老いるという事

俺、下田哲シモダテツ。56歳。役職の無い普通のサラリーマン。独身。

俺は気にしていないのだが、うるさいのが母親。『結婚しないなんて出来損ない』だの、『孫を抱かせもしないなんて親不孝者』と事あるごとに言ってくる。煩わしいったらありゃしない。

3年前父が鬼籍に入るまでは盆正月、長期休暇に加えて、月1回は帰省していた。父と酒を酌み交わしながらいろいろな話をするのは楽しかったから。

でも、今は盆正月ぐらいしか帰らなくなった。電話する回数もめっきり減った。会うたび、電話するたび、結婚や孫の事、その他愚痴ばかり聞かされて嫌気がさしてしまった。


だがそうもいっていられない事態が起きた。母が骨折して入院したと病院から連絡が入った。

俺は休暇を取り、すぐに帰省した。俺の実家は新幹線で日帰りできるくらいの所にある。新幹線の駅からの方が時間がかかるくらいだ。


病院に着いた俺は受付で来院の訳を話すと、

「入院の手続きをお願いします」と係に引き継がれた。入院の手続きを済ませ、実家に帰って必要なものを揃え病棟に持参した。面会時間が過ぎていたため、看護師に荷物を渡し、後をお願いしてその日は帰った。そして、週末ごとに実家に帰る生活が始まった。

単純骨折だったのが幸いして、一ケ月ほどで母は退院し、家に戻ることが出来た。家事も大体できる。これで行かなくても済むなと思っていたら、電話がかかってきた。

『哲、今週も帰ってくるんでしょうね。買い物して欲しんだけど』

「ヘルパーさんに頼めよ」

『いやよ、お金がかかるもの、あんた毎週今まで通り来て買い物してくれない?』

「ふざけんな、そこまで行くのにいくらかかると思ってるんだ、交通費出してくれるのか?」

『何言ってんだか、結婚をしない孫も抱かせない親不孝者がそれくらいするの当たり前でしょ!償いに毎週来なさいね』と電話は一方的に切られた。

だが、退院後一ケ月過ぎるには頃には俺は行くのを止めた。案の定文句を言ってきたが、「もう動けるんだから、自分でやれ。出来ないことは福祉に頼れ」と言って相手にしなかった。


それから数か月が過ぎ、母の住む町の福祉課から電話がかかってきた。母の様子がおかしいというのだ。職員の求めに応じ久しぶりに実家に帰った。

福祉課の職員が駅に待っていた。彼女の車に乗って実家に向かった。

「ただいま」玄関を開けると母が出てきた。

「哲おかえり、あら、その方は誰?もしかしてやっと結婚するの!上がって上がって」俺が唖然としていると、職員が目配せをした。

俺たちは座敷に通され、お茶が出された。母が何かと話しかけてくるが一息ついたときに彼女が話し始めた。

「私、酒井美奈子さかいみなこと申します。今日伺ったのはお母様にお願いがありまして」

「何!何!何でも言って」

「実は、哲さんをお母様の代理人にしていただきたいのです。それと銀行で代理カードを作っていただきたくてそのお願いに来ました。実際のお世話は私がすることになりますが、血縁者でなくては出来ないので」

「そうなの、ちょっと待っててね」母は自室に行くととバックを持って戻ってきた。

「この中に入っているわ確認して頂戴」

「解りました」酒井と名乗った職員はバックの中を確認し始めた。

「銀行口座が3件あるんですね。まだ間に合いますね今から一緒に銀行に行きましょう」

「着替えてくるわね」そう言って母は立ち上がった。

俺は母がおかしいのをなんとなく理解した。酒井さんは一言も俺の婚約者とも付き合っているとも言っていない。呼び方をお母様としているだけで、話していることは事務的だ。なのに母は俺と彼女が結婚すると思い込んでいる。俺の結婚へのこだわりが原因なのか?


母が着替えてくると俺達3人は銀行に向かい、代理カードを作った。


家に帰り、お茶を飲んでいるとチャイムが鳴った。

「私が出ますね」と酒井さんが立ち上がり玄関に向かう。そして一人の男性を連れてきた。

「司法書士の田中さんです。お母様、もう一つのお願い代理人の申請をしたいのです。署名よろしくお願いいたします」

「ええ、いいわよどこに書けばいいの?」酒井さんは田中司法書士から書類を受け取ると示されたところに署名して実印を押した。

「ありがとうございます。後はわたくしが責任もってやります。哲さんとお話がありますので、外に出てきますね」

「ありがとうね、あなたがいるなら安心だわ」

「では、失礼します」3人で家を出た。


車で司法書士の事務所に向かった。そこで代理人の手続きを行った。

酒井さんが口を開いた、

「下田さんの認知症は進んできています、そして哲さんの結婚に対する執着が強くてヘルパーが世話に行くと。『哲の彼女かい』と繰り返し聞いてくるんです。

それに、このままでは事務手続きが出来なくなってしまいます。それで哲さんと一緒に行った時の反応次第でどうするか決めるつもりでした。下田さんが私の言うことを聞いてくださったので、哲さんを代理人に認定して。代理カードを作れました。話を合わせていただいて助かりました」

「そうだったんですね。私が話しても相手にしてもらえなかったんです」

「認知症と診断が出た段階で銀行の預金は引き出せなくなります。そうなると施設に入ることも難しくなるので、こちらとしても一安心です」

「でも、あなたとお付き合いもしていないのに、ばれませんかね?」

「大丈夫と思いますよ。私も時々顔を出すようにしますし、進行の程度にもよりますが」

「母の事よろしくお願いいたします。」俺は酒井さんに頭を下げた。


週末ごとに実家に帰る生活がまた始まった。母の認知症はゆっくりと進んでいく。



会社で仕事をしていると部長に呼び出された。平社員に何の用だろうと思って部長室に行った。ドアをノックして「下田です入ります」俺はそう言うと一礼して中に入った。部屋の中には部長ともう一人男性が・・・。

「下田君こっちに来たまえ」俺は部長の前に行きもう一度礼をした。

「今日君を呼んだのは、君の休みが余りにも多いのでね、母親の介護の為と言うことだが本当かね?」

「はい、半年ほど前に骨折してから認知症になりまして週末ごとに実家に帰っています」

「そうか、下田君来年57歳だよね、今会社で早期退職者を募集しているんだ。今退職すれば一時金が出るし、退職金も割増しになる。どうだろう考えてみないかね」

「はい、考えてみます」俺はそれだけ言うと部長室を後にした。

体裁のいい首切りか・・・・。有休を使い切り、生産性のない社員は会社に必要ない。会社側からすれば仕方のないことか。


会社から話があってから、俺はこれからの事をいろいろと考えた。帰省した時は担当の酒井さんにも相談した。


一番の不安は生活が成り立つかどうかだ。母は80歳を過ぎている。働いたことが無いから年金はさほど多くない。俺も年金の受給までには7年以上ある。退職すると国民年金を納めなくてはならなくなる。健康保険はどうなる?実家に帰って仕事が出来ればいい。だが、母の認知症の進行次第では、それも出来ないかもしれない。母が手に負えなくなったとき施設に入れるとなるとその費用はどうする。


問題は山積み。郷里に帰れば、家賃と、交通費がいらなくなる。ただそれだけにも思えた。それにあの母と再び同居することにも不安があった。


平均寿命は80歳を超え、90歳を超えて生きることも珍しくない。残された時間があと30年以上あることになる。その時間をどう過ごすかは自分が決めなくてはならない。そして俺も老いる。そのころは身寄りのない俺だから頼りになるのは自治体などの福祉になるだろう。今のうちに色々繋がりを作っておく方がいいのではないか?」


そう決心した俺は会社を早期退職し、郷里へと帰った。










   



































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