の皇帝ヴィオニウス一世である。教会の意向を無視した政治を行った彼は、教皇の怒りを買って破門された。


 王権神授の裏付けを失い求心力を急低下させたヴィオニウスは、教皇領ハブルンまで赴き、謝罪した上で破門を解いて貰った。これが後の世に言う〈ハブルンの屈辱〉で、教皇の権威の前に君主が跪いた象徴的事件として、二百年経った今でも語り継がれている。


「ふん、余は教皇に頭など垂れんわ」

 屈辱の君主と一緒にされ気分を害したか、あるいは酔いが苛立ちに転化したか、八つ当たり気味に王は言った。


「そちは大法官であろう。教会が妥協しない以上、庶民院に新たな戦時税を容れさせるしかあるまい。出来ない理由を並べる暇があるなら、妙案の一つ持ってきたらどうなのだ」


 言うはやすしと、ニックは内心で愚痴を吐いた。議会がねじれているのである。庶民院の反抗的態度は今に始まった事ではないが、これまでは、金を掴ませれば大人しくなる議員がほとんどだった。


 しかし、今回は違った。議会派などと称して徒党を組み、傲慢にも自分達の権限強化を主張して譲らない。王制そのものを否定するほど急進的ではないが、王権は制限すべきという立場で、度し難い事に王妃がこれを支持していた。元帥を退き議員となったドミニク・オーゴッホまでもが加わって、一大派閥を形成するに至っていた。


 だから、キーシャだ。議会派の勢いを削ぐには、何よりあの阿婆擦あばずれを追い落とさねばならない。


「時に陛下、ご都合の宜しい日を伺っても?」

「何だ、やぶから棒に。話を逸らすな」

「いえ、逸らしてはおりません」


 庶民院に要求を呑ませる事と、全く無関係の話ではない。ソテーの一切れを口に含んだシャオップは、飲み込んでから答えた。


「明後日の夜なら」

「左様で。いや実は、宴の席を用意しておりまして、是非とも陛下にご出席いただきたいのです」


 何の宴だ、とは訊いてこない。王とて分かっている。無表情を繕ってはいるが、その裏にある淫らな妄想が透けて見えるようだった。期待を裏切らぬ美女を集めたつもりである。いかに妻を愛していようとも、言い寄ってくる若く美しい女達をあえて拒む理由もあるまい。そうして誰かが王子を孕み、王の心が王妃から離れていけば、王党派としては重畳ちょうじょうであった。


 ジャック・シリーが庶民院で拒まれたのは、庶子であったからだ。母親の問題である。三人目の王妃の子であれば、王位継承にも反対出来ない筈だ。


「空けておこう」


 グラスを手にしたシャオップは、弄ぶように葡萄酒を波打たせながら、平らな声で答えた。

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