グッバイ アンド ハロー

 薄闇からじわじわと意識が浮上してくる。体が痛い、硬い床の感触がする。また本を読みながら寝落ちてしまったのだろうか。

 小さく唸りながら上体を起こすと、ばさりと顔に赤いものがかかって思わず反射的に払い除ける。払い除けたそれは、長い長い私の髪だった。


「は、なんで、」


 思考が追い付かなくて訳も無く頭を動かすと、髪が顔にかかり口にも入った。

 何故こんなにも髪が伸びている?手入れが楽だという理由で、ここ数年も幼い頃のようにずっと短くしていた筈だ。

 訳も分からず口に入った髪を吐き出して髪を掻き上げてから、体も大きくなっているということに気付いた。座り込んでいても分かる位に手足は伸び、見たことが無い黒い服を纏っている。ぺたんこだった胸もそれは豊かに育っていた。自分のものとは思えないたわわな胸を数度触り、そして呆然としながら自分の体を上から眺めて下半身に目を向けた時にやっと気が付いた、服の裾が静かに音も出さず赤い炎を出して燃えている。

 声にならない悲鳴を上げて手で火を払うが、一向に消える気配が無い。自分に燃え移るのも時間の問題だと衣類を破り掛けて、ふと火が全く熱くないことに気が付いた。というか裾辺りからそ以上燃え広がる気配が無い。感覚が可笑しくなったのかと改めて手をかざしてみるも、やはり火傷のひとつすらしなかった。

 まだこれが現実であると受け止め切れていないまま、ゆっくりと立ち上がる。今までとは比べ物にならない程に視線が高く、少しくらりと目眩がした。

 数歩ふらついてからやっと両足で踏ん張る。顔にまとわりついた髪を払ってから、自分の姿を改めて眺めた。私が纏っていたのは、黒いシンプルな細身のドレスらしかった。胸元が大きく開いており、その中心には赤い大きな宝石が付いている。ドレスには太腿辺りから大きくスリットが入っており、そこから裾にかけて赤々と炎が燃えていた。

 これは一体どういうことだ?私の体に何が起きた?

 自分自身を観察して、少し冷静になった頭で思い返す。確か禁術の「妖魔下り」を行って、何も起きないから失敗したと思って、かと思ったら術の素材にしていたサラマンダーの皮から光が出ていて……。


「え?死んでない?生きてる?」


 確かにあの時、全身を焼き尽くすような炎に包まれた筈だ。では何故私は生きている?こんなにも成長した姿で。

 まだ慣れない長い足を動かし、ドレスの火の粉を落としながら鏡の前まで走る。図書館の廊下にある大きな鏡に写ったのはボサボサの赤髪を持つ小さな子どもではなく、床に引き摺る程長い真っ直ぐな赤髪の、黒い目に金色の瞳を持った女性だった。

 鏡の中の女性は私が口を開くと口を開き、鏡に手をつくと同じところへ手を合わせる。

 間違い無い、これは私だ。だが何だこの髪は、何だこの体は、何だこの格好は、何だこの目は!これは、これではまるで、神妖族みたいではないか!


「は、はは……ははは……」


 自然と口角が上がり、笑い声が零れる。

 何年経っても大きくならない体、肩にもつかない短さのざんばらの赤髪にインクの様な黒い瞳。それが今ではどうだ。艶やかなたっぷりとした赤髪に、細身のドレスが似合うすらりとした肢体、そしてアレウス様と同じ黒い目に金色の瞳。


「な、んだよ……成功してるじゃん……」


 大の字に後ろへ倒れ込む。受け身を取らなかったせいで頭をはじめ全身あちこちが痛いが、それ以上に安堵と歓喜が勝っていた。

 これで修羅界リコフォスに行くことが出来る。これで敬愛するひとに近付ける。

 やっと、人のトラキアを捨てることが出来た。

 ありがとう、人だった私。貴方のことはずっと好きになれなかったけど、愛しいひとに少しでも近付く為に必死で勉強した毎日はそれなりに楽しかったよ。

 そしてこれからは楽しくやろう、モンスターの私。笑って、怒って、自分に素直に生きてやろう。楽しく生きて、そして彼の役に立って死のう。それが私の生きる意味だ。

 推定十八歳、人族の私は神妖族のトラキアへと生まれ変わったのである。

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