第18話 運命の糸

 微風に揺れるアーモンドの花が、宮廷庭園の大きな池の水面に淡いピンク色を落としている。そのほとりに、シャオップをはじめとした王侯貴族とその取り巻きが集っていた。


 近衛の赤い軍服に身を包んだバルコは、後ろ手に組んで立ち高貴な人々を観察していた。談笑などしながら、総じてにこやかな表情を浮かべているが、傍らのキーシャだけは違っていた。フリルの袖から伸びた指先を前で組み、不安げな面持ちをしている。視線の先には、霊術師の代表的衣装である小麦色のチュニック――――父は道着と呼んでいた――――を着た、青年と少女の姿があった。


「さ、ハナリ殿下」


 上背のある青年がそう促すと、少女は強張った様子で「は、はい」と応じた。

 年明けから間もなく十歳になったハナリ王女が、本格的に霊術を学び始めたという事で、今回、関係者を集め公開授業という運びになったのだ。


「恐み、恐み、申し上げます。生命を司りし、森の女神コノハザクよ……」


 緊張気味に祝詞を唱えるハナリはいかにも健気で、微笑ましいと思うバルコだったが、一方で違和感も覚えていた。公開授業というのは教師たるパトリフ・レガ近衛師団長の――――即ち眼前の青年の――――発案らしいが、霊術の修行とは人前でやるものではない。少なくとも父からはそう教わった。


「違う。口先だけで唱えても無意味と、前にも言ったでしょう」


 レガが苛出しげに言うと、ハナリは目に見えて狼狽えた。きつく目を閉じて、祈るように指を組みながら必死に祝詞を繰り返す。こうなると悪循環で、平静を失えば術の行使は余計に難しくなる。一旦落ち着かせてやればいいものを、師たるレガは傍観するだけで、やがて「はぁ」と聞えよがしな溜息を漏らした。


「話にならん。王女殿下、あなたには才が無いようだ」


 ハナリのつぶらな瞳が潤み、落涙を堪えるように小さな口が両端を下げる。酷い、とバルコは思った。どんな術にせよ、顕現化は最初の大きな壁なのだ。習い始めて間もない者がいきなり公衆面前で出来るものではないし、まずは師が手伝って然りなのだ。


 あんな言い方……レガ卿はハナリ殿下を苛めたいのか。


 むらと、傍らで怒気が膨らむのをバルコは感じた。自身ですら憤りを覚えるのだから、キーシャは尚の事である筈だ。人前で娘を侮辱された母が抗議しようとするのを察知して、抑えるようジェスチャーする。


 ここは一つ、自分にお任せを。


 ハナリとレガに向き直ったバルコは、おもむろに二人に近付いて行った。注がれる周囲の視線を無視して、自らの腰ほどにある少女の肩にそっと手を置く。

「か、恐み、恐み、申しっ……」

 突然背後から触れられ、肩をびくつかせたハナリは続く言葉を呑んだ。丸い目を一層丸くして振り返ろうとする彼女に、「そのまま。目を閉じて」と努めて優しく言う。


「ここは深い森の中。木漏れ日が揺れ、足元にはアイリスの花が咲いている」

 呼吸が落ち着いていくのが肩を通じて感じられた。

「あなたの周りに今、人はいません。神がおられます」

「神が……」

「お耳を傾けておいでです。さあ、心中を打ち明けてごらんなさい」


 深呼吸を挟み、ハナリは幾分落ち着いた様子で桜色の唇を開いた。

「恐み、恐み、申し上げます。生命を司りし、森の女神コノハザクよ。どうか、私の声にお答え下さいませ」


 ふわりと柔らかな風が吹き、高級石鹸にも似た華やかな香りが鼻腔に広がった。アイリスの花香だ。この場に咲いていない花が香る不可思議は、神が起こしたささやかな奇跡に他ならなかった。

 状況が飲み込めていないのか、狐につままれたような顔をハナリが振り向ける。穏やかな笑顔で応じて、バルコは訊いた。


「何か感じませんでしたか?」

「お花の香りを……」

「アイリスです。吉報を表す花でして、霊術においては天の便りと解釈します」

「便り?」

「メッセージ、という事です。神がお答え下さったのです」


 口を半開きにしたハナリは、母親譲りのくっきりした目をぱちぱちと瞬いた。「凄い事ですよ」と、バルコは励ますように言った。

「神との交信、即ち術を行使されたのです。僕が十五歳で初めて出来た事を、王女殿下、あなた様は十歳でやってのけた。素晴らしい才をお持ちです」


 称賛の拍手が起こり、ようやくハナリは、自らが褒められるべき事をしたと理解したようだった。恥ずかしがり屋なのか、伏し目がちに片腕を抱いてもじもじしていたが、あどけない笑顔には隠しきれない喜色が浮かんでいる。上目遣いに視線を向けられ、バルコは少女の前に跪いた。


「王妃侍従武官のバルコ・デュッフェルです。突然のご無礼、どうかお許し下さい」

「あ、いえ、えっと」と目を泳がせるハナリに代わって、険悪な男の声が返事を寄越した。


「いいや、許さんな」

 

 声の方を向く。ハナリの背後に立つレガが、卑しい者を見る目でこちらを見下していた。後ろに撫で付けた金髪からは前髪が一房垂れ下がり、高慢を漂わせるへの字眉にかかっている。一年前会った時と何ら変わらぬ冷たい瞳は、立ち上がって尚高い位置にあり、見上げる形になる。


「俺の授業に割って入るとは、いい度胸だ」

 レガの口調は威圧するようであった。彼の顔を潰してしまった自覚はあったので、バルコは素直に頭を下げた。


「申し訳ございません、師団長閣下。出過ぎた真似を致しました」

「まったくだ。呼ばれもせんに出しゃばりおって、かくも己を顕示したいか」


 曲解きょっかいである。あなたの意地悪な指導が見るに堪えなかっただけだ、と内心で反論しつつ、口には出さなかった。「ふん」と鼻を鳴らして、レガは続けた。


「謙虚を知らぬ田舎の賤者め。里が知れるわ」

 そこまで言われて反駁はんばくを抑え込めるほど、バルコは大人ではなかった。


「では伺うが、レガ師団長、あなたのように攻撃的な態度で相手を挑発する事が、都会人のマナーなのですか?」

「ほぉ、下賤げせんの分際でこの俺にマナーを問うか」

「そういう言い方をする。指導者として不適任だ、あなたは。教え子の才も見抜けずに、よくもそんな尊大な態度が取れる」


 一歩、レガが距離を詰めてくる。鼻先が触れ合いそうな近距離で、恫喝するように殺気を放つ。負けじとバルコも剣眉をいよいよ吊り上げ、上官と睨み合った。


「覚えておけ。指導とはな、第一に人格否定だ」

「それは軍隊の理屈だ。第一に成功体験を与えてこそ、善き指導です」

「然して、貴様のような甘ったれが出来上がる訳だ」

「何だと……!」


「パトリフ・レガ!」

 一触即発の二人の霊術軍人の間に割って入ったのは、凛と響いたキーシャの叱声であった。

「我が騎士をそれ以上愚弄してみなさい。近衛師団長であろうと、許しませんよ」


 王妃にそう言われては、レガとて退かざるを得ない。キーシャに身体を向けたレガは、左手を胸に当て深々と頭を下げたが、その慇懃さが却って無礼だった。

「何を揉めておるのだ」

 毛皮で盛り上がった肩を竦めて近付いてきたのは、シャオップであった。


「我が娘が天と通じた、記念すべき瞬間であるというのに。のう、ハナリ」

「はい、陛下」


 父親から柔らかな笑顔を向けられ、姫御子の顔がぱっと明るくなる。まだまだ言いたい事はあったが、バルコは自重した。

「陛下。レガ師団長のこの物言い、改めさせるべきではありませんか」

 しかし、キーシャにそのつもりはないようだった。柳眉を逆立てる妻をなだめるように、シャオップは手の平を見せた。


「パトリフの教育方針については聞いておる。パトリフよ、そちとて、本気で我が娘を愚弄した訳ではあるまい?」


 問われたレガは、今度は嫌みの無い態度で「勿論にござります」と答える。何か言い掛けた妻の機先を制するように、シャオップは「パトリフの指導は厳しいぞ」と娘に話を振って、半ば強引に話をまとめた。下がるよう促されたバルコは、辞儀しつつ、鋭い一瞥をレガに投げた。いけ好かない近衛師団長もまた刃のような目で応じ、視線の一太刀をぶつけ合わせ、不服気に口を尖らせているキーシャのもとに戻った。

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