黄昏へ
さて、晴れて人ではなくなった私が
何年も世話になった、食糧や水に縮小魔術と凍結魔術がかかった小瓶を鞄にありったけ詰める。これを専門に取り扱っている店があって良かったと何度思ったことか。植物の育て方も調理のやり方も分からなかった幼少期は、この小瓶が無ければとっくに死んでいただろう。
引き摺る程ある髪は高い位置で一つにまとめる。ドレスに見合う黒いコーンヒールを履き、ある時雑貨屋で見付けて大切にとっておいた、炎を模したイヤーカフを左耳に着けた。頭を動かす度、耳たぶのピアスと繋がった細いチャームがチャラ、と小さく鳴る。鏡の前で一回転して身なりを確かめた後、大きなローブを頭からすっぽりと被った。
何年も一人で過ごした廃墟の街を後にする。未練なんてものは欠けらも無い。二度と戻ってくることはないだろう。
別世界への行き方は難しいようで案外簡単だ。下の世界へ行きたければずっと北に歩いて、ただひたすら北に歩いて、そうすると段々辺りが濃い霧で包まれてくる。その霧の中をまっすぐ進むと、青い目玉の様な宝石が沢山ある洞窟に辿り着く。その洞窟を下りていくと下の世界へ行けるといった寸法だ。
もし上の世界へ行きたければ南へ。同じ調子で歩いていると霧の中に洞窟があるから、それを上っていけばいいだけだ。
私は寝て起きてを十五回程繰り返して、青目玉の宝石がある洞窟へと辿り着いた。ローブの胸辺りを一度強く掴んで、ゆっくりとその中に足を踏み入れる。洞窟内は宝石が淡く光っており、本の文字が読める程度には明るかった。
ヒールが硬い岩肌を叩く音だけがこだまする。薄明るい光源の元である目玉の様な宝石が、全部私を見ているみたいで心地が悪かった。
ドレスの裾の炎のお陰で足元は十分に見えていたが、奥へ進んでいく度に私を睨んでいた青目玉の数は半分程に減っており、洞窟の中は薄暗かった。
もう時間や距離の感覚が分からなくなってきた。どれほど進んだのか、本当に辿り着くのか、不安が渦巻いて叫び出しそうになる度、ローブを握り締めてアレウス様を思い浮かべた。
もう前を見て歩くことが辛くなって、ローブから見え隠れする裾の炎を見つめながら歩いてどの位経ったのだろうか、不意にじわりと足元に薄光が差した。はっとして顔を上げると、ずっと先に小さいものの白い光が見える。
途端随分軽くなった鞄を投げ捨てて、不安も疲れも無かったかのように駆け出す。ひんやりとしていた空気が、出口に近付くにつれて温かくなってくる。はやる気持ちが抑え切れず、勢いに任せて光の中へ飛び込んだ。
ゆっくりと瞼を開けると、そこは入ってきた場所と同じような濃い霧の中だった。背後には私が出てきた洞窟が青い光を灯しながら佇んでいる。
ここは既に
方向感覚を失いそうな濃霧の中を進み続けると、徐々に周りの景色が見えてくる。そろそろ全貌が見えると思ったその時、一際強い風が吹いて思わず顔を腕で覆う。風が収まりそろりと目を開けた私は、目に飛び込んできたその景色に圧倒された。
空は夕陽よりももっと赤くて、黒煙の様な薄雲が所々空を覆っている。赤茶色のごつごつした山肌やあちこちで燃え盛っている黒い地面、そして高い城壁と城門に囲まれた城下街。
本の上で見ただけの景色、来たこともない世界、それなのにやっと帰ってこれたという気持ちが胸の中に広がった。人であれば火達磨になる灼熱の風が、頬を撫でる感覚が心地良い。張り詰めていた気持ちがふっと緩んだ気がした。そして同時に、眼下に見えるあの城に行かねばならないと強く思った。
山を下り、地面が剥き出しの黒い野を歩きて近付くにつれ、小さく見えていた城門は見上げる程に大きくなっていった。固く閉ざされた門も、私が上に何人連なればいいのかと思う程に大きい。
一体私はどうしたら、この中に入ることが出来るのだろうか。まさか押してこれを開けろという訳ではあるまい。試しに近付いて少し押してみるもびくともしない、当たり前だ。
早くも躓きそうになって、唸り声を出しながら腕を組んだ。
「アンタ、中に入りたいんっすか」
突然頭上から声がした。顔を上げて窺うと城門の横、私を三、四人分積み上げた位のところから、黒いマスクをした白髪のひとが窓枠に片腕を乗せてこちらを見下ろしていた。どうやらあそこ辺りは見張り塔の様になっているようだ。
「というか見ない顔っすね。外から商人以外のひとが来るのも珍しいし」
そう言いながら白い髪のひとは窓枠を乗り越えて、そのまま空中に身を躍らせた。間抜けに悲鳴ともとれない短い声を上げた私の前に、そのひとはふわりと着地した。袖を通しただけの分厚い黒いローブと長いカソックの裾が膨らんで、着地と共に元に戻る。
降りてきたひとは寝癖なのか癖毛なのか分からない、少しだけ跳ねている白い髪を、余る程に長い袖で撫でた後こちらに目を向けた。黒いマスクをつけているせいで表情はよく読み取れない。隈のある赤い目がじっとこちらを見下ろしている。
「さて、フード取って顔見せてくれませんかね。あと出来れば名前も。悪いっすけどそれが仕事なんで」
「……あの、何処かでお会いしたことありますか?」
「へ?」
思っていたことが思わず口から零れ出てしまった。確証なんてものは何一つ無いが、鮮やかな赤い瞳やローブとカソックという組み合わせに、どうも薄っすらと見覚えがあるのだ。
「女性からのお誘いは嬉しいっすけど、残念ながらそのフードは脱いで貰いますよ」
どうやら顔を見られたくない口実だと思われたようだ。だが仕方無い、タイミングと言葉選びのせいで彼がそう捉えるのも無理はなかった。自分の発言を少しだけ後悔しながらフードを取ると、そのひとの目が少し開かれたような気がした。
「あのー、あぁ言っといて何なんすけど、
「え?」
次は私が気の抜けた返事をする番だった。
「いや口説いてるとかそんなんじゃなくて、マジで見覚えあるんすよ。ここでも赤髪なんてそうそう見ないんで……。シツレーっすけど、どこ出身か聞いてもいいですかね」
「出身……
「は!?
軽くてフラフラしていた声が一変、辺りに響き渡る程の大声が白髪のひとのマスク越しから飛び出た。眠そうな目は大きく開かれて、有り得ないものを見る目でこちらを見下ろしている。
何故このひとがこんなにも驚いているのかよく分からなかったが、そういえば人族は生身で
「はぁー、「妖魔下り」……。人族がやるのは珍しいけど、それだとその目とか髪にも納得いくっすね」
「いえ、髪色は生まれつきなんです。これのせいで散々な目に遭ったんですけど、ある方に綺麗だって初めて褒めてもらえて。その方に命を捧げる為に人を捨ててきました」
そう言うと、彼はまた眠たげな目を大きく見開いた。
「……もしかしてっすけど、アンタこんくらいの髪で、こんくらいちびっこかったりしました?」
白髪のひとは自分の耳の下辺りに手を当てて、それから腰辺りに手を持っていった。肯定の意を込めて首を数度縦に振ると、何か納得したように溜め息を一つ吐いて、袖の中に入ったままの手で後ろ頭を掻いた。
「あー思い出した……。アンタ、アレウス様に頭撫でられてた人族の子どもっすね?」
「え、何で知って……」
「あん時自分も居たんっすよ。人族であんな赤髪も珍しいし、あのひとが人を愛でてるなんて有り得ねー光景っすからしっかり覚えてるんすけど。人族は成長が早いから分かんなかったんだな……」
心做しか落ち込んでいるように見える彼に、慌ててこの見た目は「妖魔下り」を行った際に突然変わったもので、その前はほとんど変わらず小さかったことを伝える。途中、何故私はこんな必死に身長について弁解をしているのだろうと頭の隅で考えたりもした。
私の話を聞き終わった白髪のひとは大きく息を吐いてから、改めて赤い瞳をこちらへ向けた。
「情けねーとこ見せちゃって申し訳ねぇっす。んで、アンタがそうまでしてここに来た理由って、アレウス様に仕える為……ってことでいいんすね」
深く頷くと、彼は自分が居た見張り窓辺りを見上げて長い袖を一度振った。低い音を立てながら重厚な扉がゆっくりと開いていく。
「自己紹介してなかったっすね。自分はグリム、グリム・リーパーっす」
「トラキアと言います。よろしくお願いします、グリムさん」
「っす。じゃあ改めて、
ひとが十分に通れる程開いた扉へ入るよう、片手で促しながらグリムさんは軽く上体を曲げる。それに従って、私は夢にまで見た世界に足を踏み入れた。
「す、ご……」
一歩足を踏み入れただけで圧倒される。城壁の中は家や店などが建ち並び、正面に見える大通りはひとで溢れかえっていた。驚いたのはそれだけではなく、竜人、セイレーン、エルフ、ヴァンパイア、ラミア、マミー……目に付いたひと達だけでも、こんなに多くの種がこの国では共生していた。
「知ってるだろうけど、神妖族は色んな種をまとめてそう呼ぶんすよ。まぁそうなると
へらりと笑ってグリムさんは言葉を続ける。
「様々な種が入り交じってるが故に混沌としてた
ああ、本当にそう思う。この世界を治めただけではなく、民のことを考えて種族名をつけるとは。やはりあの方は偉大だ。
前方から歩いてきた竜人を避けながら、動物型の面頬をつけた美しい顔を思い浮かべる。思わず口元が緩みそうになるのを堪えながら、隣を歩くグリムさんに質問を投げ掛けた。
「そういえばグリムさんは何の種なんですか。見た目で分かりませんけど」
「自分っすか。自分は死神ってやつですね」
死神。聞いた瞬間飛び上がらなかった自分を褒めてやりたい。
死神とは名の通り神族、しかし他者の命を狩ることから魔族と言われることもあり、その二種族どちらともいえないから神妖族とも言われている種だ。宙ぶらりんでありながら生死を司っている為、どの種族に属したとしても位が高い種であることは間違いない(と数年前読んだ本に書いてあった)。まさかこの目で見る日が来ようとは。しかしなんというか、些か……。
「イメージしてた死神っぽくないなって思いました?」
「い、いえそんな……!」
「良いんすよ、言われ慣れてるんで。でも、これでも優秀なんすからね。因みに先言っとくと、カソックを着てるのは人族に近付きやすいからっす。神父ってのは随分信用されてるみたいなんで」
ローブは死神っぽいかなと思って着てるだけっす、なんて付け足されてしまえば、私の中の死神のイメージが物凄い勢いで崩れ去ってしまう。もしかしたら彼が特殊で、他の死神は本で読んだ通りかもしれないと思い直すことにした。
その後も、この街のことや通りかかった店のことなどを教えて貰いながら歩いていると、いつの間にか大きな建物の前に辿り着いた。これが城で、城主はアレウス様なのだと直感で分かる。
「こっちっす」
長い袖で手招きをして、私を呼ぶグリムさんの後についていく。何の種か分からないが私の四倍はあるひとが二人、大きな入口の左右に石像みたいに立っている。横を通った瞬間に持っている武器を振り下ろされないか不安だったが、そんなことされる訳も無く、すんなりと城内に入ることが出来た。
城の中は賑やかだった街と打って変わって、水を打った様に静まり返っている。私とグリムさんの足音だけが反響して石壁に吸い込まれていく。こんなに静かだと、心臓が早鐘を打つ音が彼にまで聞こえていそうだ。
それなのに、グリムさんは城内に入ってから一言も発していない。ここに来るまで沢山話をしたからか、静かな彼に一抹の不安を感じてしまう。
何処に向かっているかも分からないまま後を追っていると、不意に黒い背中が歩みを止めた。
「そのローブは脱いどいてください。自分が貰うんで」
突然言われたその言葉に困惑しながらも素直に従う。ずっと厚いローブの中に入れて押さえていた長い長い髪は自由になり、大きく開いた胸元は外気に晒されて一瞬だけ寒気を感じる。相変わらず黒いドレスの裾は、何処にも燃え移らず赤々と燃えていた。
「じゃ、行きますか」
何処に、と返す間もなく、私のローブを抱えたグリムさんは目の前の扉を勢い良く開けた。
「謁見中申し訳ねぇっす。どうしても貴方に会いたいと言う奴が居るので、急遽一人追加で頼みます」
頭が追い付いていない中、黒い大きな背中は私の前から横にずれる。扉の向こうには広い絨毯を分けて左右に多くのひとが集まっており、全員がこちらを凝視していた。ホラ、とグリムさんに背中を叩かれ二、三歩前に進む。思わずよろめいて前屈みになっていた顔を上げた。
誰も立っていない真っ赤な絨毯の先、数段高くなった場所にある大きい豪奢な椅子、長年想い続けてきたひとが、そこに座していた。
鮮血の様に真っ赤な鎧、ツタの様に伸びている装飾は金色で、更に赤色を映えさせている。鎧と同じ赤い額当てからは金色の角飾りが天を刺す様に伸びており、鎧と同じ赤色の狼の型を模した面頬、耳には大きな金色のリングピアスが光っている。鎧の真ん中についている大きな赤い宝石が、室内を照らしているロウソクの火を吸収して淡い光を放っていた。
目は吸い込まれるような黒の中に金色の瞳が浮かんでいて、後ろに撫で付けられた短い髪は、鎧に負けず劣らず目を引く美しい夕陽色だ。
記憶よりも鮮明な情報が脳内に飛び込んできて、固まったまま動けなくなる。
美しい、ずっと想い続けてきたひと、お会いしたかった、そんな言葉が頭の中をぐるぐると回るだけで、何も言葉を発せない。周りのひと達がざわめく音も、遠くから聞こえているかのようにぼんやりとしていた。
「綺麗な髪してんな」
場を静まり帰らせ、私を現実へと引き戻す低い声が室内に響く。敬愛するひとが肘掛けに頬杖をついて足を組んだまま、金色の瞳でこちらを見ていた。
「目を引く綺麗な血色だ。よく見りゃ目はオレと同じか?ハハ、そんな綺麗な顔立ちしてりゃ、引く手数多じゃねェのかお前。……あ?何か前にも似たようなこと言った気がすんな」
くわんくわんと反響している様な低い声が響く度に、心臓が痛い程跳ねた。そして二度も髪を褒めて貰えたこと、そしてあの時をなぞるような言葉に、えも言われぬ感情が込み上げてくる。
小さく息を吐き出してから背筋を正し、しっかりと絨毯を踏みしめながら眼前の玉座に近付く。先程よりもずっと表情が読み取れる距離で歩みを止め、精一杯平気なふりをしながら片膝を付いて口を開いた。
「突然の謁見をお許しください」
「いやいい、気にすんな。あと立て、折角の髪が汚れるだろ」
「……っ、ありがとうございます」
こんな時でもこちらに気を使ってくれるとは思わず、カラカラの喉から感謝の言葉を絞り出してゆっくりと立ち上がる。彼はじっとこちらを見ながら言葉を続けた。
「グリムが連れてきたってことは他所
数多の視線が私に突き刺さる。鼓動が耳元でしているかのようにうるさく、体の震えも止まらない。冷や汗が首筋を伝う感覚がする。しかし同時に、感情が静かに昂っていくのも感じた。そうか、これはあれか、武者震いというやつか。
ひとつ大きく息を吐き出して、流れる汗と自然と上がる口角をそのままに、室内に居る全員に聞こえるよう声を張り上げた。
「トラキア、元人間、貴方様に一生を捧げる為に妖魔上りして参りました!」
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