誤算

俺は、朝葉克良あさはかつら60歳、もうすぐ定年を迎える。定年後はゆっくりと暮らしたい。まあ、今の年収に見合った年金と、貯金と退職金があれば悠々自適に暮らせるだろう。

でも、俺には不満があった。専業主婦の妻の事だ。働いてもいないのに家計はすべて妻が握っている。退職後の暮らしの事とか、健康管理の事とかとにかく細かい。俺はそんなのどうにでもなるし、退職金は俺の働いたご褒美だから俺が使いたいと言ったがすべて却下。煩わしいったらありゃしない。

今は会社に行っているからいい。定年後毎日家に一緒にいなくてはならないのかと憂鬱になった。

そんな時俺は同僚の話を小耳にはさんだ。

『佐藤さん離婚したらしいぜ』

『離婚?佐藤さんもう少しで定年だろう?』

『そうだけど、今はやりの熟年離婚ってやつ!』

熟年離婚?俺にとっては初めて聞く言葉だった。調べてみると俺のように長く夫婦として暮らしていた者たちの離婚をそう呼ぶらしい。

離婚か、その手があったか。俺は自分も離婚すれば退職後静かな暮らしが出来ると思った。

数日後俺は市役所から離婚届を取ってきて、妻に言った。

「おい、この書類にサインしてくれ、離婚しよう」

「離婚?藪から棒に何ですか、どうしてそんなことを」

「定年後お前と一緒に暮らすのは嫌なんだよ。金も自由に使いたいし」

「そうですか。そんなふうに私の事と思っていたんですね。まあ考え無しの人とは思っていたけど、ここまでとわね。今すぐ離婚は出来ませんよ」

「なぜだ」

「理由が無いからですよ。私には」

「お前俺の稼ぎでずっと暮らして来てそんな態度なのか」

「とにかくすぐに結論は出せません」

妻の態度は変わらない。俺は苦虫を噛み潰したような気分だった。


数日後息子の貴浩たかひろから電話があった。

『お父さん、お母さんと離婚したいって?』

「ああそうだ」

『で、離婚の理由が定年後お母さんと一緒に暮らしたくないし、お金を自由に使いたいからで合ってるの?』

「そのとおり」

『そんなの離婚の理由にもならないよ。どうしても離婚したかったら、財産分与と慰謝料の支払いに応じるんだね』

「なんでそうなる」

『お父さんが理由もなしに一方的に離婚しようとしているからだよ。まあ、お母さんはこっちで引き取るよ。一緒に暮らさせているのも心配だし』

数日後妻は家を出て行った。


俺は離婚したいと思っているが妻はそうではないらしい。貴浩の家にいるんだから生活費もいらないしなんで財産を分けないといけないのか理解できなかった。


ところがそれから2週間ほど経って、内容証明郵便が届いた。中には妻の代理の弁護士が、財産分与、慰謝料、そして年金分割に関する事項を話し合いたい。と言う内容だった。

俺は、離婚には応じるが、財産分与、慰謝料、年金分割には応じないと回答した。


それからしばらくは何の音さたもなかった。あきらめたかと思っていたら、家庭裁判所から、『調停離婚の案内』の書類が届いた。書類を読むと〇月〇日午前10時に家庭裁判所に出頭するようにと書かれてあった。


裁判所への出頭。これはただ事ではない。俺は専門家に相談することにした。

無料相談所の弁護士は「この書類を見る限り、奥さんと離婚するためには財産分与と年金の分割は最低必要ですね。後、あなたから一方的に離婚を切り出しているのなら、慰謝料も払わなくてはいけなくなります。さらに、預貯金だけでなく生命保険料や、退職金も財産分与の対象になりますよ、それに家や車などの家財もね」

「なんですって!あいつは一回も働いていないんですよ。俺の稼ぎで暮らしていたのに何で残った預金とかを分けなくてはいけないんですか?」

「法律上は、奥さんが家事全般、育児、家計管理などをしていたから財産が残っていると考えます。奥さんがいたからこそあなたは働き続けることが出来た訳ですから。上申書によると、あなたは奥さんの内助の功を無視して自分本位の理由で離婚を切り出してます。貴方に勝ち目はありませんよ」

俺は絶句した。

俺は離婚すれば財産は全部自分のものとなり、一人なら悠々と暮らしていけると思っていたから。

「どうしますか、奥様には弁護士が付いているようですし、あなたも弁護士を依頼しますか、弁護士報酬はかなりかかりますけどね。あ、それともう一つ。今奥様とは別居なさっているそうですが、その期間の生活費『婚姻費用』も毎月分払わなくてはなりませんよ。これも法律で決められていることです」

弁護士の話を聞いても俺には理解できなかった。


弁護士に依頼することも出来ず調停の日は来てしまった。俺は仕方なく一人で家庭裁判所に出向いた。

通された部屋には妻はいず、妻の雇った弁護士がいた。そして調停員。彼らと話をしたが大体弁護士に聞いた話を繰り返すだけ。俺の主張は全く通らないと言われた。

調停員が「双方離婚することには同意していますから、後は財産分与などの金額を決めるだけです。朝葉さん、あなたの財産を裁判所の権限で把握して、金額を出します。いいですね。承知なさらなかったら裁判になりますよ」

「裁判・・・」それを聞いて俺は承知せざるを得なかった。


数カ月後、裁判所から調停の判決が出た。財産分与、慰謝料、婚姻費用を支払い、年金分割を行うという内容。その金額に俺は絶句した。

そして妻との離婚は成立した。


俺は離婚を切り出したがために、家族を失い。財産を失い、老後の生活もままならなくなった。

そして、今になって元妻が、退職後の先を考えて物事を言っていたことに気付いた。

でも、もう遅い。一人になってこれからどう生きればいいのか、先の見えない迷路に迷い込んで、抜け出せない。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る