青いつばめ
葵 春香
第一章
第1話 ベンチの青年
藍子がタイムカードを押して大学の図書館を出たとき、茜色の夕陽が玄関を照らしていた。少し肌寒さを覚えて上着を羽織ると、藍子は一気に階段を駆け降りた。
陸上部の練習を終えて帰宅した優斗がおなかをすかせている頃だろう。今夜は何を作ろうか。正門を抜けて駅に続く並木道を歩きながら、藍子は冷蔵庫の食材に思いを巡らす。
ふと、視界の端にベンチに座り
また。いつもこの時間ここにいる。
青年は華奢な体を背もたれ深く腰かけて、向こう岸を眺めながら座っていた。
うちの学生だろうか。友達はいないのかしら。藍子はまるで母親のような気持ちで目の前の青年を思う自分に、心の中で苦笑した。それでも通り過ぎがてら一瞥して、その瞳のきれいさにどきりとした。
なんだか寂しそうだった。
電車の窓におぼろげに映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、藍子はそう思った。
館内を歩きながら、著者名が五十音順に並んでいるか目で追う。時折全く違う分野の本がぐいっと押し込められているからだ。背表紙のタイトルから内容をなんとなく推測するのが、仕事のささやかな楽しみのひとつだ。
藍子がこの大学で司書の手伝いとして週三日働き始めたのは、この春からだ。優斗も四年生になり部活が始まると、母親としてまたひとつ手が離れたように感じた。
自分の住む町ではなく少し離れた町で働きたい、出産前まで勤めていた編集プロダクションは拘束時間や体力の面で厳しいが、何か本に携われる仕事はないか、そんなふうにして探した仕事だった。
『白痴』
藍子は懐かしそうに文庫の背表紙に目をとめた。大学時代によく読んだっけ。今でも寝室の本棚にあるはず、装丁は違うけれど。
ドストエフスキーは藍子の愛読書だった。彼の長編小説を読んでいると、まるで旅行をしているような感覚がしたものだ。部屋でも電車の中でも、本を開けばそこにもう一つの世界が待っていた。日本でもない時代も違う世界の登場人物たち。読みかけの本がある時は、本の世界を思い出しては現実と行ったり来たりした。
「沢田さん。その仕事が終わったら、バックヤードに来てくれる」
司書の藤木に背後から声をかけられはっとする。いつの間にいたのだろうか。
「はい」
返事をした後、どきどきしながら急いで残りの背表紙に目を通した。
バックヤードに続く細い廊下を足早に歩く。この先にある部屋で、いつもはビニールのブックコートを本に貼る作業をしている。藍子が白い扉を開けると、藤木がテーブルの奥に座っていた。
「どうぞ座って」
藤木は少し微笑むとまた厳しい表情になった。藍子が自分の向かい側に座ると、藤木は言葉を選びながら口を開いた。
「あのね、館長から採用時に聞いていると思うのだけれど、沢田さんは産休に入られた方の代わりで、臨時として働いて頂いているのね」
藍子は、何を注意されるのかと身構えながら少し目線を下げて頷いた。
「分かると思うのだけれど、その方は月曜から金曜まで入っていて沢田さんは週に三回でしょう? どうしても以前のようには回らないのよね。それで他のスタッフが休憩時間を減らしたりなんかして少しずつ協力して対応しているの」
そこまで話すと、藤木は藍子の表情を
藍子は自分が何を注意されているのか、なんとなくではあるが把握しながら頭を下げた。
「すみません。なるべく皆さんのご負担にならないようにと思っているのですが、仕事が遅くて……。頑張ります」
藤木はそれを聞いてほっとしたように息を吐くと、少し考えながら話を続けた。
「沢田さんは読書家だという話は伺っていてね、それはこの仕事には大事なことよね。だけれども、もう少し本と距離を置いて欲しいのよ。見ていて手が止まったように感じる時が何度かあって。作業効率のこと忘れないで」
藍子は申し訳なさそうにまた頭を下げた。
「それとも何かご家庭の悩みでもあるの?」
藤木は藍子の目を覗き込むようにしてそう付け足した。
「あ、いえ。違います。ぼーっとしているところがあって、本当にすみません」
絞り出すように答えてまた頭を下げる。
「そうよね。沢田さんのところはお子さんお一人でご主人は一流企業にお勤めだし、ゆとりあるものねぇ。羨ましいわ。うちは上が大学生で下は今度大学受験だから大変よ」
藤木は世間話でもするように独り言ちると、
「そういうことなのでちょっと気を引き締めてお願いしますね」
と、また厳しい顔で話を終わらせた。
その日、藍子は終業まで少し緊張しながら仕事を続けた。もう一人のスタッフである内山さんも自分の仕事ぶりに不満があったのだろうか。そう思うと恥ずかしい気持ちと情けない気持ちで、何気ない仕事上の会話さえも言葉少なになった。
正門を出て、いつもの並木道を右に行こうとして立ち止まる。
今日はこのまま左に曲がって目的もなく歩こうか。
ここをまっすぐ歩いて並木道の行き止まりを外濠の向こう側へ渡り、そのまま道なりに歩けば、新宿の方へ出る。二十年前に大学生だった頃、藍子はよく都内を歩き回ったものだ。景色を見るともなく見ながら心を整理する。悩み事がある時やいらいらしている時よくそうしたものだ。
藍子が並木道の先を想像していると、優斗の顔が頭に浮かび、はっとしてその考えを打ち消し、右に曲がり足早に歩きだした。
木陰のベンチにあの青年の姿はなかった。藍子は寂しいような不思議な気持ちを覚え、そんなふうに感じた自分に少し驚いた。今日は友達と一緒かもしれない。そう思い直して、青年の寂しげな横顔を頭から追い払い駅へと急いだ。
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