絶望の中で差し伸べられた手

俺の名は高岡純一たかおかじゅんいち、来年定年を迎える。年収は1千万超え、タワーマンションに妻と二人で住んでいる。子供たちは独立した。俺は退職したら退職金と年金で悠々自適の生活を送れると思っていた。ところが・・・。


妻の美子よしこは俺より8歳年下。専業主婦として俺を支えてくれた。その妻から定年後の家計について説明を受け、俺はあまりの厳しさに呆然とした。


年金が65歳にならないと貰えない、貰えたとしても月額手取りが24万ぐらいにしかならない。つまり今の月収の半分以下。おまけにボーナスもない。

それに妻は60歳になるまで国民年金を納めなくてはならない。

月の生活費を25万としても一年で300万。5年間だと1千500万かかる。だから、退職金をもらったとしてもぜいたくは出来ない。貯金も少しはあるが家計は苦しい。

生活費の縮小、妻はそれを提案してきたのだ。


それを聞いて俺は退職後が悠々自適とはいかないことに気がついた。ではどうしたらいいのか・・・。


そんなある日同僚と飲んでいて

「なんか辛気臭い顔してるけどどうした」

「ああ、定年後の事を考えるとな」

「なんだかみさんと何かあったのか?」

「いや、そうじゃない、あいつの話を聞いて経済的に苦しいと知ってね」

「確かに定年後の事は考えるよな。今から出来るのは投資かな?」

「投資?でも危険も多いんじゃ?」

「まあ、リスクは伴うけど当たったときは凄いぞ!」

「そうなんだ」

話はそれで終わった。だが、俺の中で投資と言う選択肢があることがどんどん膨らんでいった。


まずは俺の個人のお金でやるか。会社から直接帰ってきたお金などを溜めておいた預金がある。それなら家計に影響ないからいいだろう。

と、俺は早速銀行に言って相談した。

銀行員は「投資は初めてですか、投資をするには資金がいります。そして銀行の手数料を払わなくてはなりません。元金割れなどのリスクがあることをご理解いただけますか」俺は頷いた。

「それではこの書類にサインを投資する金額を決めて記入してください」俺は手始めだからと100万と書いた。

「それではお預かりしますね」こうして俺の投資は始まった。


はじめはうまくいった。買った商品がことごとく当たり、資金も増えて行った。増えると大きなかけもやりたくなる。思えばこれが落とし穴だった。


翌年退職し退職金を手にした俺は、毎日どうしようかと悩んだ。一気に賭けに出るか、堅実にやるか?

結局退職金を全額投資してしまった。これが間違いだった。投資した商品が一気に元本割れを起こし、銀行への手数料を支払うとお金は残らなかった。

俺は銀行に詰め寄ったが、「危険があることを承知で投資なさったんでしょう。元金の保証が無いことは最初に説明しましたよ」と言われ何も言えず絶望した。


家に帰った俺はこれからどうしよう。妻に何と言おうと思いソファに座って考えていた。

妻が仕事から帰ってきた。

「ただいま、どうしたの、明かりもつけないで?」

「美子、済まない、退職金を溶かしてしまった」

「ああ、やっぱり失敗したのね」

「知ってたのか?」

「ええ、銀行から連絡は来てましたから。まあ痛い目を見ないと止めないと思って黙ってました、最初はうまくいっていたようね、それで大きな賭けをやりたくなったんでしょう?」

俺は頷いた。

「これからどうしましょうかね、退職金が無くなったとなると残っているのはこのマンションぐらいかしら?、とにかく、着替えてお茶でも入れて来るね」

そう言うと妻は席を立った。離婚とか言い出すのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。暫くするとコーヒーとお菓子を持って戻ってきた。

「前にも話したけど、年金がもらえるのに後数年あるわ。私は仕事を続けるつもりだけど、それだけでは家計を支えきれない。そこでね、このマンションを売って郊外に安い中古住宅を買って引っ越さない。そうすればその差額がこれからの資金として残る」

「このマンションを売るのか?」

「ええ、今の状態だと生活の維持が難しいし、マンションの維持費もばかにならない。あなたが働いて買ったマンションという事は解ってる。でも、そうでもしないとこれからが暮らせない。後30年余命があるかもしれないのよ」

「それしかないか・・・」

「郊外に引っ越して、引っ越すときに思い入れの無い物は全部手放して荷物を軽くして、そしてあなたには一流会社の部長だったという過去の肩書を捨てて、自分の必要なお金は自分で稼いでもらいたい。私は自分の年金と自分が必要なもの、家計を支えるために働くわ。それでも生活は苦しいと思うけど」

「そうか、お前が離婚と言わないだけましか。確かにもうこのマンションの住人のレベルの暮らしは出来ないな。解った。お前の言うとおりにしよう」

「それともう一つ、今まではあなたのお給料で暮らしていたから、私が家事全般やって来たし、敬っていたけど、これからはあなたと私は同等の立場。協力してこの難局を乗り切るパートナーよ」

「そうだな、考えを変えるのは時間がかかるし難しい面もあるが、自分のことは自分でするようにするよ。家事は今までやったことないからできるところからになるが」

「そう思ってくれただけで充分よ。さ、お腹すいたでしょう。夕飯作るね!」

妻はそう言うと台所に立った。

俺は妻が色々と深く考えて対策を練っていたことにビックリした。そして俺は会社の中しか知らず、それは社会では通用しないのだと思えた。

変わらなくては、失敗した俺を見捨てずバートナーとして歩むことを選択してくれた美子の為にも。


その後俺たちはマンションを売り払い、少し中心部から離れた土地に小さな中古住宅を買い引っ越した。マンションがいい値段で売れたので、差額を老後資金に充てることが出来た。

俺は自分のことは自分でやり、出来る限り家事をやるようになった。そしてコンビニでバイトを始めた。覚えることが多くて大変だが妻に言われたようにプライドを捨て、新入社員の心構えで仕事に励んだ。

妻はパートではなく正社員としてフルタイムで働いた。


生活が落ちついた頃、俺より働いている妻を少しでも楽させてやりたいと、料理を始めた。最初は玉子焼き一つに苦労したが、だんだんと上達するうちに面白くなり、スマホで新しいレシピを見つけては挑戦した。妻も疲れて帰って来てご飯が出来ているのを大変喜び、失敗したものでも『美味しい』と食べてくれた。

もちろん材料費は俺の給料から出したし、片づけまでしっかりやった。


会社勤めをしていたころよりも夫婦仲がよくなり、お互いをいたわりあうことで絆も深くなってきた。一緒にいる時間が増え、TVを見ながら笑い、楽しく暮らすことが出来た。


将来に不安が全くないわけではない。でも妻と二人ならどんなことでも乗り越えられる。

あの時俺を見捨てなかった妻に感謝しながら日々過ごしている。












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