第9話 悲劇の王子
月の明るい夜だった。青白い光に照らされた田園から、げこげこ、げこげこと、蛙の鳴き声が聞こえてくる。眼下の景色は牧歌的だが、だからと胸の怒りを鎮めてくれるでもない。自室の窓に映る自身の険しい顔を見て、ジャック・シリーは、机上の
糞親父め。
事の発端は、二か月前である。王都から使者が訪ねて来て、こう言った。
――――ご子息の王位継承権が認められました。
母と祖父母は驚喜した。なかんずく喜んだのが、元宮女の母であった。
ビビアン・シリー、それが母の名だった。王の第一子を孕んだ王妃の側仕えとして、宮中では今でも語り草の筈である。
複数の女性と関係を持ちながら子宝に恵まれなかったシャオップ四世は、母の懐妊を大変喜び傍に置いた。
第二王妃、引いては王太后さえ夢見る母であったが、当時の王妃アレクシア・レンメルが指を咥えて見ている筈がなかった。
アレクシアと彼女に付き従う宮女らによって、母は陰湿な苛めを受けるようになった。それでも母は目げなかった。何となれば、王を味方につけていた。
間もなくアレクシアはとある事件で有罪判決を受け、処刑された。王妃は空座となり、そこに最も近いと言われたのが母であった。正しく我が世の春と、そういう気分だったに違いない。
母は無事に男子を出産し、王は我が子を可愛がり母を労ったが、その愛は長続きしなかった。
捨てられたのだと悟った母は、幼い我が子を連れて宮廷を去り、故郷であるこのデューイ群に戻って来た。かくてジャック・シリーは、母とその家族に育てられた。
枕を濡らす日々を過ごしながら、それでも母は諦めなかった。積極的な働き掛けこそしなかったが、情報は熱心に集めていたようで、キーシャが産んだのは女子だ、陛下の血を引く男子はお前だけなのだと、息子の王位継承を夢想しているのは明らかだった。
かかる十年であったからこそ、二月前に王宮の使者が齎したのは、母にとって正しく待望の報せだった筈だ。
それを、踏み
――――残念ながら、継承法改正案が庶民院を通りませんでした。我々としても最善を尽くしたのですが、まったく庶民院の議員ときたら……。
再びやって来た使者達は、悪びれもせず言い訳を並べた。皆まで聞かず、母は卒倒した。それ程ショックだったのだ。ぬか喜びだとかそういう次元の話ではない、弄ばれ、裏切られた気分だった筈だ。四日前の事だが、以来母は
だから、糞親父だというのだ。何が陛下だと、ジャックは、顔さえ知らぬ実父を内心で罵った。
どうだっていいんだろ、俺も母さんも。
むしゃくしゃしながら、何の気なく視線を森の方へと動かす。妙な光景が目に入り、ジャックは小首を傾げた。
木の下に、ローブを着た男がいた。いや、フードを目深に被っているから性別は分からないが、背格好からして男だろう。
こんな時間にあんな場所で、一体何がしたいのかと不審に思っていると、フードの下から視線を感じた。見られている。ぞっと悪寒が走り、ジャックはカーテンを閉めた。気のせいかもしれないが、外からの視線を遮断せずにはいられなかった。
もう夜も更けてきた。いい加減に眠ろうと立ち上がりかけた時、出し抜けに一階から女の悲鳴が聞こえた。母であった。怯んだのも一瞬、ジャックは自室から駆け出た。
母さん!
階段を降りる途中、襲撃者かと
黒い液体が、床一面を覆っていた。明かりの無い暗闇の廊下において尚際立つ、禍々しいまでの黒さである。
床上浸水か。しかし、雨など降っていない。雨水や泥水の類でもなさそうだが、であればこれほどの量の液体、一体どこから持ち込まれたのか。黒魔術、いや霊術の類か。
困惑していると、黒い水面に浮かぶ無数の目がジャックを見た。総毛立つ。きぃ、きぃ、と椅子が
十三年の生涯において、ジャック・シリーが最期に見た光景だった。
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